第七章 愛しい眠りを

第27話 想いを乗せた名を

 黒い煙が昇っていく青空を、琥琅は見るともなしに見ていた。

 妖魔の首領との戦いから二日。玉霄関は昨日と変わらず、兵士たちが行き交って忙しない。負傷者の手当てやら死者の埋葬やら、幽鬼や妖魔の死体の始末やらといった後処理に追われているのだ。

 そのため、まだ関所の門は閉ざされたままなのだという。戦いは激しく、西域辺境側の門前には数多の死体が転がっている。戦乱とは無縁の民が正視できるものでは到底ない――――ということらしい。昨日からずっと、門前の死体の処理を最優先に兵たちは勤しんでいるのだった。

「お、琥琅殿。一人か?」

 城壁の人気のない一角でぼんやりと景色を眺めていると、背後から声がかかった。振り返ると、秀瑛が片手を上げて琥琅のほうへやってくる。右腕に包帯を巻いてはいたが、それほど深い傷ではない様子だ。

「白虎殿と天華は公邸か?」

「……どっちも寝てる」

 景色に視線を戻し、琥琅はそっけなく答えた。

 妖魔の首領を琥琅が屠ったあと、過激派たちは散り散りになって逃げていった。清民族への復讐のために彼らは妖魔の首領や幽鬼、妖魔を頼みに団結し、決起したのだ。憎悪以外の求心の核を失い、しかもまだ戦意みなぎる琥琅も健在となれば、勝てるとは思えなかったのだろう。それでもまだ戦おうとする者はわずかだった。

 そうして、秀瑛たちと共に玉霄関へ帰還したあと。琥琅たちは混乱を避けるため、いつぞやのときのように関令の公邸へ押しこめられた。翌日も外出の自粛を元仲から要請され、一日中関所の中でだらだらと過ごした。

 今日になってもそれは変わらない。むしろ時間が経ったことで、神獣たる白虎の主が青い異形の鳥と共に妖魔の首領を討ち、今は関令の公邸で身体を休めている――――という情報が関所周辺の天幕で開門を待つ人々のあいだに広がってしまっているのだという。事実なのかと兵士に問う者も少なくない。昨夜にいたっては、白虎見たさに不法侵入を試みる輩もいたとか。

 そんな状況なので、天幕が軒を連ねる区域へ行かないよう琥琅は雷禅と関令からは言われている。仕方なく午前中は療養中の天華や白虎と共に公邸の室で過ごしていたものの、やはり退屈で仕方がない。森の中ならまだしも関所の中は静かで何もなく、ぼうっとしているのも限度がある。

 それで琥琅は午後から、こうして気晴らしにと外套を被って関所の中を散歩しているのだった。

「雷、どこ?」

「雷禅殿なら外へ行ったぞ。あんたと違って、大して目立ってないからな」

「……」

 琥琅は口をへの字に曲げた。琥琅はちゃんと大人しくしていたのに、ずるい。

 秀瑛は喉を鳴らして笑った。

「機嫌とりの土産を買ってくるつもりだと言ってたから、許してやれ。あんたもまあ、白虎殿を連れずに顔を隠して軽くうろつくだけなら大丈夫だろ。要は、騒ぎにならないようにしてほしいだけだからな」

 と、秀瑛は関所の中原側の門前を指差す。

 琥琅は迷った。雷禅と一緒にいられないのはつまらないが、他に何が退屈しのぎになるのか。秀瑛を相手に鍛錬でもしようか。

 そんなことを琥琅が考えていると、そういやと秀瑛がいきなり話題を変えた。

「白虎殿って名はなんなんだ? 今まで深く考えずに『白虎殿』と呼んでたが、自分の名前くらいあるだろ」

「……」

 尋ねられ、琥琅は今更ながらそういえばと気づいた。確かに、『白虎』は彼自身の名ではないのだ。

 琥琅は首を振った。

「知らない」

「聞いてないのか?」

「あいつ、名前言わなかった」

 それに秀瑛たちは白い虎を連れていなかったし、道中に出くわすこともなかったのだ。『白虎』はあの神獣のことしか意味しないのだから、他の名を考える必要はまったくなかった。

「なら、聞いてみればいいんじゃねえか? 秦慶仲がつけたのかもしれねえし、元々あるかもしれねえし。もしなかったら、琥琅殿がつけてやればいい」

「俺が?」

 琥琅は目を瞬かせると、おうと秀瑛は大きく頷いてみせた。

「彗華は商業都市で、あちこちに白虎廟があるんだろ? 白い虎を連れてる旅の一座が来るかもしれねえし。『白虎』のままじゃ、綜家の当主たちも不便なんじゃねえか?」

「……」

 それはそうかもしれない。雷禅やその義父は毎日たくさんの品を売り買いするのだ。区別できるようにしたほうが彼らを困らせないだろう。

「清人の信仰でも甦虞人の信仰でも、力ある者がいい名を与えれば悪霊だの術だのから魂魄を守るっていわれてるからな。あんたは聖剣と白虎の主だと天に選ばれた秦慶仲の生まれ変わりだ。名付け親にはうってつけだろ」

「……!」

 琥琅は目を見開いた。

「……俺が名前つけたら、白虎守れる?」

「素人考えだがな。それに、主らしくていいだろ?」

 秀瑛はにかりと笑った。

 名を与える。たったそれだけで、そばにいなくても白虎を守ることができる。最低でも、悪霊や術に蝕まれないようにすることができると。――死なせなくて済むのだ。

 ならば、不要であるはずがない。

「……わかった。聞いてみる。なかったら名前、考える」

「そうか。いい名にしてやれよ」

 秀瑛は頬を緩める。

 そこに、黎綜がぱたぱたと駆けてきた。

「秀瑛様、準備が整いました」

「そうか。よし、じゃあ行くか」

 と、秀瑛は腰に手を当てて頷いた。遠出するようだ。

 気になって、琥琅は目を瞬かせた。

「どっか、行く?」

「ああ、吐蘇族の集落にな」

 それは苦笑と呼ぶには痛みが勝る、力ない笑みだった。声音は表情と同じ色。わずかな言葉なのに、複雑に入り混じったいくつもの感情が感じられる。

 琥琅は、告げられなかった秀瑛の目的を理解した。

 天華が来た翌日には吐蘇族の集落跡を発っていたから、秀瑛の死んだ部下たちの埋葬はまだ終わっていない。埋葬を終えた者たちが身につけていたものも、集落の比較的崩壊していない住居に隠してあるのだ。

 この男のことだから、そうした遺品も遺族のもとへ送り届けたりするのだろう。まったく情の厚い男である。

「集落へ行ったあとは、そのまま残党狩りをしながら彗華へ行く。伯珪や怪我が治ってねえ奴は置いていくから、気が向いたらあんたか白虎殿が話相手になってやってくれ」

「……気が向いたら」

 琥琅はそっけなく言う。琥琅の気が向くことはないだろうが、白虎は話したがるかもしれない。伏せって室に閉じこもったままなのも、身体に毒だ。

「彗華に着いたら、改めて礼をさせてくれ。あんたなしじゃ、妖魔の首領を仕留めることはできなかった。雷禅殿や白虎殿にも、助力を感謝していたと伝えてくれ」

「……ん」

「じゃあ琥琅さん、また会いましょう! 雷禅さんや白虎様にもよろしく言ってくださいねー」

 黎綜はぶんぶんと手を振ると、琥琅の返事も聞かずに去っていく。秀瑛はあっという間に遠のく小さな背中に苦笑すると自分も片手を上げて琥琅に別れを告げ、黎綜のあとを追う。

 二人の背をぼんやりと眺めながら、琥琅は白虎を思い浮かべた。

 養母は気まぐれで拾った人間の赤子を養女として育てると決めたとき、『身も心も美しく在るように』という祈りをこめて『琥琅』と名づけたのだという。どちらの文字も美しい玉を意味するから。

 養母が願ったように、美しく在ることができているかどうかはわからない。だが、養母がそうしたように、今度は琥琅が白虎に名づける番だというのはわかる。

 あの忠実で勇敢なしもべに相応しい、強さと賢さを表した良い名にしよう。

 琥琅は強く思った。

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