第28話 失くしたものと変わらないもの

 琥琅が目を開けると、健やかな呼吸が聞こえる室の中だった。

 窓から差しこむ月明かりが室内を照らしている。装飾や余計な調度、装飾品のない質素な室だ。綜家の屋敷にあてがわれた、琥琅の室ではない。

 ぼんやりした思考で目を凝らしていると、琥琅はここが関令の公邸の一室であることを思いだした。そう確か、夕餉を食べたあと寝台に横になってすぐ眠ってしまったのだ。結局薄絹で顔を隠して露店を冷やかしていた。

 琥琅は起き上がると、月光に淡く照らされる腕釧を見下ろした。

 雷禅に預けていたこの腕釧は、妖魔の首領を仕留めたその日のうちに雷禅が返してくれていた。過激派に捕えられたとき荷を取りあげられていたそうだが、雷禅はこの腕釧だけ服の袖に隠して守りきったのだという。

 取りあげられていた荷も、翌日には黎綜が持ってきてくれている。奪われてしまった物もあったが商売絡みの重要なものは無事だったので、雷禅は胸を撫で下ろしていた。

 腕釧に頬を押し当て硬く冷たい感触を楽しんだあと。琥琅が首をめぐらせると、扉の近くで白虎は眠っていた。白と黒の毛並みが規則正しく上下に動いている。

 けれど本来なら隅々まで美しい毛並みは、怪我でいくらか乱れている。死闘で負った傷は深く、玉霄関へ入るときも荷車が必要だったのだ。そのためこの室に案内されてからというもの、白虎はほとんど出ずに身体を休めていた。

 白虎は生きている。そうわかっていても不安がこみ上げてきて、琥琅は静かに寝台を下りた。ぺたんと床に座りこんで、眠りに沈む白虎を見下ろす。

 白虎の背を撫でていると、丸い耳がぴくりと動き、青い目がゆっくりと開かれた。

〈……主、お目覚めになられましたか〉

「ん」

 頷き、琥琅は白虎の頭を撫でた。喉を掻いてやると、白虎は気持ちよさそうに目を細める。

〈主。主がお眠りになったあと、雷禅が室に来ました。主はお眠りだと伝えると、すぐ帰りましたが〉

「雷、来た?」

〈はい。主に何か用があったようでしたが……〉

 用。琥琅は首を傾けて考えてみたが、思い当たらず目をまたたかせる。何か頼みごとでもあるのだろうか。

 少し考えて、琥琅は立ち上がった。

「聞きに行く。白虎、寝てろ」

 わからないなら、本人に聞くのが一番だ。寝てしまっているかもしれないけれど、それならそれで寝台にもぐりこめばいい。

 琥琅が室を出ると、明かりがぽつぽつと灯る廊下は人気がなく、静寂を裂くように、屋敷の外から唸り声のような風の音が聞こえてきていた。昼間には届いていた公邸の外からの賑わいはなく、あれが夢だったかのようだ。

 琥琅が隣の室の扉をそっと開けると、雷禅は起きていた。結っていた髪を下ろし寝間着に着替え、窓辺に置かれた椅子に座って窓の外を眺めている。

 振り返った雷禅は琥琅を見て驚いた顔をした。

「琥琅? 起きたんですか? じゃなくて、どうしてこんな時間にこっちへ」

「雷、来たって聞いた」

「ああ、あれは別に急ぐことじゃ……って」

 言いかけ、琥琅が室に入って扉を閉めたのを見て雷禅はぎょっとした顔になった。

「琥琅、なんで室へ入ってきてるんですか。勝手に人の室へ入るのは駄目だって、いつも言ってるでしょう」

「やだ」

 雷禅の抗議を無視し、琥琅は彼のそばに腰を下ろした。室内を見回して首を傾ける。

「天華、どこ?」

「……彼女なら厩舎ですよ。遼寧や玉鳳と話がしたいというので、あちらへ連れて行きました」

 雷禅は顔の半分を手で覆い、ため息をついて答える。琥琅がてこでも動く気がないことを理解して、諦めたのだろう。

「さっき貴女の室へ行ったのは白虎の加減を見るためと、夜明けに関所の封鎖が解かれることを貴女に伝えるためですよ。開門の準備が整ったそうでして。すでに通達もされています」

「……」

「僕たちはまだ彗華へ行きませんが、関所の封鎖解除による混雑に乗じて、貴女や白虎を一目見ようとする者が増えることが予想されます。そういうわけで、すみませんが明日もこの邸にいるか、人前へ出るなら外套を被るようにしてください」

「ん。わかった」

 琥琅はこくんと頷いた。どうせ明日は剣の稽古をするつもりだったのだ。問題はない。

「…………何ですか琥琅」

 頷いてからも琥琅が見つめていると、雷禅はたじろいだ。それを見て琥琅はやはり、と確信する。雷禅は本当に、隠すのが下手だ。

「雷、どうした?」

 遠回しにせず、はっきりと琥琅は尋ねた。

 室に入って一目見たときから、琥琅は雷禅がおかしいことに気づいていた。まとう雰囲気がいつもと違うのだ。それにさっきの連絡もどうにも言い訳がましい。人前に出たがらない琥琅に、急いで伝える必要はない。

 琥琅の勘は正しく、正解は、ほどなくして明らかになった。

「…………貴女の勘には敵いませんね」

 観念したとばかり、雷禅は苦笑した。けれどそれもすぐに失せ、藍色の目は窓の外に向けられる。

「…………吐蘇族の過激派の中に、顔見知りの人たちがいたんです。義父上の手伝いをし始めた頃から知っている人も、あの集落へ行ったときに知りあった人もいました」

「……」

「……でも、怪我をさせてしまいました」

「あいつら、雷襲った。当然」

「そうかもしれません。でも、話をした人たちなんです」

 雷禅は緩々と首を振った。

「色々と教えてくれて、助けてくれて。頑洞殿とは、やっとあの西域府君がいなくなったって、一緒に笑いました。首謀者の朱利殿も、僕によくしてくれた人で……他にも取引先だった人がいて……」

「……」

「なのに、彼らと戦ったんです。彼らがそれほど西域辺境や清民族に憎しみを抱いていることを…………僕は知らなかったんです」

 そう、雷禅は広げた両の手のひらに目を落とすと、目を伏せる。琥琅は、それを黙って見つめた。

 雷禅がどうしてこんなに悩んでいるのか、琥琅には理解できない。神連山脈では少し言葉を交わした程度の獣に命を狙われるのが珍しくなく、いずれ殺しあうことを当たり前と考えなければ生きていけなかった。たとえば秀瑛や黎綜が目の前で殺されても、琥琅の心はわずかも動かないだろう。

 だが理解できなくても、こうして雷禅が落ちこんでいるのを見れば心が動く。彼の心を傷つけた過激派の者たちを許せないし、彼らがしたことに雷禅が傷つかなくていいとも思う。

 だから琥琅は膝をつくと、雷禅の腕を抱きしめた。

「ちょっ琥琅!」

「雷。俺、雷裏切らない」

 頬を染めた雷禅の抗議を無視し、琥琅は宣誓した。

 躾けられた犬や猫のように誰かに服従するなんて、誇り高い虎仙の養女としてあるまじき生き方だと思う。養母もきっと、今の琥琅を見れば呆れ果てるに違いない。

 だがもう駄目なのだ。琥琅は雷禅なしではきっと生きていけない。この男が死ねば今度こそあの荒野でさまよった果てに野垂れ死んで、獣や虫に食われてしまうに違いないのだ。

 飢えのような想いの理由が魂の結びつきかどうかなんて、どうでもいい。自分がこの男を望んでいる。他に何があるというのか。

 この人を失くさなくてよかった。ぬくもりを感じて、琥琅は幾度目かの安堵を味わう。

 目を大きく見開いた雷禅は、唇をゆがめ引き結び、瞳を震わせた。

「ええ。……わかってますよ。貴女は僕を裏切らない。僕を必ず守ってくれる」

 少し泣きそうな目で、それでも微笑んで雷禅は言うと、包帯を巻いているほうの手で琥琅の頭を撫でた。

 深い憂いの空気はほどけ、いつもとは少し違う、穏やかな色が彼を包む。琥琅は嬉しくなって、彼の腕を抱きしめる力を強くした。

 穏やかな沈黙が下りて、どれくらいの時間が流れたのか。雷禅は琥琅を見下ろした。

「……琥琅、僕はもう大丈夫ですから。そろそろ放してください」

「……」

「琥琅」

「……わかった」

 強く名を呼ばれ、琥琅は渋々腕を放す。もっと抱きしめていたかったのだが、雷禅には逆らえない。

「それと琥琅、自分の室で寝ましょうね。怪我をした従者を放っておいては駄目でしょう」

「ここ、安全。心配ない」

「駄目です。前に言ったでしょう。夫婦ではない男女が夜中に同じ室にいるのは、他の人に見られるのはよくないんです」

 琥琅がじとりと見上げると、琥琅の不満を察した雷禅は釘を刺してくる。何故かやや顔が引きつっている。忙しなく瞼を瞬かせている様子は、どうやって離れさせようかと必死で考えていることの証拠でしかない。

 しかし琥琅とてここは引けないのだ。関所の中で過ごしているあいだ、琥琅が雷禅のそばにいられるのは食事のとき以外あまりなかった。ましてや普段は聞くことのない弱音を聞いたばかりなのである。まだ雷禅のそばを離れたくない。

 このままでは、雷禅は室に帰るよう琥琅にきつく言い渡すだろう。そして琥琅はそれに逆らえない。どうすれば、一緒にいられるだろうか。

 考えていると、琥琅の頭にひらめくものがあった。

「……褒美」

「……は?」

「俺、妖魔倒した。強いのも、弱いのもたくさん。だから、褒美」

 唐突で脈絡のない一言に目を丸くする雷禅に、琥琅は無表情なようでいてその実期待に顔を輝かせてたたみかけた。

 綜家の邸で琥琅に勉学を教えてくれる老師はよく、琥琅が試験でいい点をとると褒美をくれるのだ。宝石やら硝子玉やらが多いが、たまに珍獣の見世物に連れて行ってくれることもある。琥琅が光りものを好み、猛獣の臭いを恋しがっていることを老師は知っているのだ。

 価値ある労働や商品、よい結果には正当な報酬を。それが綜家の商売と労働の鉄則であることは琥琅も知っている。ならば、妖魔退治にも褒美があっていいはずだ。

「そんな滅茶苦茶な……」

「雷」

 雷禅が呆れかえった表情をするものだから、琥琅はふくれて強く名を呼んだ。雷禅は口をへの字に曲げ、視線をさまよわせる。

「…………ああもう、わかりましたよ」

 後頭部をかいて投げやりに雷禅は言った。諦めを通り越して考えるのが面倒になった、といったふうである。

 それでも、ただしと条件を付け足すことは忘れなかった。

「夜が明ける前に、自分の室に戻ってくださいね。もちろん、人に見られないように」

「ん」

 早く起きて出て行けと言外に言われているわけだが、こくんと頷く琥琅はまったく気にならなかった。久しぶりに雷禅と一緒に眠れるのがただ嬉しいのだ。頬は緩みっぱなしだった。

「さあ、もう寝ますよ、琥琅」

「ん」

 促され、琥琅は寝台に上がって横になった。すぐ雷禅は琥琅に布団をかけ、自分も中に入ってくる。

 彼がどんな顔をしているのかは、月光が届かない寝台の上の濃い陰影のせいで琥琅の優れた視力でも定かではない。ただ、互いの体温と息遣いを感じるだけだ。

 不意に、布の擦れる音がした。かと思うと、琥琅の身体を温かなものが包む。

「雷?」

 雷禅に抱きしめられているのだと理解して、琥琅は目を丸くした。

 彼はこういうことが嫌だと常日頃から言い、琥琅が抱きつこうとしても逃げていたのに。一体どうしたのだろうか。

「今回は特別です。……『ご褒美』ですから」

 捻りだす、という表現が相応しい調子で雷禅は言う。だが、暗闇の中でも琥琅と目を合わせないようにしているだろうことは確信できた。布地越しの身体が緊張している。鼓動だって速い。

「義父上たちには内緒ですよ。……特に義母上と義叔父上には、絶対に言わないでください」

「ん」

 雷禅のいつもの、そして強い念押しに琥琅は思わず頷いた。

 仕方ない。あの二人はどちらも雷禅をからかうのが好きなのだ。人間社会では夫婦になる前の男女が同じ寝台で眠るのはあまりよくないことらしいから、これはからかいの格好の材料に違いない。

 どれだけの沈黙が降りたのか。やがて、健やかな寝息が聞こえてきた。雷禅の身体の強張りも解け、深い眠りに沈んだのが琥琅の全身に感じられる。

 琥琅は規則正しいその音に耳を傾け、ほうと息をついた。

 吐息が触れるどころか、二人を隔てるものは布地だけの距離だ。布団の中はあたたかく、寝息とかすかに上下する腕の動きが、雷禅の安らかな眠りを琥琅に伝える。

 ――雷禅は、生きている。

 そう感じるだけで、琥琅の心が安らぎと幸福に満たされていく。自分の世界は不安に揺らいでも潰れることはなく、今も確かに存在しているのだと確信できる。

 ――この身体は冷たくなどない。

 彼がどうして添い寝を許し、琥琅を抱きしめて眠ることにしたのかわからない。彼はまた嘘を言ってる。表情はわからなくても、筋肉の動きや吐息が彼の緊張を表していたのだ。わからないはずがない。これは、褒美ではない。

 でも、雷禅の腕の中にいる今、そんなことはどうでもよかった。今こうして、彼の腕の中にいる。それだけでいいではないか。

 雷禅の腕の中は、ただ温かい。布団の外にも冷たいものや悪いものといった、二人の安全な眠りを邪魔するものは何一つない。

 恐ろしいものは何もないからだろうか。琥琅に冴えた意識に眠気の霧が次第にたちこめていく。琥琅はそれに抗わず、呼吸を緩やかにした。

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