第19話 憎悪の民・二

 その男を雷禅は知っていた。この集落の住民で、吐蘇族の重鎮の一人だ。綜家の隊商が集落の外で滞在しているあいだ、雷禅は彼に吐蘇族のことを教わったものだった。

 彼もまた雷禅を覚えていたようで、痛ましそうに顔をゆがめた。

「何故ここへ来た、雷禅殿。追放令が廃止され、彗華へ戻ったのではなかったのか」

「ええ、戻ってましたよ。でも、貴方たちの真意を確かめるために来たんです。……中原での商談から戻る道中、沙玻珂さはか殿たちが玉霄関に幽鬼を放とうとしているのを見つけましたから」

 そこで雷禅は言葉を切り、ぎゅっと両の拳を握りしめた。

「どうしてですか、朱利しゅり殿。何故こんなことを……!」

「何故、と? そんなもの、決まっているだろう」

 雷禅の問いに朱利はぎらりとした眼光を返した。

「貴方ならわかるはずだ。ただ清人ではないというだけで家族や友人を殺された、私たちの怒りと憎しみが」

「……!」

「綜家の跡取りでありながら、その身に甦虞人の血が流れているというだけで彗華を追われ。美しいというだけで同じく混血の母親を奪われそうになった貴方なら、この憎しみはわかるはずだ」

「っ」

 憎悪を煽りたてられ、雷禅は返す言葉に詰まった。

 そう、理解できる。雷禅も自分が処刑されずに済んだだけで、見知った者たちが追放されたり処刑されたのだ。それに義母も実家へ逃げる前、その美貌ゆえに先代西域府君の妻妾の一人にさせられそうになった。心ある官吏がひそかに教えてくれたおかげで難を免れたものの、一歩間違えれば義母は連れ去られていただろう。

 雷禅は異能を実の家族に受け入れてもらえず疎まれ、幼くして邸を自ら飛びだしてあちこちをさまよっていた過去がある。だからこそ、薄汚れた浮浪児だった自分の才能をわずかなやりとりから見出し、跡取りとして愛情深く育ててくれた義両親は恩人である以上の存在だ。そんな人を奪われそうになったあのときほど、雷禅が他者に対して怒りを覚え、憎しみを感じたことはない。

 言い返せない雷禅に代わって口を開いたのは、伯珪だった。

「っなら、何故この集落を襲った! 兵たちはまだわかる、だがここに住んでいた者たちは、お前たちの同胞だろう!」

〈我の復活を邪魔しおったからだ〉

 伯珪の問いともつかない叫びが朱利にぶつけられた直後。ねばりつくような毒々しい声がその問いに答えた。

 突然、どこからともなく聞こえてきた声は、禍々しい気配を伴っていた。集落の外から漂ってきていた気配と同一だが、比べものにならないほど濃厚で恐ろしい。声と同様、そこに存在しているだけでおぞましいものが体内に入りこんでくるような錯覚にさえ囚われる。

 狼の図体に様々な生き物の一部を混ぜたような化け物が、雷禅たちの上空から降りてきた。巨躯はいたるところが傷つけられ、そこから血だけでなく気配と力が流出している。

 琥琅と白虎がつけたのだ、と雷禅はわけもなく確信した。白虎は神獣であり、琥琅はその主なのだ。ならば、妖魔の首領に傷を負わせても何の不思議もない。

 朱利は妖魔の首領を見て、痛ましそうに顔をゆがめた。

「おお、神よ、その傷は……」

〈あの忌々しい白虎と、その主の仕業よ。まったく、当代でも我の邪魔をする……〉

「なんといたわしい……すぐ水をお持ちいたします」

 痛ましそうに言い、朱利は賛同者に水を持ってくるよう指示する。別の者には妖魔の首領の手当てをするよう命じた。――――まるで、恐れ敬うべき尊い存在であるかのように。

 伯珪は声を荒げた。

「その妖魔が神だと? どこが神だ、人間をもてあそぶ妖魔じゃないか!」

「ふん。生け贄を求めるから、恐ろしい姿をしているから神ではないと? ならお前たちは干ばつのとき、雨乞いをしないのか? 堤を造る際に人身御供をしないと? 神が生け贄を求めるのは、当たり前のことだろう」

 伯珪の指摘に対し、朱利は嘲るように鼻を鳴らした。

「この方はかつて、我ら吐蘇族が崇める神だった。だがお前たち清人がこの西の地を我がものにせんと攻めた折、妖魔と貶め、あの魔獣を使ってほろぼそうとしたのだ。そのせいで我らは破れ、お前たちの支配下に下らねばならなくなった。我らからすれば、あの獣こそ天の使いを騙る妖魔、お前たちこそ邪悪の権化だ……!」

「……!」

 告げられた事実に、雷禅は言葉を失った。

 この妖魔としか思えない異形が吐蘇族の古い神だというのは、ありえない話ではない。祭祀の対象だと思えばどんなものでも祀るのが人間だ。それを祀るのか言いたくなるものまで祀る土着信仰は、西域辺境でも現存している。

 清国の建国前の乱世で、清民族は神獣や神仙を味方につけていた。敵対した異民族を守護する人外たちも参戦していたとしても、何の不思議もない。建国前の乱世はそうして人間もそうでないものも入り乱れ、壮絶な殺しあいが繰り広げられていたに違いない。

 伯珪は朱利をぎっと睨みつけた。

「っだとしても! 先代の西域府君は更迭され、他の者も罰せられ、弾圧政策はすべて廃止された! 秀瑛様はあのようなことをなさらない。こんなことをしても、吐蘇族の立場が苦しくなるだけだ!」

「それがどうして信じられようか! 先の府君とて、まともな統治者のふりをして豹変したではないか! 新しい府君がまた豹変せぬと、どうして言いきれる!」

 朱利は激しい声で伯珪に怒鳴り返した。

 それに応じるように、戦士たちを覆い尽くす靄のような殺意もまた増大した。幽鬼たちまでもがつられ、獲物を欲する目で雷禅たちを見る。

 憤怒と憎悪が死気を呼び、雷禅たち異民族から言葉を奪った。馬たちはもう混乱することもできず、ただ震えるだけだ。

〈ふふふ、その意気ぞ〉

 絶句する雷禅たちと負の感情を撒き散らかす吐蘇族を眺める妖魔の首領は、ぶるりと首を震わせ目を細め、そう嗤った。

〈ああ、心地よい波動よ…………我が民よ、憎め。もっと憎むがいい。憎しみこそ我が糧。長きに亘る我らの悲しみと憎しみをぶつけるがいい〉

 そう妖魔の首領が言葉を紡ぐほどに、周囲に満ちる負の感情は力の奔流となり、妖魔の首領の傷口へ流れこんでいった。それに伴って、傷口から流れる血が目に見えて少なくなり、反対に妖気が増していく。

「…………!」

 雷禅は唐突に理解し、大きく目を見開いた。

 この妖魔は吐蘇族の負の感情を糧にするのだ。それは神として崇められるからか、他に理由があるからなのか。ともかくこのような性質であるなら、古代の吐蘇族が神と崇めたのも当然だろう。

 清民族に攻められた折。人外に吐蘇族は助けを求め、この妖魔はそれに応じるも敗れた。そして敗れた民族の神を、吐蘇族の者たちは洞窟でまだ祀っていたのだろう。異民族の守護獣に敗れても、今まで祀り縋ってきた神を捨てることができなかったから。

 清民族は従わせた異民族の文化を奪うことはせず、清国が成立してからも歴代皇帝は融和政策を続けていた。ほろんだ神を祀ることは簡単だったに違いない。

 吐蘇族に祀られてからのはるかな歳月、この妖魔の身体は一体どれほどの憎悪を吸ってきたのだろうか。吐蘇族をはじめとする異民族が清民族の緩やかな支配に馴染んでからは、憎悪の吸収は少なくなっていたはずだ。人々が祈りを捧げることはあっても、それは復讐ではなく豊穣や繁栄で。だから清民族の商人たちは異民族と交易していたのだ。

 なのに、世代と交流を重ねることで保たれていた友好を先代の西域府君が壊してしまった。ついに理由を明かすことのなかった、理不尽な弾圧によって。憎悪の神に復讐の祈りを捧げる理由を吐蘇族に与えてしまったのだ。

 かくして、古にほろんだと思われていた人ならざるものは民の憎悪を吸って復活した。だが一部の者たちが主張する復讐に、この集落で暮らす神を祀る神官たちは反対したのだ。でなければ、過激派か妖魔の首領に殺される理由がない。

 そして、おそらく。死者の亡骸は幽鬼として利用されたのだろう。だから西域辺境のいたるところで幽鬼が出没しているのだ。

 殺される、と雷禅は思った。

 あの朱利でさえ憎悪をあらわにし、祀る神の傷を癒す糧となっているのだ。彼はもう、雷禅の命を救おうとしたりしないだろう。伯珪たちは言うまでもない。

 雷禅にとって吐蘇族は、心惹かれる不思議な文様の織物を織る穏やかな民族という印象が強かった。優しい色調と曲線の多い文様が特徴的な織物を見ることが多く、言葉を交わした吐蘇族の人々も大抵が温厚な気質だったのだ。勇猛と文献では記述されることが多い民族であるが、雷禅にはそれこそ違和感がある形容だった。

 ――――そのはずだったのに。重ねた記憶が、粉々に砕けていく。

 もう死ぬと思ったことはこれが初めてではない。義父に拾われる前や西域辺境を隊商で旅していた頃、何度も命の危険を感じた。先日、妖魔の群れに襲われたときだってそうだ。

 それでも死ぬのは怖い。無条件の恐怖が全身に満ちて、思考がほとんど停止している。

 それに。

「…………琥琅と白虎殿はどこです」

 かすれた声で、誰に向けてでもなく雷禅は問いかけた。

 琥琅たちが追った気配は、妖魔の首領のものだった。ならば、琥琅たちはどこへ行った。集落の異変を察知し、駆けつけてくるはずではないのか。

〈あやつらなら、今頃は岩の下だ。運が良ければ生きておるかもしれんがな。さて生きておるかどうか……〉

 妖魔の首領は嘲笑する。無力な人間の希望を奪うことを楽しむように。

 雷禅の思考は完全に停止した。

 岩山は黙として何も語らない。誰も躍り出てこない。

 琥琅は雷禅を助けてくれない。――――――――こんなにも窮地なのに。

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