第18話 憎悪の民・一
一体何を忘れているのだろうか、自分は。
吐蘇族の集落を離れ、低木がささやかな日陰を作っている一帯で待機することにしたあと。崖から吐蘇人の集落の方角を眺めながら、雷禅はそう自問した。
集落を出たとき――――琥琅と離れてからというもの、雷禅は気持ちが落ちつかないでいた。彼女に何か言わなければならなかったはずなのにと、後悔に似た気持ちが胸の奥でくすぶっているのだ。
何故なのか、何を言えばよかったのかはわからない。だが、言わなければならない言葉があるということだけは強く胸に焼きついて、消えない。
この奇妙な物忘れはこれが初めてではない。神連山脈で幽鬼に襲われた日の翌日以来、何度か似たようなことが起きている。
朝起きると琥琅か白虎に何かを言わないといけないような衝動に駆られるのに、いざ話そうとするときには忘れてしまっているのだ。そのくせあとになって、何かを言わなければならなかったのだという使命感だけを思いだす。
一度あったきりならともかく、二度三度と同じようなことが続くとさすがに不気味になってくる。そのうえ、この後悔とも焦りともつかない感情。
いくら自分は異能持ちだといっても、夢に関する異能は持っていない。こんなの異常だ。
そこで気になるのは、神連山脈で白虎が言っていた言葉だ。雷禅が彼や琥琅の養母の戦友と似た気配をしているという。
琥琅が白虎の主の生まれ変わりであることについては、本人の生い立ちや気性も含めて納得できる。だが、自分も彼女の前世と関わりがあるとはどうにも信じがたい。天華は雷禅の異能を稀なものだと評価しても、魂については何も言っていないのだ。
しかしこうも続いていると、白虎の感覚と関連づけたくなる。
もっとも。仮に自分が琥琅の前世と関わりある人物の生まれ変わりだったとして、だからどうしたとしか思えないのだが。
理解不能な物忘れがこれほど気になっているのは、自分が琥琅の力になれていないことを改めて実感しているからかもしれない。雷禅は自嘲した。
殺意にまみれた琥琅を見たくはないし、自分は足手まといなのもわかっている。だから大人しく、ここへ避難してきたのだ。
それでも、琥琅が戦っているあいだに自分は何もせずにいるのが落ち着かない。何かしなければならないのに、という焦燥感が消えない。
そんなふうにそわそわしているのが、傍から見ても明らかだったのか。雷禅に誰かが近づいてきた。
「そんなに気にしてもしゃあねえだろ。少しはぼうっとしとけ」
そう言ったのは、秀瑛の部下だ。暇潰しに辺りを見回しでもして、雷禅の様子を見つけたのだろう。
「‘人虎’なら大丈夫だろ。何かあってもうちの大将がついてるし、何より、あの‘人虎’があんたのところに帰ってこないわけがないからな!」
「……そうですね」
絶対誤解されてますよね、と思いつつ、雷禅は秀瑛の部下に棒読みで返した。
この手のからかいはいつものことだからもう慣れてしまって、修正する気にもならない。視界の端で遼寧がにやにやしているような気がしてならないのだが、これも無視する。
秀瑛の部下が離れていってから、雷禅は長い息を吐きだした。
まったく、どこをどうすれば自分と琥琅の関係が色恋沙汰に見えるのか。これまでの旅路で、雷禅がどれだけ琥琅に手を焼いているのかさんざん見てきただろうに。
雷禅としては、それがどうにも切ないのだが。
本当に、どうしてあんなけだもの娘に惚れてしまったのか。自分の趣味の悪さに雷禅はいつも頭を抱えたくなる。いくらなんでもあれはないだろう。
精神年齢が幼いどころではないし、しとやかと無縁だし、非常識だし。一体どれほど苦労ざせられたことか。正直なところ、出会ってからというもの迷惑をかけられた記憶しかない。普段彼女の容姿に見惚れることがないのも、きっとそのせいだろう。
まあ。一心に慕ってくれるのは可愛らしいと思うのだが。素直で無邪気で、表情に出さないだけで感情は豊かだし。雷禅を振り回す一方で雷禅の反応を常に気にして、嫌われまいと大人しくなるのも甘やかしてやりたくなる。
そう。出会ったときからあのけだもの娘は何故か雷禅に忠実だった。兄弟子と言っていい瓊洵に心を開くようになったし雷禅の義母にも懐いているが、執着をむき出しにするのは雷禅だけなのだ。
まるで、この世で雷禅だけが自分の居場所だとでもいうかのように。
瓊洵に世話を頼まれたからだけではない。猛獣の孤高と呼ぶにはあまりにも頼りなく、途方に暮れた小さな子供を思わせるありようを雷禅は放っておくことができなかった。
――――居場所を失くしてどこへ行けばいいのかわからず、さまよい続ける心細さは雷禅にも覚えがあるから。
そうして振り回され苛々しながらも、琥琅がまともな人間のふりをできるよう根気強く教育係を務め――――その結果がこの恋情だ。
今のところ、琥琅は雷禅に懐いている。しかしそれは雷禅が望む形ではなく、雷禅への恋情に変わる見込みもかなり薄い。絶望的と言っていい。
そのくせそばにいたいとまっすぐ感情をぶつけてきて、雷禅が肌の奥深くまで触れたいと望めば従順に応じるに違いないのが余計に泣けてくる。
そんな琥琅の羞恥心のなさと一途さを前に、全速力で逃げだす自分の意気地のなさにもため息しか出ない。
少しくらい踏みこんで触れたほうが琥琅は喜ぶと、わかってはいるのだが――――。
「……?」
唐突に何か引っかかるものを感じて、雷禅は意識を思考から眼前の景色に映した。
考えに沈む前までと変わりない景色だ。乾いた大地と雲がほとんどない青空。琥琅たちが向かった岩山。その周辺には吐蘇族の集落もあるはずだ。
「? 雷禅さん、どうしましたかー?」
近くを歩いていたのか、黎綜が不思議そうな顔をして近づいてきた。雷禅と同じように崖を見る。
雷禅は緩く首を振った。
「……いえ、少し気になっただけですよ」
そう、気になっただけだ。琥琅がとても怒っているような気がしたから、振り返っただけ。洞窟の中へ調査しに行った彼女が怒ることなんて、あるはずないのに。
言いようのない不安を抱え、渇いた風の音を聞いていたのはどれほどだったのか。突風が吹き、雷禅たちはとっさに目を瞑り口を固く閉じ、身を縮めて砂風をやり過ごした。風に含まれる砂が、外套では隠せない顔や首を撫でていく。
耳元でいくつもの音をたてる砂混じりの風の中で、雷禅は異質な音を聞いたような気がした。
風が止み、少し離れたところで黎綜が他の兵士たちと何かを話している。けれど雷禅の耳にそれは入ってこなかった。開けた目で、集落があるほうをまた凝視する。
やはり、何も変わったところがあるようには見えない。
けれど雷禅は、さっきの異質な音が聞き間違いだとは思えなかった。あれは間違いなく、悲鳴や怒号、金属がぶつかりあう音だった。
「……」
今、集落では秀瑛の部下たちが遺体の埋葬をしている最中だ。外れのほうへは、琥琅たちが調査に向かった。生存者が見つからなかった集落には、他に誰もいないはず。そう、誰も。
でも――――――――
嫌な想像が働いて、雷禅の背筋が寒くなったときだった。
突如、轟音が鳴り響いた。地響きが雷禅の足元にまで伝わってくる。
「な、なんだっ?」
「おい、あの崖が……!」
ぎょっとした顔で、年嵩の兵が崖を指差す。雷禅はその指が辿る先に目を向け、絶句した。
吐蘇族の集落を足下に置く岩山の一部が突如、雷禅の眼前で崩落していた。むきだしの崖を成す岩や岩が、次から次へと崩れていく。土煙が黙々と立ち上り、一片の雲も見当たらない空に異物を混じらせる。
あの岩山のほうへ、琥琅たちが向かっていったのに――――。
「……っ! 遼寧、お願いします!」
〈はいよ坊ちゃん!〉
矢も盾もたまらず、雷禅は遼寧に飛び乗るや、腹を蹴った。遼寧はそれより早く、集落へ向かって走りだす。黎綜たちも慌ててその後をついてくる。
けれど雷禅たちは、琥琅たちが向かった場所へ辿り着くことができなかった。
「っ…………!」
兵たちによって遺体が丁寧に埋葬されたはずの集落には、新たな死体がいくつも転がっていた。大半は秀瑛の私兵だが、幽鬼や真っ黒な妖魔も混じっている。
その血の海には、返り血を浴びた幽鬼が何体か立ち尽くしていた。そして、独特の意匠の身なりを着た人々――――吐蘇族の者たちも。
彼らはゆっくりと振り返って雷禅たちの存在を認識するや、うつろな、あるいはぎらついた目に殺戮の意思を宿した。そうして雷禅は、いつの間にか自分たちが幽鬼や吐蘇族の男たちに囲まれていたことにようやく気づく。
何十人いるのだろうか。全員が様々な民族衣装をまとい顔に赤い化粧を施して、幅広の武器を手にしている。武器を持つ姿はさまになっていて、日頃からそうした鍛錬を積んでいる戦士なのだとすぐに知れた。
一体いつから、彼らは雷禅たちを監視していたのだろう。彼らは、獲物が分散するのを待っていたに違いない。雷禅たちを手始めに襲わなかったのは、一番弱い集団だから後回しでも構わないと考えたからか。その代わり、自分たちの同胞を埋葬している兵を襲ったのだ。
罠にはめられたと気づいても、もう遅い。
「くそ、囲まれた……!」
「秀瑛様はどこだ!」
予想外の事態に、さすがの兵たちも動揺を隠せない。剣を抜き戦闘態勢をとりながらも、どう動けばいいのかわからないでいた。馬たちも異様な空気に怯え、興奮している。
敵意の刃を向けてくる者たちの中に助けを求め、男たちを見回した雷禅は、割れた人垣の奥から現れた人を見て瞠目した。
「伯珪殿!」
後手に縛られ連行されてきた伯珪が、突き飛ばされてよろけた。黎綜が駆け寄り、傷つき疲れきった様子の伯珪を支える。傷ついた仲間の姿に秀瑛の私兵たちは色めきたつが、しかしこの状況では何もできない。悔しさに歯噛みするだけだ。
人垣の穴を塞ぐように、三十代の男が姿を現した。戦士たちの中でも一際立派な身なりをしていて、頬に長い刀傷がある。地位の高い者であることは、一目でわかる。
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