第17話 死闘

 琥琅と白虎を先頭に、かすかに漂う気配を追い始めてすぐ、気配がどこから流れているのか琥琅たちは知ることになった。

 集落からそう離れていないところに、洞窟があった。出入り口の形や施された装飾からすると、岩山の岩肌を削って造られた人工的な洞窟だろう。

 不愉快な気配はますます強まり、琥琅の神経を逆撫でする。

「氷室とかじゃなさそうだな……神事のためかもしれねえな」

〈気配はこの奥だ……いるぞ〉

 秀瑛の呟きに応じ、白虎が真っ先に洞窟へ足を踏み入れた。琥琅はその後に続き、さらに秀瑛や伯珪、兵たちが続く。誰かが点けた明かりが、琥琅の背後から先々を照らした。

 日差しがきつく汗ばむ外界とは裏腹にひんやりとした内部は、一本道なので迷う心配はなかったが、人工的に掘られたにしては随分と奥まで掘られている。外からの光が届かなくなってもまだ続いていて、道幅も広く高さがあり、荷車一台くらいは余裕で引くことができるくらいだ。蝙蝠の一匹も見当たらず、糞もない。

 琥琅が感じていた何かの気配は、今やこれまでとは比べ物にならないほどの重圧を帯びていた。これは人食い熊や狼の群れ、本気になった養母や瓊洵とは異なる気配だ。

 殺気や覇気、威厳、闘気と呼べるようなものではない。そういうものとは根本から違う、禍々しい力。

 不快や気持ちや強い警戒から、心の臓が早鐘を打つ。こみ上げる駆けだしたい衝動は、抑えつけなければならない強さだ。今すぐこの気配を確かめねばならないと、心が逸る。

 不意に、奥から音がした。琥琅にとっては馴染み深い、懐かしい音の連なりだ。――――臭いも、ついさっき嗅いだばかりのもの。

 やがて琥琅たちの前に、煌々と明かりが灯る開けた空間が現れた。

 天井は高く、正面には岩壁を彫刻して造られた祭壇がある。壁の他の部分にも独特の様式による絵が描かれており、祭事のための場所なのだと琥琅でも理解することができた。

 しかし、あの建物の中で行われるような厳かなものが今行われているのではないことは、一目瞭然だった。

 祭壇の前の空間には、何体もの死体がある。男女を問わない死体は、十はあるだろうか。ほとんどが成人だが、中には幼い子供の亡骸さえ無造作に置かれていた。

 そしてそこに、うずくまる闇がある。

 音をたてながら身を揺する、妖魔の気配の源。

 闇が真っ赤な口を開けている。――いや、真っ赤なものが口の周りについているのか。

「――――!」

 琥琅も含め、全員が言葉を失くした。

 その光景は、琥琅がよく知っているものだ。山で毎日のように見た。生き物が殺したばかりの獲物を食らう光景。

 けれど、これは――――。

 闇が難儀そうにゆっくりと頭を上げた。爛々と真紅に輝く二つの目と、数多の目が琥琅たちを見る。

 泥のような質感の闇は、見えない殻を打ち破ろうとするかのようにあらゆる方向へ伸縮を繰り返し、やがて一つの形となった。

 それは、並みの成年男子よりも二倍は大きな身の丈の、灰黒の毛並みの狼のような形をしていた。けれどその背には蝙蝠のものに近い漆黒の翼が生えていて、毒々しい紫の尾は舌をちろちろと動かす蛇だ。どこか人間に似た顔で、片目だけ顎に届く、長く深い傷で潰れている。

 ひしひしと全身に感じる、まとわりつくようなおぞましい気配。その視線にまで何か毒が含まれているようで、見つめることも見られることも拒絶したくて仕方がない。

 そしてその周囲には、何匹もの真っ黒な妖魔がいた。闇は彼らの首領であり、妖魔たちは下僕なのだと琥琅は確信する。

 ――――知っている。これと同じ空気を知っている。

 絶対に、忘れるものか。

「おい、琥琅殿……?」

 秀瑛が声をかけてくるが、琥琅は応じることができない。剣の柄を握る。

「お前が――――――――」

 感情に身を任せ、琥琅は駆けた。白虎も琥琅の横から跳びだし、妖魔の首領に躍りかかる。

 妖魔たちは四散し、妖魔の首領は図体に似合わぬ素早さで白虎の爪牙を避けた。その隙を逃がさず琥琅は喉を狙ったが、不可視の壁がそれ以上を阻んだ。押し斬ろうと琥琅がどんなに力をこめても、不可視の壁は揺るがない。

「野郎ども! びびってんじゃねえぞ!」

 闇の妖魔たちは琥琅に目もくれず、琥琅の背後目指して駆けていく。待ち構える秀瑛がいつぞやのように一喝すると、兵たちはただちに声で応じるのが、琥琅の背後で聞こえた。

 不可視の壁の向こうで妖魔の首領の濁りきった眼が細められ、白虎に向けられた。

〈ああ、懐かしい気配がすると思ったら、やはり貴様か〉

〈……姿を見せなくなったと思えば、まだ生きていたか〉

 低い低い、ねばつくような男の声のささやきに、白虎は唸りを混ぜた唸り声を返した。

 妖魔の首領はにい、と嗤った。

〈ああそうだ。お前たち清の手先が私を完全にはほろぼさず、また清民族への憎悪が絶えずにいたおかげでな。時間はかかったが、お前の主に刺されたこの肩の傷も、あの忌々しい虎仙に切り裂かれた喉の傷も癒えた。まったく人間は愚かよな〉

 嬉しそうに声を弾ませると、妖魔は琥琅に顔を向けた。

〈その忌々しい剣……なるほど、その娘が白虎の当代の主か……前の主とよく似ている。……特にその目が〉

 嬉々とした声と目に混じる毒が増した。空気に溶け、琥琅たちの身にまで沁み入ろうとする。

 しかし、と妖魔の首領は琥琅に目を向けた。

〈当代の白虎の主に憎まれる理由は、とんと思い当たらぬのだがな〉

「っお前、母さん、殺した! 神連山脈来て!」

〈ああ、なるほど。お前はあの虎仙の娘か〉

 琥琅のむき出しの憎悪に、妖魔の首領は細めた目に面白がる色を混ぜた。

〈なるほど、あの女は剣を守るだけでなく、次代の白虎の主を育てていたのか……だからあれほど頑なだったのか〉

 これはぬかった、と妖魔の首領の口に嘲りと侮りが乗せられる。

〈この爪牙で母子共々殺せばよかったか。……まあいい、今殺せばいい話だ〉

「――――――――!」

 琥琅の理性が溶けた。怒りで頭の中が真っ白になり、冷静な部分が焼き尽くされる。

 それに呼応するかのように、白虎が吼えた。咆哮は衝撃波となって、妖魔の首領が織り成した不可視の壁を破砕する。

 この好機を逃がすまいと、琥琅は剣を一閃した。驚愕に目を見開いた妖魔の眉間から潰れた目の上にかけて、深い傷を走らせる。妖魔の首領が悲鳴をあげる。

 肉を断つ確かな感触と吹きつける血潮の不快な生ぬるさ、勢い。馴染んだ感覚に琥琅の意識は高揚し、同時に神経が研ぎ澄まされていく。狩りをしているとき、あるいは瓊洵と本気で戦っているときのような、熱狂しながらもどこか冷めた感覚だ。

〈――――っ!〉

 次はその喉首を、と琥琅が狙いを定めるのよりも早く、妖魔の首領の咆哮が衝撃波となって琥琅と白虎を直撃した。地面を転がり叩きつけられた琥琅は、苦痛に呻く。

 全身の痛みをこらえながら、琥琅はゆっくりと立ち上がった。転んだときに石か何かで腕を切ったのか、琥琅の腕を血が伝い、剣に滴り落ちていく。

「……っ」

 突如、硝子が砕けたような音が琥琅の耳に響いた。かと思うと、どくん、と琥琅の左手が強く脈打ち、熱を帯びる。まるで剣の代わりに、灼熱の体温を持った生き物が琥琅の左手に触れたかのように。どくん、どくんと力強い鼓動を琥琅の左手に響かせている。――――剣が脈打っているのだ。

 鼓動はたちまち琥琅のものと重なりあい、一つになった。剣を中心に白虎廟の中のものと同じ清浄な空気が広がり、強大な妖魔の気配を駆逐していく。

〈忌々しい剣……! また私を傷つけるか…………!〉

 妖魔の首領は怒りを目に浮かべ、憎々しいとばかりに唸った。怒りでぎらつく隻眼を琥琅に向けるや、血を撒き散らして襲いかかってくる。

「俺を無視してるんじゃねえよ、この野郎!」

 振り下ろされる鋭い爪に対して琥琅が防御の体勢をとった直後、そんな声と共に横から秀瑛が妖魔の首領に斬りかかった。琥琅を襲うことで頭がいっぱいになっていただろう妖魔の首領は、人間からの思わぬ攻撃に対応できない。

 しかし、秀瑛の一撃は妖魔を傷つけはしなかった。毛を斬り飛ばすだけで、肝心の肉はまるで金属のような音をたて、切り裂かれることを拒んだのだ。

「くっそ、効かねえのかよ!」

〈無力な人間が!〉

 秀瑛が思わずといったふうで呻いたのも束の間、妖魔の首領の長い尾が秀瑛を襲った。すんでのところで秀瑛は後ろへ跳び、蛇の顎から逃れる。

〈ええい、無力な人間どもが、こざかしい……!〉

 白虎と対峙する妖魔の首領が、全身を震わせてひと際強く吠えた。先ほどよりもずっと強い衝撃が洞窟全体を襲い、石が次々と落下してくる。

 琥琅の耳はその中に紛れる、びきんという高音を正確に聞きとった。はっとして顔を上げれば、目の前の壁に亀裂が走っている。こんな音を聞いたことはないが、琥琅は本能的に、これは危険だと察知した。

 さらにもう一度、より大きな音が響きわたった。それにつられるように、目の前の壁に走る二筋の亀裂は音をたてて広がっていく。

「逃げろ!」

 琥琅は叫んだ。同時に襲いかかってくる妖魔の首領をやりすごし、秀瑛たちの元に走りだす。こんなときに妖魔の首領になど構っていられない。

 男たちの後ろを走り、追ってくる妖魔たちを白虎と共に退けながら、琥琅は洞窟を駆けた。けれど洞窟全体が振動していて、走っていてもどこか浮遊感がつきまとう。その上、大小問わず石や岩が雨の如く降り落ちてくる。それらをも避けつつ、ただただ光のあるほうを目指すのは難業以外の何物でもない。

 飛びかかってきた妖魔を気配で悟ってとっさに避け、振り返りざまに斬り飛ばす。追跡してくる妖魔は弱く、大きくも機敏でもない。しかし状況が状況なので、うっとうしいことこの上ない。妖魔の首領本体の気配が近くにないのは、琥琅と白虎が与えた傷で動けないからか。

 息が切れてきて、足裏や太腿につきりと痛みが走る。それでも足は止めない。ここで止めたら死ぬのだ。止まってなどいられない。

 やがて光が見えてきた。入口までもう少しだと、琥琅は力を振り絞る。

 ――――そのときだった。

 琥琅の目の前に、巨大な岩が落下してきた。すんでのところで琥琅はかわすが、岩は琥琅と白虎の行く手をほとんど遮っていた。光が遮られ、辺りが一気に暗くなる。かろうじて向こうが見える程度の隙間しかない。

「秀瑛様っ!」

「伯珪! お前ら、ここから離れろっ!」

 従者が叫び、駆け寄ってくる音がして、秀瑛が怒鳴った。だがそれを無視し、きぃん、と金属を硬いものとかち合せた音がした。伯珪か誰か、秀瑛の部下が剣を岩に突き立てたに違いない。

 しかし、この通路を塞ぐ大岩なのだ。人間が砕けるはずもない。

「くっそ……!」

「何してる! さっさと逃げろっつっただろ!」

「貴方を置いて逃げられるわけないでしょう!」

 伯珪は間髪入れず、怒鳴り返す。あのなあ、と秀瑛が苛立った声をあげる。

 だが、こんなことをしている暇はないのだ。このままでは共倒れになってしまう。

〈伯珪、早く退け! 私がやる!〉

 しつこく襲ってきた妖魔を食い殺し、白虎はそう伯珪に命じた。今度はただちに岩の前の気配が引いていく。

 そうしてやっと、白虎が息を大きく吸いこんだときだった。

 洞窟の奥から、妖魔の首領の咆哮が聞こえた。奥からであるにも関わらず出入口まで揺れは届き、琥琅たちの周囲を揺らす。琥琅は耐えきれず、岩にしがみつく。白虎もこれでは、力を放てない。

〈主!〉

 白虎の切羽詰まった声が聞こえた次の瞬間、後頭部を強い衝撃が襲った。雷撃が脳天から全身を貫き、瞼の裏に光が閃いたような感覚。

 岩が当たったのだ、と思った瞬間、琥琅の意識は遠くなった。

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