第四章 妖魔のいるところ
第16話 預け物
天華にまた彗華へ文を届けに行ってもらい、琥琅たちが西域辺境へ入って五日。渇いていた大地の景色は、少しだけ色を変えた。
「ここから吐蘇族の自治区内です」
河西回廊を回廊たらしめる山々を登り、南へ馬を走らせてしばらく。案内役の兵はそう言って、馬の足を止めた。
その眼前には、まばらに草が生える荒野が広がっていた。それは自治区の外も同じなのだが、草が生える密度が違う。鮮やかな色と葉の形を見れば、道中見かけたどの植物とも種類が異なっているのは明らかだ。
「吐蘇族の自治区内は、特有の植物が自生しているとは聞いたが、こんなに当たり前に生えているとは……」
「不思議でしょう? 薬効がある他、染料にもなりましてね。特産品の織物も、自生するこれらの植物を特殊な工法で染めたものなんだそうです。神事や戦闘に用いる服は、特に希少な植物で染めるそうですよ」
穏やかな笑みを浮かべて、ここでも雷禅は持てる知識を披露する。道について知っていても文化については知らなかったのか、秀瑛や伯珪だけでなく、案内役の男も興味深そうだ。
「随分と詳しいな……雷禅殿はここへ来たことがあるのか?」
「ええ、一度だけですけどね」
感心しきりの伯珪に、雷禅はそう瞳を揺らして答えた。
「先代府君は吐蘇族の自治区にまで手を出してはいませんでしたから、邸の敷地内にいる吐蘇族の人たちを保護してもらったんです。もちろん、食料や金銭も添えて。……そのときにしばらくのあいだ滞在させてもらって、吐蘇族の文化について少しだけ教わりました」
「それ、俺、拾う前?」
琥琅が首を傾けると、雷禅はええと頷いた。
「他の異民族出身の人たちも、信頼できるところへ預けに行く途中でしたから。時期が時期ですから、長居するわけにもいきませんでしたし」
綜家の邸の敷地内では、清人以外にも異民族出身の者が何人も働いている。先代府君の頃は当然彼らも差別の対象で、彗華から追われるはめになっていた。雷禅とその義叔父の隊商は、そんな綜家の労働者を守るためのものでもあったのだ。
かーっ、と妙な声をあげて、秀瑛は前髪を掻きむしった。
「マジで西は面倒だな! 異民族がわんさか住んでるし、そん中にゃ清人を恨んでる奴がいるし、隣国と睨みあいだし! 北だって異民族はいたが、こんなにややこしくなかったぞ」
「先代府君のせいですよ、なにもかも」
雷禅は吐き捨てた。
「彼の悪政が始まるまでは、どの民族ともそれなりに上手くやれていたんです。吐蘇族の人が市で特産品を売るのも、珍しくありませんでしたし。まだ清民族の城市に住み、清民族と交流を続けてくれる吐蘇族の人はいますけど……少数派ですよ」
ここが襲われていたらさすがに即刻反乱が起きていたでしょうけどね、と雷禅は低い声で締めくくった。
そんな一幕を経て、先代西域府君の悪政の後始末をするべく琥琅たちはさらに吐蘇族の自治区内を進む。草木の植生に変化が現れていても、日差しは変わらずきつい。風は渇いて砂混じりだ。
そうして吐蘇族の集落の一つに到着し、一行は絶句した。
「家、壊れてる……?」
眼前の惨状に、琥琅は思わず呟いた。
豊かな緑と塀の合間から見える家屋が、倒壊している。しかもそれは一つや二つではなく、ほぼすべてだ。かつて住んでいた跡である家々の残骸以外には住人だろう亡骸がいくつか転がっているだけで、生きた住人は一人として見当たらない。
「どういうことだ……? これじゃ全滅じゃねえか」
吐蘇族の集落の中へ入ってみたが、秀瑛も雷禅も、皆困惑するばかりだ。誰もこんなことになっているとは思わなかったのだから、当然である。
「雷禅殿。ここが、吐蘇族の神官連中の集落なんだよな?」
「ええ。吐蘇族の神を祀る神官と、彼らに仕える人々と、重鎮の一部が住んでいる集落です。よそ者を滞在させる場でもあって……」
秀瑛に尋ねられた雷禅は、そう呆然と答える。その間にも首をぐるぐるとめぐらせ、かつて見た面影や見知った顔を探しているふうだった。
秀瑛は生きている人間を探すよう部下たちに命じたが、見つからないだろうと琥琅は辺りを見回して思った。妖魔の気配の残滓が強くたちこめているだけでなく、集落全体が徹底的に破壊されている。人が生きていられるようには到底見えない。
それに、生きてここに残っているなら助けを求めるはず。それがないのは死者だけだからに違いない。
兵たちがそれでも生存者を探す一方、雷禅と秀瑛は倒壊した家や地面を詳しく調べていた。
「どの家も火を放ってじゃなく、強い力で壊されてるな……獣の足跡もあるし。妖魔の仕業だろうな、こりゃ」
「ええ、妖魔がいたのは間違いでしょうね。しかも、今日犯行が行われた可能性が高い。破壊された家の数と比べて遺体の数が少ないのは……」
〈幽鬼として用いたから、であろうな〉
青ざめた雷禅の言葉を引きとるように、白虎は推測を口にする。そのあいだにも青い目は周囲を油断なく見回し、警戒している。
雷禅は眉をひそめた。白虎だけでなく琥琅も強く警戒しているからだろう。
「琥琅、白虎殿。何か感じるのですか?」
「あっち、何かある」
琥琅は白虎と共に集落の外を睨み、低い声で答えた。
この集落に着いたときから、一つの独特な気配を琥琅は感じていた。辺りに立ちこめる妖魔の気配に紛れて、しかし己を主張して、集落から点々と続く血だまりのように琥琅を誘っている。
気配を感じとろうとすればするほど、不愉快な気分を覚えて琥琅は苛立った。自分でもおかしいほど、気配に感情を揺さぶられる。
「あっち、行く」
〈はい。ですが主、ここから先は雷禅を下がらせたほうがいいのでは〉
「……ん」
半歩進みかけた琥琅は白虎の提案に頷き、雷禅を見た。まだ行きたがるなら今度こそ命令拒否で集落の先に放りだしてやる。
雷禅は琥琅の視線に気づき、苦笑して首をすくめた。
「ここで待ってますよ。貴女と白虎殿がそこまで警戒するということは、僕が入っていける場所じゃなさそうですし」
「だな。どうせ何人かここに残すつもりだから、一緒に待機しててくれ」
秀瑛も白虎の案に賛成すると、雷禅ははいと頷いた。
そうこうするうちに、生存者の探索を終えた伯珪が報告しに来た。生存者なしと聞いた雷禅と秀瑛は唇を噛みしめ両の拳を握り、感情を押し殺すふうを見せる。
数拍置いて、秀瑛はぐるりと兵たちを見回した。それから雷禅のほうを向く。
「雷禅殿。念のため俺の部下を何人かつけるから、ここから離れてろ。そうだな、ここへ来るときに通った崖の下で待機だ。やばそうになったら、遠慮なく逃げろよ」
と、秀瑛は声を張り上げ、さらによどみなく兵たちに指示を下していく。兵たちはただちに応じ、与えられた役割をまっとうするために動きだす。
「雷、預ける」
それを聞きながら琥琅は雷禅を振り返ると、翡翠の腕釧を外して差しだした。
これは数少ない持ち物の中で、琥琅が一番気に入っている品だ。雷禅が綜家の養子になる前から持っていた物らしい。綜家の邸で暮らすようになってしばらくした頃、雷禅が贈ってくれた。
普段はこれを外すほどの戦いをするつもりがないからつけているが、この先はきっとそうはいかない。預けておくほうがいい。
仕方なさそうに雷禅は腕釧を受けとった。
「暴れるのは構いませんが、無茶をして大怪我を負ったりしないでくださいよ。長老たちがいない以上、できる治療は限られてるんですから」
「ん」
自分こそ無理をした微笑みを浮かべる雷禅に、琥琅はこくんと強く頷いてみせる。当たり前だ。雷禅を放ってこんなところで死ねるわけがない。
それに―――――――――
いつの間にか少し離れていた秀瑛は、何故か腹を抱えて笑いを押し殺していた。他数人の兵たちも、こちらを見ないまでも笑いたいのをこらえているのが空気で伝わってくる。一体何が面白いのか。
「いやあ、いいねえ、若い兵士と姫君の別れは」
「……皆さんも、どうかご無事で」
秀瑛のからかいを無視し、雷禅はしなくてもいいのに彼らにも言葉を投げる。何故か、かなり複雑そうな顔だった。
ともかく、そうして琥琅と雷禅は二手に分かれた。
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