第15話 甘えたがりな虎

 それからいくらかのやりとりをして秀瑛が室を出たあと、室内には奇妙な沈黙が下りた。

 寝台にもそもそ上がった琥琅は、雷禅に背を向け、巾着から硝子玉を出した。手のひらでもてあそび、寝台の上に転がす。

 けれど少しも楽しくない。雷禅の馬鹿、と琥琅は心の中で罵っていた。弱いのにどうして危険なところへ行きたがるのか、琥琅には理解できない。

 雷禅はそんな琥琅の不機嫌な気配を敏感に察知し、困ったように眉を下げた。寝台の端に近づくと、琥琅を見下ろす。

「琥琅、そんなに怒らないでください」

「……怒ってない」

 そう、怒ってはいないのだ。ただ強烈に反対で不愉快で、不満があるというだけ。雷禅の意志を止めることは諦めている。

 それを怒っているというんですよ、と雷禅は額に指を当てた。

「貴女が反対するのは当然でしょう。僕は弱いですからね。だからこそ、義父上は貴女を僕の護衛につけたわけですし」

「だったら行くな」

「それはできません」

 一縷の望みをかけて琥琅が止めようとしたのに、雷禅はまた困ったような笑みで、けれどはっきりと拒否する。睨みつけても、意志を貫く姿勢は変わらない。兎のように逃げ足が速いわけでもないくせに、無駄に頑固なのだ。

 琥琅はさらに腹立たしくなった。

 死はとても勝手で残酷だ。生きるために最善を尽くしていても、戦っていなくても襲いかかってくる。養母がそうだった。あの日、養母に死の影など一片もなかったのだ。養母だって予期していなかっただろう。

 雷禅とて先代府君という人災のせいで人の死を多く見聞きしたなら、死は何の前触れもなく訪れるものだとわかっているはずだ。琥琅もさんざん行くなと言っている。なのに危険な場所へ行こうとするなんて、雷禅は馬鹿だ。

 見かねてか、白虎がため息をついて口を挟んだ。

〈雷禅。何故、それほど吐蘇族の自治区へ行くことにこだわる。知人の凶行の真相を知りたいと言っていたが、お前は商家の跡取りなのだろう。しかも、武芸に特別秀でているわけでもあるまい。わざわざ危険な場所へ行く必要はないはずだ〉

「……ええ、そうですね」

 雷禅はそう、笑みを淡く悲しそうなものに変えた。

「でも、吐蘇族にはまだ知りあいがいるんです。その人がもし今回の件に関与しているなら、いえしていなくても吐蘇族が反乱を起こそうとしているなら、それを止める手伝いがしたいんです。……見知った人が死ぬのを見ているだけなのは、もう嫌ですから」

 それは、先代府君の頃のことだろう。

 雷禅と瓊洵に拾われ綜家の隊商で過ごしているあいだも、雷禅は時々苦しそうな表情をしていた。工房で雇っている異民族の職人は綜家で保護できたが、他の者までは保護できない。立ち寄った先で訃報を聞く背中を、琥琅は見てきた。

 あの頃は訃報を聞くだけだったからと意気ごむ気持ちは理解できる。でも無謀だ。弱いのだから、安全なところにいるべきだ。

「もちろん、死ぬ気はありませんよ。貴女たちの出番になりそうなら、大人しく引き下がります。だから、お願いします」

 どこか申し訳なさそうに雷禅は言う。それで琥琅は、もう何も言えなくなってしまった。

〈……ふん、情けないのが本性だというのに、何を格好つけておるのじゃ〉

 翼がはばたく音と共に、そんな小馬鹿にした声が窓から聞こえてきた。見てみると、天華が窓から入ってきて雷禅の肩に止まる。

「まったく、騒がしくしおって。窓から聞こえてきておったぞ。おかげですっかり目が覚めてしもうたわ」

「すみません、窓が開けっぱなしでしたね」

 雷禅は苦笑した。

「でも天華、僕は別に格好をつけたわけじゃないんですけど」

〈どこからどう聞いても、格好つけじゃろう。知りあいの死体を見るだけで顔を青くするお前が物騒な輩のもとへ行くなど、身の程知らずの格好つけ以外のなにものでもないわ。頭に血が上った連中に殺されなければいいがの〉

 雷禅を見下ろし、彼の目付け役を自称する雌鷲の化生は反論を一蹴する。はるか昔に幾多の戦いをくぐり抜けた白虎も、同感だと続く。

〈吐蘇族の勇猛な気性は、昼の者らを見るに今も変わっておらぬ。雷禅、彼らはお前の技量でどうにかなるような相手ではないぞ〉

〈そうそう、お前の一番の役目は愚か者を説得することではなく、虎姫が暴走せぬようしっかり躾けることじゃ。虎姫に言うことを聞かせられるのは、誰よりもまずお前なのじゃからのう〉

「……人を調教師か飼い主みたいに言わないでくださいよ」

〈似たようなものじゃろう。いつになったら認める〉

 苦虫を噛み潰したような顔の雷禅に、天華は嘴に羽を当てくつくつと笑う仕草を返した。

 琥琅が綜家に拾われてから、幾度となく繰り返された雷禅に対する天華のからかいだ。というより、綜家での琥琅と雷禅の関係の認識というべきか。

 けれど正確な表現だ。雷禅が何かを望んで引かない意思を示されると、琥琅は従わずにいられないのだから。遼寧や玉風たちと何が違うだろう。

 でも、だからといって従ってばかりなのは気に食わない。そもそも秀瑛に同行するのも勝手に決めていたし。結果として養母の仇探しに繋がったが、見返りがないのはやはりずるい。

 なので、琥琅は雷禅の服の袖を思いきり引っ張ることにした。

 あっけなく寝台に倒れこんだ雷禅が起き上がる前に、琥琅は覆いかぶさるように抱きついた。彼の首筋に顔をうずめる。

「ちょっ琥琅! いきなり何するんですか!」

「あったかい」

「意味がわかりません! 離れなさい!」

「やだ」

 雷禅に抱きついたまま琥琅は拒否した。雷禅が琥琅の願いを退けるのだ。なら琥琅だって彼の言うことを一々聞く必要はないはずである。

 天華はくつくつと片翼の先を嘴に当てた。

〈よいではないか、雷禅。お前とて悪い気はしないであろう?〉

「いいも悪いもないですよ! 琥琅、離れなさい」

「やだ」

 二度目の命令も琥琅は無視し、より強く抱きついた。さらに雷禅は慌てるが、知ったことか。

 走ったあとのように速い、雷禅の脈の音と動きに琥琅は感覚を集中させた。

 ――――大丈夫、雷禅は温かい。

 琥琅が思わず頬を緩めていると、たまらずといったふうで天華はばさばさと両翼をばたつかせてげらげら笑った。

〈もうよいではないか。湯浴みも済ませてあるのじゃ、そのまま添い寝してやればよかろ〉

「しませんよ!」

 雷禅は真っ赤になって叫ぶ。よっぽど嫌らしい。琥琅はしてほしいのに。

〈……雷禅。せめて、主が眠りに就かれるまで手を握って差し上げてくれ。お前が主の精神を安定させているのは、疑いようのない事実なのだから〉

 今回は徹底抗戦しようと琥琅が雷禅に抱きついていると、足元からそんな援護が雷禅めがけて飛んでいった。さすが琥琅の忠実なるしもべ、白虎である。

 孤立無援になり、雷禅は精いっぱい首をひねって天華と白虎に恨みがましい目を向けた。やがてはあと息をつき、全身の力を抜く。

「……わかりましたよ、琥琅。貴女が眠るまで手を握ってあげますから、離れてください」

「手、繋いでくれる?」

「繋ぎますから。だから離れてください」

「……ん」

 雷禅に促され、確約を得た琥琅は素直に従った。起き上がった雷禅は琥琅と視線を合わせようとせず、まったく貴女はと口の中で何か言っている。顔が何故か赤い。

 ふん、と天華は笑い混じりの息を吐いた。

〈そうやって最後は甘やかすのなら、最初から甘やかしてやればいいものを〉

「天華、琥琅をけしかけないでください」

 からかう声音の天華を雷禅はまたねめつける。もちろん、天華は笑い飛ばした。

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