第五章 向かう者、追う者
第20話 孤独な虎を癒す者
ここは檻のようだ、と思ったのは間違いではないだろう。
琥琅は、人間たちが野宿のときに使う天幕というものの中に押しこめられていた。いや、正確に言えば、閉じこもっていた。
だってここは人間の集団の中だ。同じ種族といっても、今まで琥琅の前に現れては刃へ向けてきた。その巣窟にいて、安心してあちこちを歩くことができるはずがない。
――――たとえ彼らの中に捜していた綜瓊洵がいて、空腹と疲労で倒れてしまった琥琅を助けてくれたとしても。
水や食事を入れていた器を天幕の入り口付近に置いた琥琅は、扉代わりの布の隙間から見える外の世界――――行き交う人間を睨みつけた。
『もしまた気まぐれで山を下りることがあったら、彗華に来てくれ。歓迎するからよ』
ある日突然琥琅と養母の前に現れた瓊洵は、琥琅と養母が暮らす洞窟で数日を過ごしたあと、琥琅の養母にそう約束して去っていった。
彼は少年の頃から琥琅の養母を伴侶と心に決めていたらしく、暇を見つけては神連山脈の奥へ何度も足を踏み入れては姿を捜していたのだという。そうしてあの日、ようやく琥琅の養母を見つけたとのことだった。
琥琅にとっては兄弟子のような男であるが、養母と二人きりの満ち足りた生活に割りこんできた挙句、養母に求婚していたのだ。敵と言っていい。正直なところ、印象は最悪だった。
だが養母を突然亡くし呆然としていた琥琅には『瓊洵』『彗華』という言葉以外、縋るものが思い浮かばなかった。
神連山脈を出て西へ進むほどに、異界へ迷いこんだのかと思うほどに世界は乾いていった。緑はほとんど見当たらず、乾いた風に吹かれた砂埃が舞い、刺すような日差しが照りつけるばかり。今やこの天幕の外に広がる景色は、あの豊かな森とは何もかもが違う。
そうしてろくに食べ物にありつけず、水のみで命を繋ぐのも限界に近づいて生き倒れ。次に目を開けると、この天幕の中だった。
天幕には瓊洵がいて、養母が何故一緒ではないのかと聞きたがった。そして伴侶にと望んでいた女の死を知って嘆き悲しんだあと、琥琅に言ったのだ。
『なあ、俺たちと一緒に来ないか? 俺たちは今、あちこちを旅してるんだ。彗華がちょっと面倒なことになってるんでな』
『……』
『前に神連山脈で、獣の言葉がわかる義甥がいるって話しただろ。そいつについてきてる雌の鷲のことも。そいつらもいるから、いくらかは安心できると思う』
そう琥琅を誘う瓊洵は、何故か必死な様子だった。琥琅が答えずにいると天幕の外から彼を呼ぶ声があり、瓊洵はそちらへ向かっていった。そうしてやっと、琥琅は一人になったのだ。
「……」
今日この日に至るまでを思い返し、琥琅は膝を抱える手をぐっと握りしめた。
生まれて初めて下りた神連山脈の外の世界は、琥琅にとって恐ろしいものばかりだった。豊かな森など見慣れた地形が遠く、気候が違うだけではない。城市には人と物がたくさん行き交っていて、眩暈がしそうなほどだった。元々人里での買い物は養母に頼りきりで、貨幣も大して持ちあわせていなかったのである。旅に必要な物を買い足すことも琥琅はほとんどできなかった。
それほど自分は人間の社会というものからかけ離れた場所で暮らしていたのだ。琥琅は旅の中で何度も実感した。
今こうして天幕の中にいることにも、琥琅には違和感とうっすらとした恐怖を感じていた。布越しに感じられる、ひっきなしに遠のいたり近づいたりする人間の気配がどうにも落ちつかない。敵となる人間たちではないのだろうと理解できても、長年の感覚は容易に抜けるものではないのだ。
どうして自分はこんなところへ来てしまったのだろう。琥琅は後悔した。
このまま神連山脈にいては自分は死ぬ、と思わなかったわけではない。弱肉強食の獣の世が、生きる気力を失くした生き物を放っておくはずもないのだ。虎仙という絶対的な庇護者を失った琥琅が生きるためには神連山脈を出るしかなったと言える。
けれど自分はそんなことを考えて、神連山脈を出たわけではないのだ。瓊洵のことがふと頭をよぎって、あの男に伝えなければと思っただけ。今から思えばまったく不思議だが、そのときはそれ以外考えられなかったのだ。あの男に優しくしてやる義理なんてないのにとは、少ししか思わなかった。
どうして、あの男のところへ行こうとしたのだろう――――。
考えてもわかるはずがなく、だんだんと疲れた琥琅は寝台に横たわると、眠気に誘われるまま目を閉じた。
過度の疲労と栄養失調で病んだ身体は復調しておらず、身体が重くてよく動かないのだ。これからどうするにしろ、まずはこの役立たずな身体をどうにかしないといけない。
いつでも掴めるよう傍らに剣を置いてうとうとして、どのくらい経ったのか。二つの気配が、琥琅が閉じこもる天幕の外に止まった。
「――――あの、すみません。起きてますか」
天幕の外から聞こえてきたのは、瓊洵ではない声だった。もっと柔らかくて弱そうだ。まるで兎か何かのような。
まどろんでいた琥琅の意識は、その一声で一気に浮上した。考えることなく、音もなく剣の柄を握り、片膝をついて、いつでも戦闘を始められるよう体勢を整える。幾度となく死線を越えてきた本能は、弱ってなお当たり前だった行動を無意識になぞっていた。
人間の気配の傍らには、かすかに化生の気配がする。人間の男と化生。ということは、瓊洵の義理の甥とその連れだという鷲だろうか。
琥琅が応えずにいると沈黙を眠っているのだと解釈したのか、ひそやかな声が聞こえてきた。
〈応えなど待たず、入ればよかろ。相手は虎仙の養女ぞ。起きていたとしてもどうせ人の世の道理は通じぬ〉
「そうかもしれませんけど……でも一応は僕と同世代の女性の天幕なんですから、声をかけないと」
〈それが誤った対応だと言っておろうに。まあ、不用意に入って飛びかかられてはかなわぬがの〉
かすれた年嵩の女の声――――化生はそう一人納得する。どうやらこちらのほうは、獣に対する正しい反応の仕方を理解しているようだ。
「――――入れ」
どうせあとで構われるのなら、起きてしまった今のうちに済ませてしまったほうがいい。そう考えて琥琅が応えをすると、小さく息を飲む音がした。起きているならさっさと応えればいいものを、と雌の化生の文句が聞こえてくる。
「……失礼します」
緊張した声のあと、扉代わりの布がめくられた。
そうして、琥琅とそれほど変わらないだろう年頃の少年の縹色の目と目があった。
刹那。
なんだ、これは。
息ができなくなるほど琥琅の鼓動が強く胸を叩いた。その唐突さと激しさに、琥琅は目を限界まで見開く。
一方少年も、警戒をあらわにした琥琅を見て顔を強張らせた。それを見て琥琅は急に申し訳ない気持ちに駆られ、思わず剣の柄を握る手を緩めてしまう。そしてそんな自分に気づき、愕然とした。
琥琅の心中を知らず、雌鷲は片翼を半ば広げて姿勢を低くした。
〈ほ、躊躇っておいて正解じゃの。そのまま入っておれば、首を切られていたかもしれん〉
「天華、痛いですって。落ち着いてください。ほら、彼女は剣を放しているじゃないですか」
雌鷲に肩を強く掴まれ、少年は悲鳴をあげた。天華と呼ばれた雌鷲はすぐ力を緩め、それはすまぬの、と少年に軽く謝る。
少年はほうと息をつくと、琥琅に向き直った。どこか無理をしたふうに微笑む。
「えと、僕は綜雷禅。綜瓊洵の、義理の甥です」
「……」
「えー、とりあえず……朝餉は食べたんですね。それはよかった」
「……」
雷禅と名乗った少年は足元の食器を見下ろして言うが、琥琅は反応できなかった。
この人間を一目見た瞬間からずっと、胸が高鳴って仕方がない。歓喜か、恐怖か、畏怖か。感じたことのない巨大な感情が心にあふれて、わけがわからなくて言葉が紡げない。何もわからなくて、混乱する。
〈これ、虎仙の養女。こちらが名乗ったのじゃ、呆けておらんで自分も名乗るくらいすればどうじゃ〉
「天華、無理を言っては駄目ですよ。ずっと人間を敵視して育った人なんですから、僕たちを警戒するのは当然でしょう」
憤る妖魔の雌鷲をそうたしなめ、雷禅は琥琅のほうを向いた。
「今のところは、無理に話さなくても構いませんよ。僕は義叔父上に言われて挨拶をしに来ただけですから。あ、これは貴女の着替えです。男物ですけど、構いませんよね?」
「……」
小脇に抱える籠を指差して問われ、琥琅はなんとかこくんと頷く。雷禅はそうですかと了承して、籠から水筒と杯を取り出し、籠を天幕の出入口近くに置いた。
「水、飲みますか?」
「……」
「これ、渡したいのでそっちへ行っても構いませんか?」
「……」
水筒から杯へ水を注いだ雷禅がまた問うと、琥琅は無意識のうちに頷いていた。剣から完全に手を離しその場に腰を下ろして、警戒を解いたことを示す。
雷禅はほっとした顔をして琥琅に近づくと、膝をついて杯を琥琅に差し出した。
「濡らした手拭いを籠に入れてありますから、それを使って身を清めてください。夕餉は僕か義叔父上が持ってきます。宿営地の中は自由に歩いて構いませんが、外へは出ないようにしてくださいね」
「……」
注意に頷き、琥琅は杯に口をつけた。冷たい水が喉を通りすぎていく。
やれやれ、と雌鷲の天華は息をついた。
〈ほんにしゃべらぬの。口が利けぬわけでもなかろうに〉
「天華、いいじゃないですか。初対面で、こうしてそばまで近づかせてもらえてるんですから。充分ですよ」
言って、雷禅は琥琅に、さっきよりは自然なふうで笑んでみせた。
「山から下りたばかりで、まだ人間のことを信じられないとは思います。ですが、少なくてもここの人たちは貴女を傷つけたりしませんし、義叔父上も僕も貴女を助けるつもりです。だから、まずはゆっくり養生してください」
そして雷禅は立ち上がる。琥琅に背中を向ける。
――――去っていく。
嫌だ、という言葉が頭の中に浮かんだ瞬間。気づけば琥琅は、雷禅の服の裾を掴んでいた。
「……あの?」
「……琥琅。俺、琥琅」
困惑した顔の雷禅に、琥琅はやっと自分の名を告げた。雷禅は目を瞬かせたあと、理解したのか頬を緩める。
それを見て、養母が死んで以来久しく味わうことのなかった感情――――満足した気持ちで琥琅の胸が満たされていった。この西の地のように荒涼としていた世界に導が現れ、大地に根づいて潤していくのを琥琅は感じとる。
潤った大地は熱をもった。冷たく乾いていた琥琅の心を、決意という光で照らしだす。
今度こそ。今度こそ、死なせない。この弱い生き物を自分が守るのだ。
琥琅に近づき、雷禅の頬に自分の頬をすり寄せた。亡き養母が自分にそうしてくれたように、親愛の情をこめて。
涙が一筋こぼれた。
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