第13話 異変は広がる・二

 河西回廊の最西端には玉霄関、西の国境には天鵬関てんほうかんという関所が設けられていて、清国と西域を行き来する人と物を監視している。これらの関所を通らずに西域辺境やそのさらに西へ行くには、未開の山岳地帯を踏破するか別の交易路へ迂回するしかない。そうまでしても西域辺境や西域へ行こうとする者は、けして多くないだろう。

 そのため今の彗華は平時の賑わいと華やかさを失くし、不安と怯えが支配している――――雷禅の義父はそう記しているのだという。近辺の集落が幽鬼や妖魔、賊に襲われた話は絶えず、この文を書いた前日にも不安に駆られた者たちが揉め事を起こしたりと、不安が不安を呼ぶ悪循環に陥りかけているとか。

 西域都護府はそうした庶民の鎮静化を必死になっておこなっている。兵士の巡回を増員するだけでなく、食品の不足による物価の高騰と暴動の発生を防ぐため、食品を取り扱う商人に限って関所の通過を許しているのだ。

 またそれだけではなく、倉を開いて食糧を配給したり、貴族や豪商にも自家の倉を開いて食糧を提供するよう命じてもいるという。そのおかげで今のところ、食品の物価の上昇による暴動は抑えられているとのことだった。

 しかし、物流が極端に制限されていることには変わりない。食糧と水の不足は生き物にとって致命傷だ。この状況が長引けばいずれ、民の不満が爆発して大惨事になるのは間違いない。こういう事態だから無理に彗華へ帰ってこないように――――といった趣旨も書き添えられていた。

 文の内容を聞き終えると、白虎はぐうと唸った。

〈……幽鬼が徘徊しているのであれば、ここから兵を借りるのは難しいであろうな〉

「ですね。秀瑛様なら集落を守り、風評被害を抑えるのを優先させると思います」

 白虎に黎綜が頷いてみせた。少しだけ誇らしそうな顔をしている。

「雷、瓊は?」

「義叔父上は綜家の私兵を率いて、郊外にある工房の警備に行っているようです。義父上も他の商人仲間や都護府と連携したりして、食糧不安からくる暴動を抑える助けをしている……と書いてあります」

 雷禅は短く息を吐いた。

「とりあえず、返事を書かないといけませんね。義父上たちも僕たちのことを心配しているでしょうし、こちらの近況を知らせないと」

「そのほうがいいです。秀瑛様も許してくださると思います」

「雷、白虎のことも」

 黎綜が頷くのに続いて琥琅が言い添えると、雷禅はわかってますよ、と答えた。

「白虎殿も、邸に用意しておいてほしいものがあれば遠慮なく言ってくださいね。用意できるものは用意させてもらいますから」

〈わかった。今は特に思い当たらないが、あれば言わせてもらおう〉

 そう白虎が雷禅の申し出に答えた、そのときだった。

「――――――――っ」

 ぞわり、と背筋を駆け上がってくるものがして、琥琅はばっと立ち上がった。白虎もそれは同様だ。天華も首をめぐらせ、羽を逆立てる。

 離れた場所で、力が生まれた。冷たく、深く、重く、危険な予感しかしない気配。

「琥琅っ?」

 琥琅は剣を握ると、雷禅が驚くのも構わず駆けだした。隣に姿を見せた白虎の背に乗り、駆けさせる。

「これ、幽鬼……!」

〈ええ。商人に扮して入りこみ、関所を混乱させるつもりなのでしょう。噂に加えて、この人の数です。混乱させることは容易かと。――――狡猾なことです〉

 そう吐き捨てるあいだにも、白虎は要塞の前に突入した。己と琥琅を見て立ちつくし、言葉を失くす人々に脇目もふらず駆けていく。

「白虎、あれ!」

 野宿する者たちの天幕が集う区域の端まで来て、琥琅は他の天幕からやや離れたところに張られた二つの天幕を指差した。さっきよりはいくらか濃い術の気配が、片方の天幕から立ち昇っている。

「あれ、斬る!」

「御意!」

 是と言うか早いか、白虎は琥琅の意図を正確に理解し、天幕のすぐそばへと飛びこんだ。琥琅の剣が高い音を引き連れ、細い柱を叩き折って布を切り裂く。

 そうして切り裂かれた布地の合間から、天幕の中の異様な様子が白日の下にさらされた。

 狭い天幕の中、所狭しと細長い箱が置かれていた。全部で五つ。どれも魚や剣よりずっと大きなものが入る大きさで、呪術の札が蓋に貼られている。

 箱が並ぶ中に座っていた男と、天幕の外に立っていた二人の男は闖入者を見るや、ぎょっとした顔になった。

「何故ここに……! 術で誰にも気づかれぬようにしていたはず……!」

「いや待て、あれは白い虎……魔獣だぞ!」

「ということは、この女が…………!」

 途端、琥琅と白虎を見る目に殺意が宿った。腰に佩いていた鞘から剣を抜き、構える。体格といい構えの姿勢といい、素人ではなく剣に慣れた戦士であるのは間違いない。

 そしてそんな男たちに守られるようにして、天幕の中で座る男は指で何かを形作り、中断していた詠唱を再開した。一端失せていた幽鬼の気配が、また高まりだす。

 止めなければならない。琥琅がそう直感した刹那、男が襲いかかってきた。

 振り下ろされた一撃を剣で受け止めると、腕が重みで痺れた。見かけどおり重い一撃だ。きっとそう何度も耐えられない。

 もう一人からの時間差の攻撃は、白虎が男に跳びかかって防いでくれた。地面に押し伏せ、首筋に牙を立てて仕留める。びくびくと男の身体が痙攣した。

 渾身の力で琥琅は男の剣を弾くと、そちらには目もくれず、呪文を唱える男を狙った。手加減なんてしている余裕はない。目を大きく見開く術者の喉を、一薙ぎで斬り払う。

 絶命した術者は血を撒き散らしながら倒れた。幽鬼の気配がたちまち失せる。

「く、くそ! 清人め……!」

 先ほど以上の憎悪で目をぎらつかせ、生き残った男は琥琅を睨みつける。だがそんなもので怯む琥琅と白虎ではない。じわりじわりと男を追いつめる。

〈観念しろ。大人しくすれば傷つけはしない〉

 血濡れた牙を見せ、白虎が投降を呼びかける。しかし、憎悪で凝り固まった者が聞くわけがないのだ。全身から放たれる気でもって、男は拒否を示す。

「琥琅! 大丈夫ですか!?」

 ならばと琥琅が動こうとしたそのとき、背後からそんな声が聞こえてきた。振り向きはしないものの、琥琅の意識が一瞬そちらへ向く。

 その隙を逃がさず、男は懐にしのばせていた短剣を琥琅と白虎に放ってきた。琥琅と白虎がひるんだ一瞬のうちに、この場から逃走する。

 が、白虎が男に追いつくより早く、頼もしい援軍が男の足止めをしてくれた。

 天華が上空から天華が急降下し、逃げる男に襲いかかったのだ。逃げることに必死だった男は、思いがけない頭上からの襲撃に即応できない。片腕で顔を庇いながら、がむしゃらに剣を振り回す。

 走るまでもなく追いついた琥琅は、今度こそ男の喉首に剣の切っ先を突きつけた。白虎は背後に回り、今度こそ逃がさないとばかりに唸り声をあげる。

〈今度こそ大人しくしろ。もう逃げられぬぞ〉

「誰が清人と魔獣に許しを乞いなどするものか!」

「っ!」

 白虎の呼びかけを拒否し、男は叫ぶ。はっと琥琅が気づいたときにはもう遅かった。

 男の口がきつく閉じられたかと思うや、唇の端から血が一筋伝い、目から光が失われた。地面に倒れ伏し、動かなくなる。

 秀瑛が駆け寄り、首筋に手を当てた。しかし男はぴくりとも動かないままだ。死んでいるのは明らかだった。

 白虎は困惑した声をあげた。

〈一体何者でしょうか。何故、このようなことを……〉

「わからない。でもきっと、山の川で死んでた奴、仲間」

 首を振り、剣を鞘に収めながら琥琅は断定した。

 川で幽鬼に殺されていた男とこの男の身なりは、とてもよく似た意匠をしている。それに、男たちは白虎と琥琅を見てを強く反応していたのだ。仲間であると考えるのが妥当だろう。

 吐蘇人がこの騒動の中心にいるのはこれで確定した。あとは吐蘇人から養母を殺したものの情報を吐かせればいい。

 ――――そして、殺してやる。

「おい、落ちつけ琥琅殿。その殺気駄々洩れで、雷禅殿のところへ戻る気かよ」

「……」

 呆れ声で秀瑛に指摘され、琥琅は顔をゆがめた。指摘されるのは不愉快だが、確かにそうだ。雷禅は琥琅の殺気を嫌がるだろう。

 関所の役人たちが来たので彼らにあとのことを任せ、殺意をどうにか抑えて琥琅と白虎は男たちの天幕のほうへ戻った。秀瑛が何か通達でもしたのか、琥琅が薄絹を頭に巻いていないからか。誰も話しかけてこないので戻るのは楽だった。

 しかし天幕の前に着いて、琥琅は眉をひそめた。

 雷禅が死んだ男の一人を見下ろし、言葉もなく立ち尽くしていたのだ。その顔は蒼白で、大きく目が見開かれている。

 こんな血まみれの場所、雷禅が衝撃を受けないわけがないのだ。早くどこかへ連れて行かないといけない。

 だから琥琅は雷禅の手を引こうとした。が、彼の震える唇が動いたのを見て息を飲む。

 どうして、と雷禅の唇は言っていたのだ。

「雷?」

「………知りあいなんです」

 ぽつり、と震える声で雷禅はこぼした。

「僕が以前……綜家の隊商に同行していた頃に知りあった人です。商売の手伝いをするようになったばかりの僕に、よくしてくれて……」

 言葉を詰まらせた雷禅の身体がぶるりと震えた。雷禅は口元を手で覆い瞳を揺らす。

「どうして……こんなことを……」

 雷禅が見つめる先の男は、目を大きく見開いて口から血を流したまま、ぴくりとも動かない。これからも動くことはない。――もう死んでいるのだから。

 ざわめく周囲から一層大きな声がした。騒ぎを聞きつけた兵たちが来たようだが、そんなものに構えるはずがない。

「……雷、もういい。見なくていい」

 琥琅は自分より背の高い雷禅の頭を抱き寄せ、そっと髪を撫でた。琥琅が心を開いた女たちが、琥琅にしてくれたように。語彙が乏しく気の利いたことなんて言えないから、自分が安心する方法を彼にもしてあげることしか思いつかなかった。

 今回は、この接触を拒まれることはなかった。

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