第三章 関所にて

第12話 異変は広がる・一

 中原と西域辺境を隔てる障壁のような、緑豊かな山から離れて、もう何日になるだろうか。

 南北の山岳地帯に挟まれた、細い河川沿いにいくつもの城市や集落が点在するこの狭い一帯は、河西回廊と呼ばれている。中原と西域を繋ぐ回廊のような地形であり、北東部の山岳地帯から流れる光河の西にあることが名の由来だ。

 回廊に入ってから続く風景は、大地は渇き、花は姿を消し、風に砂が混じるものばかり。左右に見えるのは高山。中原や琥琅の生まれ故郷とは、別世界とさえ思える。

 そんな見ているだけで喉が渇いてきそうな景色が続く河西回廊の最西端に、琥琅たち一行はやっと到着した。

 玉霄関ぎょくしょうかん。河西回廊の最西端に位置し、西域辺境と中原を隔てる関所だ。西域鎮護の最後の砦であり、交通の要衝であり、交易城市でもある。

 関所を見上げ、秀瑛は長い感嘆の息を吐いた。

「これが玉霄関か……話にゃ聞いていたが、ほんとにでけえな。しかもこれ、建国の頃から建ってるんだろ?」

「ええ。清国における、軍事と交通の要衝ですからね。商人もここで一度荷を下ろして、商売するんですよ。それを目当てに西域の品を仕入れに来る中原の商人も少なくありませんし、その上、この周辺は陶磁器の名産地ですからね。陶磁器とそれを求める人で賑わうんですけど…………」

「どうした、雷禅殿?」

「天幕の数が多すぎます」

 眉をひそめる秀瑛に尋ねられた雷禅は、異様な雰囲気に包まれた関所の城門前を、厳しい目でそう評した。

 そう、常には行きかう人々で賑わう玉霄関の様子は、琥琅と雷禅が通過したときとはまるで異なっていた。雷禅が指摘したように、関所の前に張られた天幕の数がものすごいことになっているのだ。あまりにも多くて、門前の建物が屋根くらいしか見えない。彗華の貧民街のようですらある。

 近づいてみるとその印象は一層強くなる。活気と呼ぶべき人々の賑わいは変わらずあるものの、どこか苛立った空気が混じっているのだ。

 空き地で芸人一座が芸を披露しているが、目を向け楽しむ者はあまりいない。むしろ、不安が人々を包んでいる様子を強調してしまっていた。

 秀瑛は周囲を見回して、目を険しくした。

「……部下の報告どおりだな。妖魔と幽鬼がもぐりこまないよう、西域辺境側の城門を閉じてやがる。この状況じゃ、仕方ねえけどな」

「ええ。西域辺境へ向かう交易路は、ここか北方辺境を通る北天行路しかありませんからね。あの山々を登って関所をやりすごすなんて、商品を抱えた商人にはできませんし。普通の人なら、待つか諦めるしかないですよ」

「しかし、これはまずいのではないか?」

 秀瑛の側近である伯珪が二人の会話に口を挟んできた。

「今の時点でこんなに人が待っているのだ。このままではいずれ、開門を待つ者たちの不満が関所に向かうどころではなくなるぞ」

「ええ。ここを発つ人よりも来る人のほうが多いでしょうし、幽鬼はこの玉霄関を頻繁に襲っているという話ですしね。……早く事態を収拾しないと、ここも妖魔の標的になるかもしれません」

 伯珪の言葉に頷く雷禅の表情は、終始厳しいままだ。琥琅も、目と肌で感じる事態の重さに改めて身が引き締まる思いだった。

 全員で城門の中へ入りたいが混乱が起きかねないということで、ひとまず秀瑛が部下を連れて城門のほうへ行ったあと。一行はひとまず城門の周辺で野宿の準備をすることにした。秀瑛は伯珪を連れて行ったが、秀瑛の私兵は歴戦の戦士ばかりなのだ。指示する者がいなくても、手際よく準備していく。

 暇を持て余した琥琅が幌付き馬車の影に腰を下ろし、眼前の賑わいをぼんやりと眺めていると馬車の中から白虎が下りてきた。眠っていたのか、辺りをぐるりと見回す。

〈主、ここは……? 城市ではないようですが〉

「ん。玉霄関。関所。商人、旅人、いっぱい来る。綺麗なものも、いっぱい並ぶ」

〈玉霄関ですか。ああ、あの。私があの廟に封じられる前には建設中だと聞いていたのですが……あれですか…………〉

 琥琅が説明してやると、白虎はそう、目と声に感慨深そうな色を混ぜた。

 これは道中でもよくあったやりとりだ。天地は変わらなくても、人の営みの詳細は時と共に変化するのが世の常である。白虎が活躍していた頃にはあったもの、なかったものは少なくない。物や歴史、城市、出来事。二人は尋ねられるまま、白虎に様々なことを教えてやっていた。

〈雷禅はどこに〉

「雷、あっちで買い物」

 と琥琅は天幕が集まる一画を指差す。さすが商人見習いと言うべきか、こんなときでも気になったらしい。秀瑛の私兵たちから休んどけと言われたので、ならばと空いた時間で商人たちが集まる区域へ向かっていった。

 白虎は感心した色の息を吐いた。

〈このような状況でも商売が気になるとは、雷禅は随分商売に熱心なのですね〉

「雷、綜家の跡取りだから。璃珀様目指す、よく言ってる」

〈璃珀……雷禅の父親ですか〉

「ん」

 琥琅は頷いた。雷禅が彗華の豪商の跡取りであることは、道中に教えてあるのだ。

「それで、璃珀様の弟、瓊洵。母さんの知りあい」

〈雪娟の知人なのですか〉

 白虎は意外そうに言う。ん、と琥琅は頷いた。

「母さん、俺生まれる前、彗華にいたことあったって。それであいつ、母さんから剣教わった。で、夫婦になりたがってた」

〈雪娟と夫婦に?〉

 冗談でしょう、という響きを隠しもせず白虎は声を裏返した。

〈確かに雪娟は美しく、あの乱世の頃でも言い寄られることがありましたが……それも最初だけのこと。そうした者どもを返り討ちにしてからは、さすが虎が本性の仙女と恐れられるようになったものですが。誰ぞと夫婦になる女傑ではないでしょう〉

「でも瓊洵、しつこかったって。何年か前、神連山脈来たし。そのときも夫婦になりたがってた。母さん断ってたけど」

〈それはまた物好きな……〉

 白虎は心底呆れたといったふうである。琥琅もまったく同意だ。

〈その男は彗華にいるので?〉

「多分。もしかしたら、綜家のどっかの工房行ったかも」

〈では、彗華に行けば会えるのですね。かつてと現代の彼女の話で花が咲きそうです〉

「ん。きっと瓊洵、喜ぶ」

 そう言い、琥琅は気づいた。

 綜家の隊商に拾われてから、琥琅は養母と過ごした日々のことをよく瓊洵に聞かれた。妻にと望んだ女の生きざまを、少しでも辿りたがったのだ。その代わりのように、養母との出会いや稽古の合間の出来事を琥琅に語ってくれた。

 そうして。養母について語りあうことで、琥琅は少しずつ瓊洵に心を開いていった。

 白虎は琥琅と瓊洵が知らなかった、乱世を駆け抜けた虎仙としての養母を知っている。知る限りのことを話してくれるだろう。――――なんて嬉しい。

 琥琅は頬を緩めて白虎に抱きついた。何度も自分を温めてくれた養母の毛並みを思いだす。

 そうしてしばらくしていると、足音が二つ近づいてきた。そちらを向くと雷禅と黎綜が琥琅たちのほうへ近づいてきている。

「琥琅。白虎も起きましたか」

 馬車の陰まで来た雷禅は外套の頭巾を外した。その隣で黎綜は器と水差しを載せた盆を琥琅に見せる。

「琥琅さん、白虎さん。水を持ってきましたけど、飲みますか?」

〈ああ、もらおう。主はどうなされます?〉

「欲しい」

 問われ、琥琅は頷く。黎綜はにこりと笑みを浮かべると、白虎の前に小さな深皿、琥琅には杯を差しだす。

 雷禅は果物を土産に買ってきてくれていたのでそれにもかぶりつき、その甘みに満足していると日陰に腰を下ろす黎綜が口を開いた。

「暑いですね。西域辺境は日中の日差しがきつくて暑い、と話には聞いてましたけど、こんなに暑いとは思わなかったです。白虎さんは暑くないんですか?」

〈いや、元々私は暑さも寒さもそれほど感じぬのでな。それより、お前は仕事をしなくていいのか?〉

「はい、僕はお休みです」

 黎綜はこくりと頷いた。

 と、黎綜はにっこり笑う。本当に仕事がないのだろう。

 不意に、澄んだ鳥の鳴き声がした。琥琅と雷禅にとっては耳慣れた声。

 空を見上げると、大きな翼を広げた鳥が真っ青な空を悠然と飛んでいた。

「天華!」

 雷禅が口笛を鳴らして名を呼ぶ。それに応じてばさりと翼が大きくはばたき、掲げられた彼の腕めがけて降下していく。

 それを見ながら、黎綜は目を丸くした。

「雷禅さんは鷲を飼ってるんですか?」

「飼ってない。でも、前から一緒」

 黎綜の問いを琥琅は即座に否定した。主従関係にあるだなんて言おうものなら、かの雌鷲は怒るに違いないのだ。あの鋭い爪牙の餌食になるのは御免である。

 そうなんですか、と理解したのかしていないのか判じかねる声で黎綜が相槌を打つ一方。天華は白虎を見るなり、ほうと翼を嘴に当てた。

〈これはこれは……紛うことなき神獣じゃの。初めて見るわ〉

〈お前も長く生きた、力ある化生と見受ける。雷禅を主としているのか〉

〈ふん、主と?〉

 馬鹿なことを言うでないわとばかり、天華はばさりと翼をはためかせた。

〈雷禅とそこな虎姫から聞いておらぬのか? 妾がこの若造の世話をしてやっておるのは、単なる暇潰しじゃ〉

 と、天華は白虎の疑問を一蹴する。世話を焼かれている覚えはないんですけど、と言いたそうな目で雷禅が見上げているのはまったくの無視だ。

 琥琅や雷禅とは違って普通の人間である黎綜は、一頭と一羽を見比べて目を瞬かせた。

「……雷禅さん、もしかしなくても、白虎さんとこの鷲さんは会話してるんですか? もしかしてその鷲さん、妖魔なんですか?」

「妖魔というか、化生の類ですよ。人の言葉は話せなくても内容は理解してますから、気をつけてください。自分からむやみに人を襲うことはありませんが、気に食わなければ容赦なく攻撃しますから」

〈当然じゃ、無礼な者に礼を尽くす道理はないからの〉

〈ふむ、確かにな〉

 白虎は頷き、天華に首肯する。どうやらこの一頭と一羽、会ったばかりだというのに気が合うらしい。

 しかし、無駄話をしている暇はないのだ。琥琅はいい加減にしろとばかり、口を開いた。

「天華。霞彩様たち、無事?」

〈ああ、大過ない。あの女人は相も変わらず、邸で商品の意匠の考案に明け暮れておるわ。仔細はほれ、それに書いておる〉

 と、天華は雷禅に渡した筒に首を向ける。

 どうやら綜家が販売している服飾品の意匠の考案を一手に担う雷禅の義母は、儚げな容姿と相反した気丈さをこのときとばかり発揮しているらしい。心許せる数少ない女人の無事を知り、琥琅は安堵した。

 雷禅もほっと小さく息を吐くと、筒を開けて中の文に目を通した。

 目で文を追うごとに、雷禅の表情から穏やかなものが失せ、不安や焦りが混じっていく。それを見ていた琥琅の胸もまた、ざわついた。

 雷禅が黙っているのに焦れ、琥琅はたまらず口を開いた。

「……雷、彗華、どうなってる?」

「まずいですね」

 雷禅は端的にそう言った。

「彗華の近辺では幽鬼だけでなく妖魔が何度も出没していて、よほど急ぎの用でもない限り、隊商も旅人も彗華から出て行かなくなっているようです。また、一向に幽鬼と妖魔による襲撃が減らないことを考慮して、西域都護府はここだけではなく、天鵬関も封鎖しました」

「ええっ? じゃあ西域辺境からどこにも行けないじゃないですか? 北も南も、高い山脈があるんですよね?」

「ええ。完全に孤立状態です」

 ぎょっと目を見開く黎綜に雷禅は頷いた。

「関所封鎖が半月を過ぎたあたりから西域都護府に押しかける府民もいるらしく、都護府のほうでも事態の収拾を図っているようですが……それもあまり効果はないとか。西域辺境にある綜家の取引先も、妖魔や幽鬼、それに乗じた賊に襲撃されているようです。他の集落なども似たようなものだろう――――とも書いてあります」

「事態は悪化の一方、なんですね……」

 黎綜はますます表情を険しくして、つぶやくように言った。

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