第10話 彼女に捧ぐ言葉は
白虎に乗って山を駆けてしばらく。琥琅は昨夜妖魔と幽鬼を仕留めた川辺へ足を運んだ。
辺りに妖魔や幽鬼の死体はまだ転がったままだった。どちらも尋常ではない、生き物と言っていいのかわからないものなのだから当然だろう。一口も獣に齧られず、虫も湧いていない。
昨夜は天幕のほうが気になって放置したが、かつてここに暮らしていたものとしてはこんなものを捨ておくことはどうにも不愉快だ。
「これ、燃やせる?」
〈可能です。燃やしますか?〉
「頼む」
〈承知しました〉
琥琅が頷くと、白虎は前へ進み出た。辺りに転がる死体を見回し、体勢を低くする。身体から力があふれていく。
白虎が太い首を振ると、妖魔や幽鬼の死体に火が灯った。火はたちまち死体を包み、煙も臭いもなく燃やしていく。
便利な力である。琥琅は小さく息を吐いて膝をつき、よくやったと白虎の頭を撫でてやった。喉も掻いてやると、白虎は嬉しそうに目を細めた。
崖のほうを見ると、煙が下から立ち昇っていた。秀瑛の私兵たちが妖魔や幽鬼の死骸を焼いているのだろう。不快な臭いに琥琅は眉をひそめた。
まだしばらくはあちらへ行かないほうがよさそうだ。琥琅は雷禅たちが戻ってくるまで何をしようかと辺りを見回した。
――――と。
「……?」
河原との境目辺りに生えている木立に、何かひらめいている。緑ではないから、葉ではないはずだ。
〈主?〉
「あっち、何かある」
言って、琥琅はその何かがある木立へ向かった。白虎がついてくる。
琥琅の目線より少し低い位置の枝に刺さっていたそれは、荒い目地の布切れだった。手触りからすると、麻だろうか。
〈布……? しかしこの辺りまで、人間が来るとは思えないのですが〉
「ん。でも人間遠く行きたがるし、物欲しがる」
言いながら琥琅は地面を見下ろした。予想に違わず、人間の靴の跡が下にある。
大きさからすると、男だろう。奥からやってきてここで立ち止まり、また戻っていったようだ。
「……」
白虎が言うように、山奥にあるこの険しい崖の上まで人間が来る意味があるようには思えない。しかし人間は稀少な材料を得たり好奇心を満たすためなら、危険を無視し意味も考えないものなのだ。ここまで来ていてもおかしくない。
けれど、昨夜のことがある。幽鬼を生みだした誰かがここで琥琅たちの様子を見ていて、形勢不利を悟って逃げるときに服が木の枝にひっかかった――――というのも考えられる。
琥琅は木立の奥を睨みつけると、靴の跡を追って木立の奥へ入った。
点在する幽鬼の死体を始末しながら歩いていると、しがみつくように草が生える岩が林立するところへ出た。崖へ向かっていく川が、琥琅の視界の多くを占める。
その川のほとりに、人間の男が倒れていた。首に幽鬼が噛みついていて、どちらもぴくりとも動かない。
琥琅と白虎は顔を見合わせた。琥琅が頷くと、白虎は心得たとばかり幽鬼を燃やす。
幽鬼は焼かれてもまったく反応せず、燃やされるままだ。本当に死んでいるらしい。
〈幽鬼に追われて逃げているうちに、相打ちになったようですね。この男、幽鬼を生みだした者かもしれません〉
「でも食われてる。生んだのに殺されるの、間抜け」
しかし、珍しくないことではあるのだ。幽鬼は魂魄なき身であるため呪術で意のままに操ることは容易い一方、少し気を抜くと世に漂う様々な思念と同調し暴走してしまう。制御できる実力がなければ、このように己が餌食となるのだ。
この男は己の実力に見合わない数の幽鬼を生みだしたために制御しきれなくなり、逃げきれずに死んだのだろう。愚かなことだ。
琥琅は男の死体に近づいた。白虎の通力の炎は温度がなく、近づいても熱は感じない。男の死体に燃え移ったりもしないので、じっくりと観察する。
幽鬼に噛みつかれているためか、男の死体に獣に食われたり虫が湧いた痕跡はなかった。変わった文様の身なりからすると、異民族だろうか。よく日に焼けているがひょろりとしていて、顔を見てもまったく見覚えがない。
ただ、この身なりの意匠。どこかで見たことがあるような気がする。
〈主、いかがなされた〉
「この服、見たことある。でも思いだせない」
琥琅が口をへの字に曲げて説明すると、白虎は服を見下ろした。
〈
申し訳なさそうに白虎は言った。
吐蘇族というのは、河西回廊の南に広がる山脈の山中に住まう異民族だ。清国が成立する前後に資源や領地などの問題で清民族と対立し、干戈を交えたが敗れて支配下に置かれた。その頃は武勇で名を馳せていたそうだが、今では独特の文様の毛織物が高値で取引される、雷禅たち西域の交易商にとっては重要な取引先なのだった。
この場合、と白虎は琥琅を見上げた。
〈雷禅を連れてくるのがよいのでは。西域辺境の商人の子息ならば、異民族の文物に詳しいかと存じますが〉
「駄目。雷、きっと悲しむ」
白虎の提案を琥琅は即座に却下した。
きっと雷禅に見せるのが一番手っ取り早いというのは、琥琅もわかっている。けれど雷禅は鳥獣を煮炊きするのを見るのも好まない性質なのだ。知らない者であっても人間の死体を見るのは嫌がるだろう。
それに雷禅は、人の世の決まりごとに厳しい。死体から剥ぎとった服を見せれば驚いて、悪いことだと琥琅に小言を言うかもしれない。それは嫌だ。
「木の枝のやつ、見せる。わからなくても、どうせ仲間、いる」
〈確かに〉
幽鬼を操っていた術者がこの男であったとしても、あれほどの妖魔を琥琅たちにけしかけることができるとは思えない。そもそも、どこから妖魔を連れてきたのか。
琥琅の養母の仇は途轍もない妖力を場に残していた。あれほどの妖力の持ち主なら、妖魔をあちこちから集めることができてもおかしくはない。
――――あるいは、生みだしたりしていても。
琥琅が男の死体から離れたのを見て、白虎は男の死体にも火をつけた。死体が二つ、あっというまに一つの炎に飲まれていく。
それから琥琅と白虎は引き返し、木の枝に引っかかっていた布を回収した。さいわい、血はついていない。これなら雷禅も嫌な顔をしないだろう。
崖のほうではまだ煙がたちのぼり、不愉快な臭いがかすかに漂ってきている。野営地からそんなに離れたところで焼いているのではないだろうし、これではまだしばらくのあいだ、下へ行かないほうがいいかもしれない。
暇になった琥琅は、養母の墓へ白虎を案内することにした。養母の死は昨日廟の中で尋ねられ、話してあるのだ。
墓の前に腰を下ろした白虎は、口を開いた。
〈
なじるような言葉遣いでも悔しさとさみしさをにじませ、白虎は墓に語りかける。
琥琅は目をまたたかせた。
「母さん、そんなこと言ってた?」
〈ええ〉
琥琅を見上げ、白虎は頷いた。
〈天地の鳥獣から転じた神仙は、その鳥獣の性を負うもの。ですがあの仙女は虎の性を超えて、戦うことを好む気性でした。他者を傷つけることを愛していたわけではなかったのですが〉
「……」
〈誰かを守るために剣を持って敵を斬り払うことを選んだからには、いずれ誰かに殺されるだろうと。……ならばせめて、死は誰かを守った果てのものであってほしいものだとも言っていました〉
「……」
琥琅はぎゅっと両の拳を握った。
琥琅は養母の過去を知らない。養母は自分に役目があること以外語らなかったし、琥琅も興味がなかったのだ。目の前にいる美しい雌虎や女性の姿がすべてだった。
けれど琥琅の目に、乱世を生きた養母の姿がまざまざと映るようだった。確かに養母は強い妖魔と戦うとき、目を生き生きと輝かせていた。人間の賊どもは弱いからつまらないとも。
在りし日の養母はこの白虎やその主、多くの仲間に囲まれて戦場の一番前にいたに違いない。一番前でなくても大事なところにいて。
そんな養母を白虎や仲間たちは頼もしく思ったに決まっている。
〈このたびの外敵が雪娟を殺したのならば。雪娟は私を守り、貴女を守って力尽きたのでしょう。雪娟は常に冷静で物事の割り切りが早い女でしたが、情の深い一面がありました。十数年の間、手元で育てた主を愛しく思わなかったはずがありません。――――雪娟は、貴女を守ったのです〉
「……っ」
〈貴女の行く末を見守ることができなかったのは無念であるでしょうが……後悔はなかったはずです〉
穏やかな声で言って、白虎は再び墓を見る。戦友と語らうためのように。あるいは、琥琅の表情を見まいとするように。
養母らしい言葉だ。空を見上げて笑って言っているのが、琥琅にはありありと想像できる。
琥琅は養母と種族が違うことを幼い頃から知っていたが、気にしたことはそれほどない。せいぜい、鳥獣たちの揶揄に苛立ったくらい程度。養母の厳しさも弱肉強食の世界で生き延びるために必要なことであり、養母の愛情なのだと心得ていた。
そう、養母に守られていたのだ、自分は。娘として愛されていた。
それを理解していたから、琥琅は養母も自分の境遇も疑わなかったのだ。
何故養母が、琥琅に果たすべき役目のことを知らせなかったのかわからない。神獣の主の宿命を負う日まで自分も生きているつもりだったのか、養女に負わせたくなかったのか、あるいは他に理由があるからなのか。養母亡き今、彼女が何を考えて教えるべきことを教えず、ただの人間の娘になるよう琥琅に臨んだのか知ることはできない。
だがどんな理由であれ、それは琥琅を思ってのことのはずだ。
喉や瞼や胸が熱い。喉から何か言葉が出てきそうなのに、出てこない。叫べなくて胸に気持ちが溜まっていくばかりで、頭がぐらぐらする。
表情をゆがめた琥琅は白虎のかたわらでうつむいた。
琥琅の瞼に養母のたくさんの姿がよぎった。この山で養母に愛されて過ごした日々が、胸の内に巣食ったばかりのどす黒い感情を小さな光が焼く。
復讐を諦めるつもりはない。憎しみは消えない。
でも、お前は自慢の娘だと満面の笑みで頭を撫でてくれたときの照れくさい気持ちや嬉しさを思いだせた。今までのように悲しい気持ちも何もなく、素直な思い出として。
白虎を連れてきてよかった。琥琅は心からそう思った。
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