第9話 西域辺境の異変・二

 綜家は隊商を出す商家だから、西域辺境のどこに賊が出たかといった類の情報に通じている。それに琥琅と雷禅が西域辺境を出るまで、不穏な噂なんてどの集落や城市でも聞いたことがない。雷禅が疑問に思うのは、当然のことだろう。

 あるんだよそれが、と秀瑛は苦い顔で言った。

「俺は文で報告を受けただけだから、実際に見たわけじゃねえんだが……だが、報告を信じるなら西域辺境への通行は今、かなり難しくなっているはずだ」

「……!」

 なんだ、それは。

 告げられた推測に、雷禅だけでなく琥琅も目を見張った。

 それを皮切りに秀瑛は語りだした。

 西域辺境への赴任が決まってすぐ、秀瑛は西域辺境の最新情勢や詳しい地理について情報収集を始めた。北方辺境の叩き上げの軍人である彼は政治についてまったく無知だったし、異民族との交流は下手なことをすると後々まで禍根を残すことになるからだ。辺境の異民族の血を引く歴戦の武将として、そういう面倒くささは嫌というほど知っている。

 現地の官吏たちが色々教えてくれるだろうが、だからといって何も知らないままで向かうのは性に合わない。任地へ向かう途中も、あまり好きではない勉学に秀瑛は励んでいた。

 そんなある日。秀瑛は先に派遣していた部下から、信じられない報告を聞いた。

 いわく、西域辺境の城市の周辺や街道に妖魔が出没し、人々を襲う事例が相次いでいるのだと。

 被害の多くは街道を行く人間や家畜であるが、それに付随して田畑への被害も少なくない。妖魔だけでなく人間に似た異形に襲われ、ほうほうのていで城市に辿り着いた隊商の話も後を絶たないとか。

 道行く人が妖魔に襲われることそのものは、たまにある不運の一つである。妖魔は乱世に多く生まれるが、平穏な世でも生まれることは時折あるのだ。

 だが、それでも妖魔が人間の城市の近くに出没し、人間を襲うことが頻発しているなんて話、琥琅は聞いたことがない。雷禅も知らないようで、とても驚いた顔をしている。遼寧と玉鳳もそうだ。

 歴戦の武人である秀瑛も、かつて聞いたことのない事態に空恐ろしいものを感じた。西域辺境で何か異変が起きているのは間違いない。かくして秀瑛は西へ向かう足を急がせることにした。――――そして、琥琅たちと出会ったのだ。

 秀瑛の話を聞き終え、雷禅は口元に指を当てた。

「人の姿をした人ならざるもの……というのはおそらく、幽鬼ですよね」

〈そうであろうな。あれらは死体があれば術でいくらでも生みだすことができる。こちらだけでなく西域辺境でも、誰ぞが生みだしているのだろう〉

「幽鬼は自然に生まれたりしねえのかよ。妖魔がまれに自然の中で生まれるなら、幽鬼もありうるんじゃねえのか?」

 秀瑛が白虎に問うと、それはないとは言いきれぬ、と白虎は前置きした。

〈魂魄は泉下へ向かうのが世の理だが、その理を外れて他者の肉体に宿ることは確かに起こりうる。だがまれであるし、一度に多くの幽鬼を生みだすことはない。これほど多くの幽鬼が人間を襲っているのなら、術者の関与があるとしか考えられぬ〉

「術者……しかも結構な人数の、か」

〈おそらくな。完全な蘇生ではないぶん、術としてはさして難しいものではない。術者の素質がある者を集めることができれば、幽鬼の数は揃えられるだろう〉

 白虎は秀瑛に同意した。

〈妖魔にしても、ここだけでなく西域辺境にも襲わせるほど多くの幽鬼を生みだしたのであれば天地の霊気の巡りは部分的によどんでいるはず。そこを起点に生みだされているのだと考えれば納得できる〉

 だが、と白虎はそこで一度言葉を切り、声色を変えた。

〈それだけでは、妖魔を幽鬼と共に行動させることはできぬ。より強力な術者か……知恵ある妖魔が操っているはずだ〉

「……!」

 白虎の断定に、雷禅たちは息を飲んだ。琥琅もまたぐ、と拳を握る。

 雷禅の表情は一層深刻なものになった。

「まさか、西域辺境がそれほど大変なことになっていたとは…………僕たちが彗華を出たときはそんな前兆もない、普通の街道だったんですけどね……」

「……」

「これなら、天華に急いで文を運んでもらわないほうがよかったですね。どうやらまだ彗華への襲撃はないようですし、綜家の屋敷が襲われたりはしていないと思いますが…………」

 しかしそれは、彗華の外に出ている者は危険であるということでもある。そして人ならざるものが旅人を襲っているなら、瓊洵が隊商や郊外の工場の警護をしに行っているはずだ。彼は綜家の私兵の長なのだ。

「邸の皆、きっと無事。瓊も、死なない。あいつ、俺より強い」

 己と雷禅の胸に居座る小さな不安を打ち消すように、琥琅は強く言った。

 本当にそうなのだ。瓊洵は琥琅の養母から数年しか学んでいないというのに、琥琅よりもはるかに強い。拾われてから何度も彼に挑戦しても、一度も勝ったことがないのだ。

 あの男が幽鬼に後れをとるとは考えられない。――――考えたくない。

「…………そう、ですね。あの義叔父上が、そう簡単に殺されるはずがありませんよね」

 瞑目し、雷禅も己に言い聞かせる。ぎゅっと拳を握ると顔を上げた。

「もし白虎が言うように、清国を乱世にしようとしている誰かがいるなら……今後も西域辺境で妖魔や幽鬼が出没し続けるということですよね。もしかすると、中原でも」

 今でも西域は危険だという噂が北方辺境に届くくらいなのだ。西域辺境に近い町ではもっと正確な情報が共有され、西域へ行くのを躊躇う行商人が数を増やしていても不思議ではない。

 それは西域辺境の商業にとって致命的な痛手だ。大規模な農業が難しくよそから買い入れて食糧を確保している土地なので、長く続けば飢え死にする者が出てしまうかもしれない。

「ついでに中の商人も外へとんずらして、清民族に反意のある異民族が反乱を起こすか、他国が侵攻してこようものなら西域辺境は終わりだ。その前に中央は軍を出すだろうが、被害は免れねえ。……よく考えてやがる」

 秀瑛は唸るように言う。深刻そうだった表情は、言葉とは裏腹な怒りの色を目に宿していた。正式にはまだとはいえ、西域府君だからだろうか。

 秀瑛は改めて琥琅たちをまっすぐに見た。

 その、まっすぐな目。傭兵だと名乗ったときの胡散臭さや夜宴の陽気さはどこにもなく、先ほどから見えるもの以上の真摯な色で染まっている。これから発せられる言葉は信じていいのだと、琥琅は直感した。

「雷禅殿、琥琅殿。それに白虎殿。西域府君として、俺はこの西域辺境の危機を見過ごせない。――――力を貸してくれ」

 そして、秀瑛は深々と頭を下げる。黎綜も居住まいを正し、後に続く。

 雷禅は、顔を上げてくださいと慌てた。

「貴方が頭を下げる必要はありませんよ。僕自身は武芸の面で手助けできそうにありませんが、彗華は僕の故郷で、家族が住む場所です。商売あがったりになるのも御免ですし……手伝いますよ。ねえ琥琅?」

「当たり前」

 雷禅に話を向けられ、琥琅は即答する。雷禅は意外そうに目をまたたかせた。

 一方、秀瑛はぱっと顔を輝かせた。

「ありがてえ! 実は報告を聞いたときからさっきまで、どうすりゃいいかと頭抱えてたんだ。俺は妖魔と戦ったことはあっても生態に詳しいわけじゃねえし、術者絡みなら一層専門外だからな。あんたらがいりゃ野郎どもの士気は上がるし、百人力だ」

 そう、にこにこと嬉しそうに秀瑛は安堵を語る。その隣では黎綜が、白虎と一緒にいられるのだと無邪気に喜んでいる。

「じゃあ雷禅殿と琥琅殿、それも白虎様も一緒に近くの集落へ行きませんか? 一端戻ってからになりますけど、天幕の材料とか色々調達しに行くところだったんです」

「いや、白虎は無理だろ。白虎を連れた傭兵隊なんて普通ねえからな」

 呆れ顔で秀瑛は黎綜に指摘する。確かにそうだ。それに雑技団でも猛獣を檻へ入れずに連れて歩かないだろう。

「幌付き馬車も調達しねえとな。白虎を連れて城市を歩きまわるわけにゃいかねえし。特に今の状況じゃ、白虎なんて見ようものなら不安がってる奴らが押し寄せてくるのがおちだ」

「ですね。あと、秀瑛殿の私兵の皆さんにも話をしておかないといけませんね」

 雷禅は同意すると、白虎を見た。

「というわけで白虎には申し訳ありませんが、馬車を用意しますからなるべくその中にいるようにしてくれませんか。無用な混乱は避けないといけませんから」

〈わかった〉

 白虎は頷く。それを見てから雷禅は琥琅のほうを向いた。

「調達には僕だけついていきます。琥琅は白虎と一緒にいてください」

「ん。山歩く」

「山? この辺りの見張りか? そいつはありがてえ。昨夜ので怪我人が出たりして、撤去作業も警備も人手が足りてねえんだ」

 助かる、と秀瑛は笑う。雷禅が襲われないようにするためであって、秀瑛たちのためにするわけではないのだが。

 そうですか、と雷禅は息を吐いた。

「なら、気をつけてくださいね。貴女たちなら大丈夫だと思いますが」

「ん。雷も、気をつけろ」

 頷き、琥琅も雷禅に注意を促した。

 そうして雷禅たちと別行動をすることになった琥琅は、白虎の背に乗って山を駆けた。

 琥琅の胸のうちで、静かな炎が燃えていた。

 養母を殺した何者かへの復讐を、琥琅は今まで考えなかったわけではない。だが養母が死んだ直後は彗華へ向かうことしか頭になかったし、雷禅と出会ってからはそばを離れるのが嫌でたまらなかったのだ。いつ終わるかわからない仇討ちの旅のあいだ、雷禅に会えないと思うと足がすくんだ。

 けれど、唐突に復讐の機会が訪れたのかもしれないのだ。秀瑛と行動を共にした先に、養母を殺した憎い仇がいるかもしれない。

 養母は白虎とこの剣の主とするため、琥琅を拾ったのだという。だからどうした。養母は厳しかったが、いつだって琥琅を大事にしてくれた。たくさん笑いかけてくれた。それがすべてだ。

 琥琅にとってあの仙女は母だ。それ以外、何者でもない。

 だからこの千載一遇の機会は逃さない。仇がたとえ人ではなかったとしても構うものか。琥琅から大切な人を奪ったことを許しはしない。

 母さんの仇。絶対に殺してやる。

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