第8話 西域辺境の異変・一

「……」

『主、おはようございます』

 小鳥の声で目が覚め、瞬きを繰り返して視界の焦点を合わせている琥琅の顔を、白虎が覗きこんできた。

 ぼんやりした思考で琥琅は腕を伸ばし、白虎の頬を撫でてから喉を掻いてやった。白虎は心地よさそうに目を細め、されるがままだ。こうして見ると、大きな猫のようにも思える。

 昨夜の騒動のあと。琥琅たちは周囲を警戒しながらひとまず天幕へ戻った。遼寧と玉鳳が逃げたあとにも妖魔か幽鬼が来ていたのか琥琅たちの天幕は荒らされ、所持品を持ち去られなかったのがさいわいといったありさま。今夜の寝床を確保するために、疲れた身体を酷使しなければならなかった。

 首を横に向けると、荷物を挟んで眠りに就いたはずの雷禅の姿はなかった。

 琥琅は白虎を見上げた。

「雷、外?」

〈はい。すぐ外にいるはずです〉

 首をめぐらせて白虎は言う。琥琅はそか、と白虎の頭を撫でると勢いよく体を起こした。

 天幕の外にいた雷禅と共に朝餉を食べ、天幕を片付け出立の準備をしたあと。琥琅は雷禅を振り返った。

「雷。下、行く?」

「そうですねえ……」

 雷禅は両腕を組んで首を傾けた。視線は白虎のほうを向く。

 と、そのとき。

 馬が駆けてくる足音がした。琥琅たちに近づいてくる。

「……」

 音がするほうを向いた琥琅は、雷禅の前に立った。馬具をつけた遼寧と玉鳳は後ろに下がり、琥琅の傍らで白虎が警戒する。

 馬とその上に乗る人の姿は、すぐ木立の合間から現れた。

「雷禅殿、琥琅殿。無事だったか」

 琥琅たちの前で馬を止めた秀瑛は、そうほっとした顔になった。後ろで黎綜が手綱を引いて馬の足を止める。もっとも、その前に馬は白虎に恐れをなしてか足を緩めていたが。

 琥琅の横から、表情を和らげた雷禅が顔を出した。

「僕らはこのとおり、無事ですよ。‘人虎’に加えて白虎がいますから。秀瑛殿たちこそ、大丈夫ですか? そちらにも妖魔や幽鬼が出たのでは」

「ああ。まあ、なんとかな。しかし、なんで妖魔だの幽鬼だのがここらで出てきたのか……」

 雷禅にそう返す秀瑛の顔は苦い。理解に苦しむといったふうで、視線は白虎に向けられている。

 秀瑛の後ろにいる黎綜も同様だ。ただしこちらは目をきらきら輝かせて見つめている。幼い子供が何かに興味を持ったときの目そのものだ。

「雷禅さん、とっても素敵な白虎ですね。昨日は連れてなかったですけど、捕まえたんですか?」

「ええ、まあ」

 雷禅は曖昧な笑みで首を傾けた。どう説明すればいいのか考えているのだろう。

 白虎は琥琅を見上げた。

〈主、この者たちは知人なので?〉

「っ? しゃ、しゃべった!」

 黎綜はぎょっと目を見開いた。

「今、虎が人の言葉をしゃべりましたよね秀瑛様っ?」

「あ、ああ……」

 裏返った黎綜の声に反応はしたものの、秀瑛も白虎を凝視した。嘘だろ、といった心の声が表情だけでも伝わってくる。

「おい、まさか本物の神獣とか言わねえよな?」

〈私は天より遣わされし神獣だ。そしてこの方こそ我が主〉

 頬をひくつかせる秀瑛に堂々と、誇るように白虎は言い放った。

〈私が神獣であると、にわかには信じられぬというのは無理もない。先代の主の頃に私が目覚めた直後も、多くの人間と獣は私をただの化生と最初は侮り、あるいは恐れていたものだ〉

「……」

〈だが化生や妖魔の気配を知るのであれば、私が普通の虎でも化生や妖魔でもないことはわかるはずだ。この方が私の主であるのも、疑いようのない事実〉

 疑われていることに不快を示すわけでもなく、白虎は秀瑛と黎綜に淡々と語る。さらに琥琅の腰に顔を向けた。

〈あの剣は我が主のため、かつて天より下されたもの。天の加護を受けた聖なる剣だ〉

「え、でも皇帝陛下は秦慶仲の剣を持ってらっしゃるって」

〈あれは建国したあと、我が主がお持ちの剣に似せて人間が打ったものだ。皇室に代々伝えるためにな。我が主がお持ちの剣と同じ意匠だが、あれに天の加護はない〉

 ゆえに、と白虎は言葉を続ける。

〈我が言葉に疑いがあるなら、皇帝の剣と比べてみればいい。国に仕える優れた術者であれば、違いを見抜くはずだ〉

「……」

 それでも二人はどう反応すればいいのかわからないらしい。琥琅に視線を向けてくる。

 一体琥琅にどうしろというのか。琥琅が睨み返すと、まあまあと雷禅が苦笑しながら割って入ってきた。

「昨日は伏せていましたが、琥琅はこの山の伝説に出てくる仙女の養女なんです。ああもちろん、琥琅は人間ですけどね。その仙女が数年前に亡くなったので、琥琅は伝手を頼って綜家に来たんですよ」

「この山の伝説のって、あの虎になるっていう?」

 黎綜が首を傾けると、ええと雷禅は頷いてみせた。

「その仙女は生前、この白虎の眠りを守る役目を負っていたそうです。建国の際、白虎や初代皇帝……秦慶仲と共に戦った女傑なんですよね?」

〈ああ。とても強い虎仙だった〉

「虎仙? ああ、虎になったり人になったりできたって言い伝えですもんね」

 一瞬眉をひそめた黎綜はすぐ自分で納得し、何度も頷いた。

「ってことは、昨日あそこにいたのは……」

「帰りついでの墓参りですよ。それで昨夜、建国後から眠りについていた白虎殿の封印を琥琅はいつのまにか解いていたようでして。気づけば当代の彼の主になっていた……というわけです」

 雷禅はにこやかな表情でよどみなく秀瑛と黎綜に説明を続けた。

 白虎の素性について、雷禅には昨夜のうちに話してある。雷禅は最初こそ驚きはしたもののすぐ信じ、綜家の邸に連れて行くのも許してくれた。白虎は商売繁盛を司るとされる神獣なのだ。商家が受け入れないわけがない――――ということらしい。

 大体は事実だからか、琥琅がその秦慶仲の生まれ変わりであることを隠しているようには見えない。よく事前の準備もなく、表情を変えず隠しごとをしながら説明できるものだ。

 秀瑛は馬から下りると後頭部を掻き回した。黎綜も馬から下りる。

「……わあった。お前さんが本物の神獣なのも、‘人虎’がお前さんの主だって話も信じる」

 だから最初に白虎がそう言ったのに。結論に辿り着くまで遠回りしたことに、琥琅はいらっとした。

「えと、じゃあ今、白虎さんが現れるくらいに天地の気の巡りが悪いことになっているということですよね? 神獣が現れるのはそういうときだって言いますし。昨夜の幽鬼とか化生もそのせいで」

〈いや、昨夜幽鬼と共にいたものどもは化生ではない。妖魔だ〉

「? 化生と妖魔は違うんですか? 同じだって教わりましたけど」

「化生、生き物が天地の霊気、たくさん浴びて成る。妖魔、元々化け物。母さん言ってた」

 首を傾ける黎綜に琥琅は言い添える。白虎だけに任せておくのはよくないと思ったのだ。

 人間のやりとりを聞いていた遼寧はぶるると鼻を鳴らした。

〈やっぱり化生と妖魔の違いはよくわかんないですよねえ。そりゃ、天華さんと昨夜の奴らが違うことくらいはわかりますけど〉

〈種族がどうかより、敵か味方かで分ければいいでしょ。化生だろうと襲ってくるなら、私たちの敵だわ〉

〈それもそうっすね〉

 呆れたふうに玉鳳が言うと、遼寧は納得した様子で頷く。琥琅は呆れた。馬のくせにどうしてその結論にいたるのが遅いのだろう。獣は人間より単純なものではないのか。

 それを聞き流し、まあともかく、と雷禅は苦笑した。

「昨夜僕たちを襲ったのがなんであれ、白虎が目覚めなければならないような事態になっているのは間違いわけです。もしかしたら、秀瑛殿もすぐ仕事にありつけるかもしれませんよ」

「……」

 雷禅はわざとらしく明るい調子で言ったが、秀瑛は重苦しい表情になったままだった。忙しなくまたたきをして、考える様子を見せる。

 その様子があまりに鬼気迫るものだからか、雷禅は眉をしかめた。

「……? 秀瑛殿、どうしました?」

「……お前らに頼みがある」

「頼み……ですか?」

 雷禅は困惑した様子で秀瑛を見た。秀瑛が真摯な表情だからだ。辺りの空気も秀瑛を中心に緊張感が走る。

「……伺いましょう」

 なんだか面倒なことに巻きこまれるような気がする。嫌な予感がして琥琅が雷禅を見ると、雷禅は短く息を吐いた。

 その場に腰を下ろすと、秀瑛はさっそく口を開いた。

「俺たちは傭兵隊だと言ったが、あれは嘘だ。素性についてあんまり騒がれたくないんで、黙っていたんだ」

「ええ。北方辺境の甦虞人の武将が新しい西域府君として赴任してくる話は、義父から聞いています」

「知ってたのかよ」

 にっこり笑って雷禅が答えると、秀瑛はがっくり肩を落とした。綜家の情報収集力を侮っていたらしい。

 はああと長い息を吐き、秀瑛は首にかけていた鎖を外した。下げていたものを手のひらに乗せ、琥琅たちに見せる。

 それは、龍が取っ手として彫刻された金印だった。龍の彫刻は髭や鱗といった細かなところまでよく彫り込まれていて、職人の技術の高さをうかがわせる。琥琅の趣味ではないが、価値を認める者はいるだろう。

 印影を見た雷禅は、小さく頷いた。

「……確かに、西域府君の印ですね」

「本物を知ってるのか」

「はい。義父に西域府君からの書状を見せてもらったことがありますから」

 本物の新しい西域府君だと納得したためか、雷禅はやや表情を緩めた。

「しかし……どうして僕たちが綜家の者だと名乗っているのに、わざわざ傭兵隊のふりをしたんですか? あのときは琥琅の顔も見えていましたから、僕たちが綜家を騙った偽者ではないとわかっていたと思うのですが」

「そりゃ西域辺境で上手くやっていくにゃ綜家との繋がりは欠かせないだろうが、新しい西域府君だとあちこちで言いふらされても困るからな。行く先々で余計な接待を受けるのは柄じゃねえし。西がどうも物騒だから急ぐ必要があるんだよ」

「物騒? ですが、府君と部下の方々が対処に苦慮しそうなほどの賊が西域辺境に出たとは、聞いたことがありませんが……」

 雷禅は眉をひそめた。

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