第二章 解き放たれたもの
第7話 はるか昔の祈り
ぽたり、ぽたり。水がしたたり落ちている。
見たところ、廟の中のようだった。扁額や柱、壁などに施されたあらゆる装飾の細工や彩色は、見事の一言に尽きるもの。どれほどの時間と技と金を費やしたのか。
どうして自分はこんなところにいるのだろう。自分は先ほどまで、ここではないところにいたはずなのに。
わかるわけがない。したたらせている者と自分は間違いなく同一人物であるのに、どういうわけか意識は別なのだ。他人の視点で現実を見ていると言えばいいのだろうか。まるで物語を映像として見ているかのように。
現実にそんなことが起こるはずがないのだから、これは夢に違いない。しかしそう自覚しても、この奇妙な夢が覚める気配はまったくないのだ。
老人は白虎像の前に膝をつくと、傍らに置いてあった剣で自分の手のひらを傷つけた。手のひらをかざし、傷口からにじんだ鮮血を白虎像へ落とす。
老人の血が白虎像に落ちた途端、そこを起点に赤い筋が左右の水路へ向かって流れだした。赤い筋は水路に満ちる水に溶け、水路を数拍だけ赤く輝かせる。
老人は息を吐いた。
「これで白虎の封印は堅固になった。私か白虎の新たな主の血がここに注がれない限り、ここへ入ることはできても傷つけることは叶わぬ」
「それはいいことなんだが……血が目覚めの鍵になるとは、趣味がいいとは言えないな」
老人の背後で見守っていた女はそう、呆れ気味の息を吐いた。
白い肌と腰に届く烏羽の髪が互いを際立たせあう、腰に剣を佩き男装をした美しい女だ。おそらくは二十代。まとう空気も黒い瞳も力強く、生き生きとしていて、過ぎる美貌を持つ者にありがちな冷たさ、近寄りがたさを感じさせない。人を惹きつけずにはおかない魅力を放つ女人だった。
老人はくすりと笑った。
「仕方あるまいよ。封印とは術であり、一種の契約だ。呪術を用いた契約には古より血が最良の証。白虎と魂の絆を結んだ二人の血が不可欠になるのは当然だろう」
「それはそうなんだがな」
女は苦虫を噛み潰した顔で言うと老人に近づき、血がにじんだままの手をとった。通力をこめて息を吐きかけ、傷口を塞ぐ。
「貴方が癒さなくてもこのくらい、すぐ治るのだがな」
「歳なんだから無理するな。その剣を持つのも一苦労なんだろうに」
老人のつぶやきを一蹴して剣を取りあげ、女は手にしていた鞘に収めた。めざといな、と老人は心の中でため息を吐く。
しかし実際そうだったのだ。ずしりと腕にかかった剣の重みに、老人はかつてとの違いを痛感していた。武人ではなかったとはいえ、この剣を持ったときはもっと軽く感じていたはずなのに。
それだけの時間が流れたのだ。感慨深くもさみしくも思いながら、老人は白虎を見上げた。
「……願わくば、この呪が二度と解かれることなく彼が天へ還ることを祈るよ」
「残念ながら、その願いが叶うことはないだろう。自分が生き次の世代を繋ぐ以上を望んで奪い争うことが、人間の性なのだから。妖魔がこの世から絶えることもないだろうさ」
皮肉っぽく口の端を上げて女は言った。
「この清国を建てるために私たちが力を尽くした、長きにわたる戦乱からしてそうだ。この国はかつて、乱世に理想を掲げて戦った者たちが建てた国だった。それが時代が下るにつれ国を正しく導くべき者たちが醜い争いを繰り返すようになり、国が再び乱れて
「……ああ、そうだろうな」
女のほうを向いて、老人は口元に淡く苦い笑みを浮かべた。
「それでも、平穏な世がいつまでも続くことを願わずにはいられないのだ。この平穏な時代を築かんとして犠牲になった、多くの者たちに報いるために。貴女や白虎のように、生のすべてをこの安寧に捧げる宿命を負った者のために」
そうして老人はまた白虎を見上げた。すうと目を細める。
その途端、老人の感情が夢見る者の心へと流れこんできた。
どうかどうか、とひたむきな平和の希求。どうせ無理だろう、という諦観。
重責を負った白虎と女をこの世へ残し去ることを、申し訳なく思う気持ち。
分ちがたく結びついたいくつもの老人の感情を感じ、夢見る者は胸が締めつけられた。同時に、これは自分が生まれるよりもずっと昔の出来事なのだと理解する。
ふ、と女は息を小さく吐いた。
「……そうだな。今までもこれからも、天命とやらに振り回されるんだ。せめてこの国には私よりも長生きしてもらわないと、お前や慶仲たちと共に生死をかけてきた意味がない」
「そうだな。まあ三百年はもってもらいたいものだ」
くすくすと老人は笑う。
だから、と老人は女に手を差しだした。
「そのときまで、その剣は必要ない。……眠っていてもらおう」
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