第6話 そして戦いは始まった

 風の流れが変わり、闇に慣れた目に月の光が照らす世界が広がる。五感への刺激が一気に増えた世界に、琥琅は無意識のうちに何度もまたたいた。

 最初の混乱が去り、白虎と少し話したあと。琥琅はひとまず雷禅のもとへ戻ることにした。これからどうするにせよ、雷禅のもとへ戻らないといけない。

 そう伝えると、白虎はならばと琥琅を背に乗せて宙を駆けあがった。そうして琥琅は地上へ戻ることができたのだった。

 川辺へ到着した琥琅は白虎の背から下りると、辺りを見回した。自分の荷物を見つけて靴を履く。

 白虎は辺りに首をめぐらせた。

〈その雷禅とやらは、この近くにいるのですか?〉

「ん。あっち」

 と、琥琅は来た道を指した。それから空を見上げる。

 白虎廟へ降りていたのはどのくらいの時間だったのだろう。月の位置からするとさほど時間は経っていないようだが、水浴びにしては時間がかかりすぎているかもしれない。

 早く雷禅のもとへ戻らないと。白虎を案内しようと琥琅が歩きだすと、がさりと茂みを踏む足音がした。

「琥琅」

「雷」

 足音と共に聞こえた声に、琥琅は安堵の息を吐いた。

「……服は着てますよね」

「着てる」

 口をへの字に曲げて琥琅は答えた。隊商で生活していた頃に天幕で着替えているときに入室を許可して以来、この面倒なやりとりが必須になっているのだ。

 琥琅の答えを受けて姿を現した雷禅は、白虎を見るなりぎょっと目を見開いた。

 そんな雷禅を見て、白虎は琥琅を見上げる。

〈主、この青年が雷禅ですか〉

「っ?」

 琥琅が白虎に頷いてやる一方、雷禅は息を飲んだ。

「琥琅、ちょっと待ってください、どういうことですか? その白虎は完全に人の言葉をしゃべってますよね?」

〈当然だろう。私は天より下りた獣だぞ〉

 慌てる雷禅に白虎は言う。声からすると、ただの獣扱いされるのは心外といったふうだ。

 雷禅が驚くのはわからないでもない。白虎の言葉は、経験や異能で理解できるようにしたものではないのだ。異能で鳥獣の言葉を聞いている雷禅なら、白虎の言葉がいつもと違っている――――そもそも人間の言葉を話しているとわかるはずだ。

 つまり、普通の獣ではない。白虎を尊ぶこの国の価値観からすれば、信仰の対象が目の前に現れたとしか思えないだろう。

 唐突に、白虎は雷禅のほうへ歩きだした。驚く雷禅をじっと見つめる。

「あ、あの?」

〈……懐かしい気配をしているな〉

 目を細め、ぽつりと白虎は言った。

 琥琅も雷禅も目を瞬かせた。

「懐かしい……?」

〈ああ。私は主の魂以外を見分けることはできぬが……お前の気配はあの男ととてもよく似ている〉

「? 仲間?」

〈ええ。先ほどお話しした、私とあの廟を封印した男です〉

「あの、話についていけないんですけど……僕にもわかるよう説明してください」

 琥琅と白虎の会話に雷禅が口を挟んでくる。困惑しきった表情だ。

 確かに雷禅はさっき来たばかりで、あの不思議な廟のことも琥琅は話していないのだ。を説明しようとした。

 ――――しかし。

「……?」

 琥琅は、静寂の中にひそむざわめきに気づいて目を細めた。

 音はなく、辺りは相変わらず静寂に満ちている。だが琥琅がその半生で培った感覚が、違和感を感知していた。

 力だ。それもここから離れたところで、力が何かに向かって放たれた。

 その力が危険なものかどうか、わからない。だが胸がざわめいていた。それは、力の振動を感じとったからか。動け、と何かが琥琅に命じる。

 さらに、声がかすかに聞こえてきた。知らない男の悲鳴だ。

 白虎を見下ろすと、彼もまた全身を緊張させていた。一人、状況を掴めていないらしい雷禅だけが戸惑いの表情を浮かべている。

「琥琅……?」

「何か、いる」

 琥琅は気配が漂ってくる方向――――茂みのほうから目を離さず、端的にそれだけ言った。手が腰の剣の柄に伸びる。

〈誰ぞが幽鬼を放ったようです〉

「幽鬼って‥‥‥」

 信じがたい、といったふうで雷禅は言葉を繰り返す。

 そのあいだにも気配が近づいてくる。一つではない。いくつもの足音が駆けている。

 雷禅を守るべく、剣を抜いた琥琅が庇うように立ったその直後だった。

 茂みの向こうで殺気が膨れ上がった。

「――――っ!」

 意識するよりも早く横手からの一撃を剣で防ぎ、琥琅は渾身の力で弾き返した。肉を切り裂く感触が手に伝わってくる。

 改めて襲撃者と向きなおった琥琅は月光に照らされた、茂みから続々と現れる姿を見て目を見開いた。

 その姿を、人間と言っていいのだろうか。確かに人間に近い姿をしてはいるが、口は耳元まで裂け、目は縦に瞳孔が開き、手足の爪が異様と言っていいほど長い。まるで指に括りつけられた刃だ。人間の姿をしていても、人間とは違う生き物のようにしか思えない。

 幽鬼。思念によって動かされる、人間の死体の末路だ。神連山脈に住んでいた頃何度か出くわしたことがあり、琥琅は養母と共に退治していたものだった。

 幽鬼の背後の木立には、他の異形も姿を見せていた。どれも複数の獣が混ざりあった外見で、爛々と目を輝かせて琥琅たちを凝視している。

 幽鬼のうつろな目に、殺意が宿った。

「雷下がれ!」

 琥琅が叫ぶのと同時に、獣の敏捷さで幽鬼がまた一体迫ってきた。一撃を琥琅はかわし、喉を狙って仕留める。鮮血が顔や服を濡らす。

 さらに襲いかかってくる幽鬼と異形どもを仕留めようと琥琅が身体の向きを変えると、白虎が琥琅の前に跳びこんできた。幽鬼と異形どもの前に立ちはだかるや、身を震わせる。

 その途端、涼しくも苛烈な気配が白虎の身体から立ち昇った。青白い揺らめきが白虎を包む。

 そして、吼えた。

 白虎の咆哮は力の波となって襲撃者どもに襲いかかった。逃げる間もなく波に飲まれ、ほとんどの幽鬼と異形は跡形もなく消滅していく。

 それでも数体は逃げのびていて、同胞の末路を見ているというのにしつこく琥琅たちを狙ってくる。

 異形の突進を食らう直前で跳躍した琥琅は、異形の一体の首を剣で貫いた。化け物はびくりと一瞬跳ねただけで、悲鳴をあげずに倒れる。琥琅はその前に素早く剣を抜いて別の妖魔の背に飛び乗り、やはり延髄を貫いて確実に仕留めた。

 ‘人虎’と綜家の私兵たちから呼ばれている琥琅の戦いぶりに、さすがに幽鬼や異形もひるんだのか。琥琅と白虎の邪魔にならないよう下がっていた雷禅に標的を切り替えた。琥琅と白虎が防ごうとするものの、数体を取り逃がしてしまう。

「っ」

 幽鬼の爪をかわし、雷禅は腰に佩いていた小剣を抜いた。幽鬼の爪をかわし、腹部を斬りつける。

 駆けつけた琥琅は雷禅を襲おうとしていた一体を斬り捨てた。もう一体は白虎が喉首に噛みついて仕留める。

 これで終わりかと琥琅が辺りを見回そうとすると、雷禅ははっと目を見開いた。

「琥琅! まだいます!」

「っ!」

 はっとしてそちらを見てみれば、群れの首領なのだろう熊ほどもある大猿が琥琅たちのほうへ襲いかかってきていた。

 琥琅は駆け、雷禅を鷲掴みしようとしている大猿に剣を振るった。それを察知した大猿は、雷禅の肩を掴む寸前で跳びずさる。図体の割に敏捷な動作だ。白虎の攻撃もかわしていく。

「雷、下がってろ――――!」

 琥琅がそう言うか言わないか、琥琅の剣と大猿の牙が澄んだ音をたててぶつかりあった。

 せめぎあったのはほんの一拍、琥琅は弾くようにして受け流し、もう片方の腕が振るわれる前に後ろへ跳ぶ。大猿の棍棒のような腕が空を切り、音をたてた。

 続いてくる攻撃をかわし、琥琅も反撃を試みる。が、これは爪で受け止められ、またもう片方の前足から攻撃されたので後ろへ退くしかない。

 しかし反応がわずかに遅れたためか、顎を浅く斬られた。その箇所が熱を帯び、一筋血が頬を伝う。

 顎の血を拭いもせず、琥琅は剣を構えて大猿と睨みあう。背後で白虎が別の異形と戦っている音が聞こえてきたが、悔しいことにそちらには構えない。そんな隙を見せればたちまち食われてしまうと、琥琅の本能と経験は告げている。

 琥琅は呼吸を整えると、疾風の速さで大猿に突進した。大猿の一撃をかわし、腹に一太刀をくれてやる。さらに、赤子のような肌を粟立たせるがったところを逃さず、がむしゃらに振るわれる腕に乗って喉を切り裂いた。

 かすれた絶命の吐息と共に大猿の身体から力が抜け落ち、大地に転がる屍の一つとなった。その前に着地した琥琅は、すぐに雷禅を振り返る。怪我一つないのを確かめて安堵した。

 白虎のほうも異形を仕留めている。静寂が広がり、琥琅は辺りを見回した。

「……もういないようですね」

〈そのようだ〉

 雷禅と白虎も周囲に首をめぐらせ、警戒を解く。琥琅も長い息を吐いて気を緩めると、剣を振って血を払い、仕留めたばかりの大猿の毛皮で脂を拭った。

 ――――と。

〈ぼっちゃーん! お嬢ー! どこですかー!〉

 場に残る戦闘の緊張をぶち壊す、間抜け極まりない声が駆ける足音と共に聞こえてきた。必死そうなあたり、かなり怯えているようだ。

〈あれは……〉

「遼寧です。僕を乗せてくれている雄馬ですよ」

 川で小剣についた血を落とした雷禅は、半笑いで白虎に答えた。

 ほどなくして、遼寧がものすごい速さで走ってきた。少し速度を落として走る玉鳳も遅れて姿を現す。

 遼寧は辺りに転がる異形たちの死体を避けて、雷禅の前でやっと足を止めた。

〈坊ちゃん! なんなんですかこれ、この滅茶苦茶気持ち悪くて怖い奴ら! さっき天幕張ってた辺りの近くまで来てたんですけど!〉

「落ち着いてください、遼寧。もう安全ですから」

 首筋を何度も撫でてやり、雷禅は興奮しきっていななく遼寧をなだめる。それでも遼寧はなかなか大人しくならないので、繰り返し落ち着くよう呼びかけている。

 とはいえ、今回ばかりは玉鳳が緊張した空気をあらわにしているのだ。それだけ身の危険を二頭が強く感じたことがうかがえる。剣を鞘に納めた琥琅も雷禅を真似て、玉鳳の首筋を撫でてやった。

〈二頭とも、落ち着くがいい。この辺りにもう幽鬼と妖魔の気配はない〉

〈へ? ってぇっ!〉

 ぶるぶる鼻面を震わせていた遼寧は一瞬きょとんとし、それからようやく白虎に気づいて一層混乱した。興奮のあまりか後ろ足で立ち上がる。玉鳳は驚いていても、その場でぶるると鼻を鳴らすだけなのに。

 さすがにこれはうるさい。そろそろしめたほうがいいか、と琥琅は物騒な考えが一瞬よぎった。

 雷禅は眉を下げた。

「遼寧、彼は神獣ですよ。さっきもこの異形たちを倒すのに協力してくれたんです」

〈神獣? て、お邸とかにある廟で祀られてる像の〉

「そう、その神獣ですよ。さらに言うと、琥琅が主なんだそうです」

〈えええっ!〉

 また遼寧は激しくいななき、蹄を地面に打ちつける。やっぱりうるさい。

 ひとまず遼寧が怯えなくなったのを見てか、雷禅は短く息を吐いた。それから白虎に向き直る。

「一体この異形はなんなのですか? 幽鬼が人を襲う話は聞いたことはありますけど、あの大猿とかは……まるで伝説とかに出てくる妖魔のような」

〈その妖魔だ、あれは〉

 そう雷禅に白虎は断言した。

 天地をめぐる気の流れが乱れると、自然災害が多くなるだけでなく気のゆがみから異形のものが生まれ、災いを成すと清国では言い伝えられている。その異形が妖魔だ。だから皇帝は政治と神事を正しく行い、人の心をよどませたり天地に気のゆがみが生まれないようにしなければならないのだという。

 つまり今、天地をめぐる気がよどんでいるのだ。清国が誕生した頃のように。

〈でも、今は特別ひどいことが起きているとは聞かないわよ。立ち寄った宿で他の馬たちとも話をしたけど、そんなことはどこの馬も言ってなかったわ〉

「ええ……確かに西域辺境は大変な時期が続いていましたが、皇帝陛下が悪政をおこなったとかで中原の治安が悪くなったとは聞きませんね」

〈理由はわからぬ。だが天地の気は乱れている。だから私の意識は目覚め、主の血によって封印が解かれるのを待っていたのだ〉

 玉鳳と雷禅が不思議がるのよそに、白虎は断言した。

〈はるか昔、天地の気が乱れて幽鬼と妖魔が跋扈していた時代に私は先の主や仲間と共に戦い、この山の奥深くで眠りについた。いつかまた天地の気が乱れたとき、その時代での主と共に戦うために〉

「……」

 白虎廟で白虎から聞いた話を思いだし、琥琅は目を閉じた。

 そう、だから琥琅の養母は気まぐれを起こしたとき以外、ずっとこの神連山脈で日々を過ごしていたのだ。虎仙である彼女は乱世に清民族を守護する白虎と戦友で、次の戦いのときまで彼の眠りを守ると約束していたから。

 だが地上の虎仙である琥琅の養母に、白虎の主の生まれ変わりを見抜くことはできない。

 だから琥琅の養母は天より与えられた聖剣を常に佩いていた。

 いつか、この者こそ我と白虎の主の生まれ変わり――――と聖剣が叫ぶのを手がかりにするために。

 琥琅は戦うために生まれ、育てられたのだ。

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