第5話 血が導く再会

 夜。琥琅たちは山の中腹で野営することにした。雷禅が山の鳥たちに琥琅がかつて訪れただろう滝へ案内してもらっているうちに、日が暮れたのだ。

 鳥たちと別れたあとで天幕を築き、鹿を狩って必要なぶんだけ切りとって。適当に拾った木の枝に刺して琥琅は焚き火で鹿肉を焼いていた。

「……」

 そわそわしながら見ていた琥琅は、そろそろだろうかと木の枝をとって鹿肉にかぶりついた。少し早くて芯まで火が通っていなかったが、琥琅にはこれでも充分だ。二年ぶりの鹿肉の味に、琥琅は思わず頬を緩ませた。

 そんな琥琅の隣に、雷禅はいない。琥琅が狩りへ行っているあいだに夕食を済ませ、近くにある川へ水浴びをしに行ったのだ。琥琅が鹿肉を調理し、食べるのを見ないために。

 鳥獣を人間と同じように友として接する雷禅は、鳥獣の肉を食べることだけでなく調理を見るのも好まない。たとえ日常的に見ることのない、猪や鹿であっても。琥琅は雷禅が肉を食べるのをあまり見たことがない。

 人間は獣の肉を食べるものなのにな、と琥琅は不思議に思う。それに天幕から離れたところで玉鳳と遼寧はのんびりしていて、琥琅が何を食べているかなんて気にしていない。彼らもまた、状況によっては人間の食料となる側であるのに。

 でも雷禅は根が優しいのだ。だから自分が食べるものを気にしてしまうのだろう。

 琥琅が鹿肉を食べ終え、久しぶりの味に満足してしばらく。雷禅が戻ってきた。

「雷」

「琥琅、夕食は食べ終わりましたか」

「ん」

 こくんと琥琅は頷いた。それはよかった、と雷禅は息をつく。

「秀瑛殿たちはここの下流で野営しているようです。川で水浴びをしているとき、声が聞こえてきましたよ。どうやら少し遠回りしただけで、僕たちはあの土砂崩れがあった辺りの上へ来ていたみたいですね」

〈ああ、そうみたいっすねえ。声は聞いてないですけど、方角はそれっぽいなって思ってました〉

「……」

 雷禅に続いて遼寧も言うので、琥琅は眉間にしわを刻んだ。騒がしいのは好まないのだ。

 雷禅はくすりと笑った。

「大丈夫ですよ。彼らは僕たちが上のほうにいると知らないでしょうし、時間がかかりますからこちらへ来たりしませんよ」

「……」

「だから水浴びしてきてください。明日こそ洞窟へ行くんでしょう?」

 と雷禅は荷物から手拭いを取りだすと琥琅に渡す。琥琅は仕方なく頷くしかなかった。

 宿営地の明かりと賑わいから離れると、辺りは昼間以上の静けさに包まれた。風が吹いていなければ、鳥獣や虫の鳴き声もない。琥琅の足音と水の音ばかりが耳に届く。

 ほどなくして、月に照らされた川が見えてきた。

 幅はあまり広くなく、流れは一見すると緩い。首をめぐらせると、川の流れはすぐ近くの崖で途切れて向こうの緑に覆われた山々が見える。

 服を脱いで足を差し入れると、思ったよりも底は深かった。まっすぐ立った琥琅の肩近くまであり、中の流れも速い。足を滑らせれば、あっというまに流されてしまうだろう。

 琥琅は足元を探りながら、手近に姿を見せている岩にもたれかかった。流されないよう軽く踏ん張って、下流のほうを見る。

 下流の滝の音に混じって、男たちの笑い声が聞こえてきていた。この崖は琥琅が思っていたよりも高くないのだろう。夜の静寂に品のない声が広がっては消えていく。

「……」

 人間が自分の近くにいることがより確かに感じられ、琥琅は眉間にしわを刻んだ。どうしてこんなところでも、人間の声を聞かないといけないのか。

 さいわい、男たちの声はすぐ聞こえなくなった。崖から離れたためか、男たちがさすがに騒ぐのをやめたのか。どちらでもいい。琥琅は安堵の息を吐いた。

 けれどもうのんびりと水浴びする気になれず、琥琅は川から上がった。持ってきた手拭いで身体を拭く。

 袍をまとって剣を腰に佩き、靴に足を入れようとして琥琅は踏みしめた左足の裏にぴりと痛みを覚えた。裏返してみると、少々深めの切り傷から血がにじんでいる。

 地面を見てみれば、灰白色の石の割れて剥きだしになった断面に琥琅の血が散っていた。どうやらこの石で切ってしまったようだ。石を拾いあげ、琥琅はむうと眉をひそめると素足のまま踵を返す。

 そのときだった。

 突如、あるはずのない硝子が破砕する大音声が辺りに響き渡った。思わず琥琅は耳を塞ぐ。

 音につられるように、琥琅の心の臓が強く脈打った。

 なんだこれ――――!

 混乱する思考の中、琥琅は雷禅が待つ方向を探した。そう、雷禅のそばへ行かなければ。

 しかし。

 今度は砂利が消えうせた。声をあげることもできず、崖でもないのに琥琅の身体は落ちていく。

 闇の中へと――――――――。

「雷……っ!」

 感情が身体を突き抜け、琥琅は叫んだ。

 落ちて死ぬことへの恐怖はなかった。それよりも、雷禅と二度と会えなくなるのではという恐怖が琥琅の胸を占めた。そんなのは絶対に嫌だ。

 雷、雷――――!

 琥琅が心の中で叫んで、数拍。琥琅の周囲の闇が突然晴れた。光に包まれ、琥琅は思わず目を閉じる。

 そのあいだに琥琅の身体を風が包んだ。昼間に琥琅の養母の墓前で吹いたものと同じ風だ。

 落ちる速度は急激に緩くなり、琥琅は目を開けた。

「……!」

 眼下に広がる光景に、琥琅は息を飲んだ。

 黒い斑点が散る岩肌、赤く太い柱、五色の欄干、垂れ下がる金糸の刺繍。宙に浮かぶ灯籠の明かりは、惜しげもなくいたるところに施された金細工を輝かせている。

 床の左右には水路があり、天井から流れ落ちてきた水で満ちて床の装飾の一部となっている。空間は広く、琥琅がいる地点からは奥まで見えない。

 洞窟の絶景と人工物の美が混ざりあった、不思議な場所。

 もしかして、ここが捜していた廟――――?

 間違いない。ここを自分は捜していたのだ。水路があったことは覚えている。

 しかしその水路の水は今回、水路を満たす水には以前なかった一筋の赤い線が揺らめいていた。床が近づくにつれ、水底の装飾ではなく赤い水が水面を漂っているのだと琥琅は気づく。

 琥琅が戸惑っているうちに、足がふわりと床についた。剣の柄に手を置き、琥琅は辺りを見回す。

 どこを見ても、以前訪れたときから時間が流れていないかのように色褪せていない。あのときと違うのは水路に赤い筋があって、廟の奥へ向かってゆっくりと流れていることくらいだ。

 まるで像を目指しているかのように。

「……」

 糸に引かれるように、謎の廟を琥琅は奥へと進んでいった。

 水路を流れる赤い水を追い越していくうち、琥琅は幼い頃に戻ったような錯覚にとらわれた。視線の高さがぐっと下がり、剣胼胝のある手に包まれているような。

 でもそれは幻想だ。悲しくなって琥琅は首を振り、廟の奥を強い視線で見た。

 どうして自分はここへ入ることができたのだろう。前に訪れたときは洞窟の奥まで養母に連れて行ってもらって、そこからさらに金色の粒や黒い斑点が散る崖に触れてやっと入ることができたのだ。なのに何故、今回は沢から廟へ落ちたのか。

 そこで琥琅は息を飲んだ。左右の水路を流れる赤い筋を見る。

 そうだ、自分は流したではないか。地上で地面に自分の血を。

 この赤い筋は琥琅の血ではないだろうか。あの石か歩いたとき地面についた琥琅の血がこの廟に伝い落ち、琥琅は強制的に招かれてしまったと考えれば納得がいく。というより、それ以外考えられない。

 なら琥琅は神連山脈のどこぞの地面に自分の血をしたたらせれば、日中にここへ辿り着けたのではないだろうか。山奥の洞窟からでなくてもいいのだから。

 そんな考えが浮かび、琥琅は顔をしかめた。山を駆けまわるのは苦ではないが、もっと楽に廟を見つけられた可能性があるというだけでも徒労感が出てくる。

 そんなこんなで足を止めることはあったものの、琥琅は奥へ進んでいく。やがて、天空の壁画を背景にした虎の像のもとに辿り着いた。

 普通のものより一回りは大きな、岩に前の両足を置いて今まさに吼えようとしている虎だ。純白の素材に墨か何かで縞を描いてあり、髭も見事に彫刻されている。瞳に嵌めこまれた、内包物のない均一な濃く深い青が美しい。

 巷にあるものとは比べものにならない雄々しい白虎像に、琥琅はただ感嘆のため息をついた。

 そう。幼い頃もこの白虎像に琥琅は見入ったのだ。一目で気に入って忘れられなくて、養母にもう一度連れて行ってもらおうとしたこともある。

 けれど養母は許してくれなかった。

『いくら用心を重ねていても、頻繁に行き来していれば見つかりやすくなるからな。もちろん愚か者どもに見つからないよう、色々細工はしてあるが……お前があそこへ行くのはまだ早い』

 困り顔で養母は言った。

『このあいだお前を連れて行ったのは、私に役目があることを知っておいてほしかったからなんだ。今まで私が理由を言わずお前のそばを長く離れることがあったのも、あそこの様子を見に行っていたからなんだよ』

『じゃあ俺、一緒に行く。俺、母さんの子供。一緒に守る』

 琥琅は養母の手を掴んでもう一度ねだった。

 そんな琥琅の頭を撫で、養母は微笑んだ。

『お前の気持ちは嬉しいよ。だがあいつを守ることは、私の役目だからな。お前には違う役目がある。……いや、あるかもしれない、か』

『母さん?』

『……お前がまたここへ来ないといけないようなことが、生きているあいだに起きないといいんだがな』

 そう祈るような声で言って、養母は琥琅を抱きしめた。

 幼い琥琅には、養母がどうしてそんな苦しそうにしているのかわからなかった。ただ琥琅にここへ来てほしくなさそうだったからそれ以来ねだらないようにしたし、廟について尋ねることもしなかった。養母もまた、琥琅に改めてこの廟について話すことはなかった。

 だから琥琅は養母が殺されたとき、この場所のことを思いだせずにいたのだろうが。しかしこうして振り返ると、やはり尋ねておけばよかったと思えてならない。

 養母も、どうして琥琅に役目を負わせてくれなかったのだろう。琥琅が養母の助けになりたいと願っていることは知っていたのだ。幼い頃は無理でも、もう少し成長してから話せばよかったのに。

 養母の重責を分かちあうには、琥琅はまだ頼りなかったのだろうか――――。

「……」

 思い出を辿ると悲しくなってきて、琥琅は緩く首を振った。

 やがて、あの赤い水が琥琅の横を通りすぎた。台座を上って白虎像の足元に届くのを琥琅はぼんやりと眺める。

 琥琅の血が白虎像の足に触れた、その途端。

 突如、琥琅の血が白虎像の足を駆け上がっていった。琥琅がぎょっとしているあいだに全身を巡り、白虎像は一つ大きく揺れる。――――まるで脈打つように。

「っ?」

 琥琅は息を飲んだ。さらに白虎像から熱が伝わってきたものだから、思わず跳びのいて凝視する。

 白虎像がびくりと震え、一拍置いて、明確な変化を遂げていった。

 まず、緩やかに身の上下を始めた。素材に刻まれているだけだった毛並みは質を変え、本物のそれになる。太い首と尾が動き、もはや彫像ではなく一つの生命であることを琥琅に主張する。

 何よりも、その目。理性を宿し、ただの宝石であったときよりも一層美しく力強い光を湛えて琥琅を見つめるのだ。

〈……ああ主。やっと会えました〉

 歓喜に震えるその声音は、雷禅よりも歳を重ねた青年のもの。確かに、琥琅の眼前、白虎の口からこぼれた。

 虎が人の言葉を話すことそのものは琥琅にとってさして驚くことではない。琥琅には獣の言葉を理解する才能があるし、琥琅の養母は仙力を得た虎――――虎仙だったのだから。

 だが、彫像が生命を得てましてや話すなんて話、現実で聞いたことがない。

「しゃべ……った…………」

〈この廟に封印されていたのです。いつか仕えるべき主が血を注いでくださる日まで、妖魔や愚者に見つからぬように。…………永く、貴女をお待ちしていたのです〉

 呆然として棒立ちになる琥琅をよそに、白虎はしなやかな動きで台から下りると、琥琅の手を舐めた。甘え、存在を確かめるように、琥琅の手に己の頬をすり寄せる。

 ――――温かい。虎の毛並みとぬくもり。

 懐かしい感覚。

 しかし琥琅は何故か、懐かしさ以外の何かが胸を駆け抜けたような気がした。

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