第3話 琥琅の帰郷・二

 その雷禅は琥琅の隣に両膝をつくと両手を組んだ。

「お初にお目にかかります。僕は綜雷禅。綜瓊洵の義理の甥で、琥琅の目付け役のようなことをしています」

 まるで目の前に琥琅の養母がいるかのように、雷禅は口上を切りだした。瓊洵の近況について簡単に報告したあと、出会ってからの琥琅の日々の暮らしぶりについても語りだす。

 琥琅は無表情ながら、口元だけは不満そうな形をした。

 仕方ないとは思うのだ。物心ついた頃から十数年ものあいだ山で獣と大して変わらない暮らしをしていた琥琅は、同じ歳の町娘なら簡単にできることができない。たとえば手芸や着飾ること、町で買い物をすること、人間と他愛もない会話をすること。

 音楽だけは養母がたまに竪琴を弾いてくれていたから、馴染みがあるけれど。城市や邸で行われているあらゆることが、琥琅にとっては未知であり違和感があるのだ。

 だから琥琅は養母から学んだ武芸を活かして護衛の仕事をすることはあるものの、基本的には人間らしい暮らしかたを学ぶことにこの二年を費やしていた。綜家の隊商に拾われてしばらくのあいだは、雷禅や瓊洵に。綜家の屋敷へ行ってからは、雷禅の義母や屋敷に滞在している老師に学ぶ日々だった。

 それこそ山奥の虎が人間になろうとするようなものだから、琥琅が雷禅たちに迷惑をかけないはずもなく。雷禅が養母に色々と言いたくなったのも、まあわからなくはない。

 でも、こんなにあれこれ言わなくてもいいんじゃないだろうか。そばで聞いている琥琅にとっては、ほぼ自分についての愚痴である。耳が痛いったらない。

 琥琅の暮らしぶりについての雷禅の報告は、すぐに終わった。琥琅をちゃんと人間の娘らしくします、といった趣旨で報告を結んでいるものだから、琥琅はじとりと雷禅をねめつける。

「……俺、ちゃんと勉強してる」

「ええ、貴女は真面目に勉強してますね。でも、所々でまだ虎の暮らしかたの感覚のままじゃないですか。人間の暮らしを始めて二年しか経ってないのですから、当然ですけど」

「ぐう……」

「ほら、その癖」

 ぴ、と指を立てて雷禅は指摘する。琥琅には不満があるとき、唸る癖があるのだ。

「学問、嫌い」

「言いたいことはわからなくもないですけどね。古典は仕方ないとしても読み書きと算盤、この国の地理と歴史くらいはきちんと覚えてもらわないと。綜家の一員なんですから」

「……」

「僕も暇があったら勉強を見てあげますから。彗華に帰ったあとも、老師から逃げちゃ駄目ですよ?」

 満面の笑みを浮かべて雷禅は言う。琥琅はふくれ面になるしかなかった。

 琥琅は口をへの字に曲げたまま、養母の墓石を向いた。

「俺、ちゃんと町の人間の勉強してるから。人間になるから。だから心配しないで。――――また来る」

 言って、琥琅は立ち上がった。墓石を目に焼きつけるように見つめ、それから雷禅を見下ろす。

「雷、行こ」

「はい。――――では、母堂。今日はこれでお暇させてもらいます。機会があれば、また」

 琥琅が促すと、雷禅は墓石にもう一度深々と頭を下げた。琥琅に続いて立ち上がろうとする。

 そのとき。琥琅の横から爽やかな風が吹いた。わずかばかりの力を含んだ、肌を撫でるような風。

「――――っ?」

 風が黒髪を緩くなびかせ通りすぎていき、琥琅は思わず息を飲んだ。

 泣きたくなるほど懐かしい、涼しく凛とした辺りを払う威厳。

 それでいて頬を撫でるように優しい――――――――。

「……母さん?」

 琥琅は思わずつぶやいた。

「琥琅? どうしました?」

 いつのまにか立ち上がっていた雷禅は不思議そうな、心配そうな表情をしていた。

「もしかして、何かを感じたんですか?」

「ん……」

 琥琅は眉をひそめて辺りを見回した。

「さっきの、なんか、母さんみたいな……」

 そんなはずがない。養母は二年も前に死んで、この石の下に眠っているのだから。

 でも、琥琅の未だ消えない養母への思慕を刺激したのだ。

 もう一度風が吹いた。先ほどより強く、琥琅の髪をなびかせる。

 やっぱりこの風、母さん――――!

 確信し、琥琅の表情は歓喜で輝いた。姿は見えなくても養母の魂魄がすぐそばを駆けていったように思えたのだ。

 そんな琥琅の反応を見ていたからか、雷禅は表情を緩ませた。

「貴女が元気そうなのを見て、安心したのかもしれませんね。虎は風を操ると、古典に書いてありますし」

「……だったらいい」

 琥琅は風が駆けていった先を見つめてつぶやいた。

 しかしそこで、琥琅の脳裏に景色がよぎった。

 虎――――。

「――――っ」

 琥琅は目を大きく見開いた。

 そうだ、虎。

 一度だけ見たことがある――――。

「って琥琅!」

 気づけば琥琅は風のあとを追うように走りだしていた。雷禅の制止が聞こえたが、心には届かない。

 だって、行かないといけないのだ。早く行かないといけない。

 どうして忘れていたのだろう――――。

「待ちなさい琥琅!」

「っ」

 雷禅の命じる響きに、琥琅はぴたりと足を止めた。

 追いついてきた雷禅は息を吐いてまったくもう、と言った。

「いきなりどうしたんですか。何か思いだしたんですか?」

「母さん、昔連れてってくれた。おっきな洞窟」

「大きな洞窟に?」

「ん」

 目を丸くする雷禅に琥琅はこくんと頷いてみせた。

 あれはいつだっただろうか。まだ小さかった琥琅は養母に連れられ、神連山脈の奥にある洞窟へ行った。青とも緑ともつかない色の美しい川が近くを流れていて、声がよく反響していたのを覚えている。

『ここはこの山で一番大事な場所なんだ。私はここの守り人をしているんだよ』

 洞窟の奥へ琥琅の手を引きながら、養母はそんなことを言っていた気がする。

 そうして。水が這うように流れる絶壁に触れるとまるで水面のように岩肌は波打った。琥琅がぎょっとするのを小さく笑いながら、養母は腕を絶壁の中へと差しこんでいって。

 そして――――。

「……それはまた、不思議なものを見たのですね」

 琥琅が覚えている限りのことを話すと、雷禅は長い息を吐き出した。

「ですが、そんな大事な場所ならどうして亡くなるとき、貴女をその洞窟へ向かわせなかったのでしょうか……大事であるなら、貴女に何かしら託していてもおかしくはないように思うのですが。他の機会に、聞いたりしなかったのですか?」

「覚えてない」

「義叔父上からも? 琥琅の母堂と親しかったのなら、何か教えてもらっていそうですが」

「ない」

 琥琅はふるふると首を振った。でも、とうつむく。

「俺、忘れてるだけかも。……それに母さん、最期、声ちっさかったから。俺、聞いてなかったのかも」

 今でも覚えている。血の気を失った顔の養母の声はささやくように小さかった。唇が動いているだけのとき、音になっていなかっただけで何か伝えようとしていた可能性はある。

 自分はそれを聞きとることができず、養母の最期の願いを叶えていなかったのかもしれない。そう考えると、琥琅は悲しくて悔しくなった。自分の怒りから自然と両の拳をきつく握り、歯を噛みしめる。

 ふむ、と雷禅は顎に指を当てた。

「琥琅。その洞窟がどこにあるのか、大体でも覚えてますか?」

「……覚えてない」

「では、山に棲む鳥や獣たちに聞いてみましょうか。貴女が言うような場所なら、誰かがどこにあるか知っているかもしれません」

「!」

 雷禅の申し出に、琥琅は大きく目を見開いた。雷禅はふわりと笑う。

「一度思いついた以上、貴女もその洞窟へ行かないときまりが悪いでしょう? なら、彗華へ帰る前に解決しておきましょう。まずは戻って、遼寧と玉鳳に伝えないといけませんけどね」

「…‥っありがと雷!」

 琥琅は顔を輝かせた。歓喜のあまり、雷禅に抱きつく。

「っこ、琥琅何するんですか! そう簡単に抱きついたりしちゃ駄目だと前から言っているでしょう!」

 雷禅の慌てた声が頭上から降ってきて、琥琅を身体から引き剥がそうとする。

 だが琥琅は構わずしがみついた。だって嬉しいのだ。

 雷禅は優しい。出会った頃は野生の虎そのものの琥琅を嫌っている節があったが、世話を繰り返すうちに態度が柔らかくなっていった。今も琥琅の振る舞いについて小言は多いが、こうして琥琅のために時間と労力を割いてくれる。琥琅はそんな雷禅が大好きだった。

 琥琅が離れたがらないからか、雷禅はやがて降参とばかり抵抗を諦めた。琥琅の頭を丁寧に撫でてくれるのが嬉しくて、琥琅は雷禅に抱きつく。

 ――――しかし。

 感覚に何かが触れた瞬間、幸福に浸っていた琥琅の意識は一瞬にして警戒に染まった。抱きついていた雷禅の身体から跳ねるように離れ、腰の剣の柄に手をかける。

「琥琅?」

「誰か来た」

 不思議がる雷禅に、不機嫌な声で琥琅は答えた。

 人の声が遠くでしたのだ。それに、馬の足音もかすかにする。

 誰だ、琥琅の幸福を邪魔する者は。賊なら斬り捨ててやる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る