第2話 琥琅の帰郷・一
「雷、あれ」
清国の元々の領土の地域である八州と国の西部の境目で南北に延びる
なにしろ、谷の反対側にある山道が土砂で塞がっているのだ。かなり上のほうから土砂崩れが起きていて、緑に覆われていたはずの山肌がすっかりむきだしになっている。まるで巨人の一振りでも受けたかのようだ。
雷禅も琥琅の隣で馬の足を止めた。
「僕たちがここを通ったあとに強い雨が降りましたから、そのときに崩れたんでしょうね」
「あれ、帰りの道」
「はい。このまま道のりに行けば、あそこに着きます。通れないとなると、他の道を探さないといけませんね」
「別の道、探す?」
琥琅は首を傾けた。案内するぞ、と言外に含む。
というのも琥琅は物心ついた頃から二年前まで、この神連山脈で養母と共に暮らしていたのである。旅人が行きかう道を通らなくても西へ抜けることは簡単だ。
〈でも坊ちゃん、なんか向こうで動いてますよね。あれ、人間じゃないですか?〉
琥琅と雷禅が話していると、不意に会話に割って入ってくる声があった。
しかし声と言っても琥琅たちの後ろからではないし、そもそも耳から入ってくる人間の言葉ではない。
雷禅の真下――――またがっている栗毛馬の
雷禅はええ、と頷いた。
「僕たちと同じように、西を目指す人たちで復旧作業をしているようです。随分進んでいますから、あれだと数日以内に作業は終わるでしょうね」
〈じゃあ、休憩にしましょうよ坊ちゃん。ほっといてもあっちの人間が道を走れるようにするんですし。今のうちに休みましょうよ〉
〈馬らしくないわね遼寧。他の道を探しなさいよ〉
雷禅の下で栗毛の馬が怠けたことを言いだすと、琥琅がまたがる白馬の
このように琥琅と雷禅に感情豊かな言葉を向けてくる馬たちだが、彼らは天華と違って普通の動物だ。琥琅は神連山脈で過ごすうちに動物の言葉を理解する感覚を身につけているので、彼らの言葉がなんとなくわかるのである。養母が言うには、いくらかは異能の素質も要因らしいが。
一方。雷禅は経験で得た能力ではなく、生来の異能のみによって鳥や獣の言葉を理解している。身近ではない生き物の言葉はわからない琥琅とは違って、どんな鳥や獣の言葉でも彼にとってはわかるのだ。天華が雷禅のもとに留まっているのも、この異能に関心を寄せたからというのが理由の一つなのだという。
雷禅は苦笑した。
「まあ、最後に水を飲んでから結構経ってますしね……そうだ琥琅、貴方が住んでいた洞穴の辺りまで、どのくらいかかりますか?」
「ん」
尋ねられ、琥琅は辺りをきょろきょろと見回した。二年ぶりの記憶を引っぱり出し、さらに植物や地面の様子をよく観察する。
「そんなに離れてないと思う。川も近かった」
〈ちょうどいいじゃないですか。坊ちゃんはお嬢の里帰りに付き添って、俺と玉鳳姐さんはその川で休憩ってことで〉
〈要するに怠けたいだけでしょ〉
〈いいじゃないですか、俺たち荷物も背負って走ってきたんですし。ね? 坊ちゃん〉
冷ややかな玉鳳に言って、遼寧は背に乗せた雷禅にねだる。馬は走ってこそ人間に生かしてもらえる生き物ではなかったのだろうか。
変な草を食べていないならそれなりに美味いかもしれない。お調子者を震えあがらせること間違いなしの観点で琥琅が見ていると、折衷案ですね、と雷禅はにっこり指を一本立てた。
「琥琅。僕も母堂に御挨拶して構いませんか? 行きは通り過ぎてしまいましたし、次はいつ来るのかわかりませんから」
「……! うん! 行こ雷!」
「川までは遼寧と玉鳳にもう一走りお願いします。それと、僕と琥琅が戻ってきてもまだ撤去作業が続いているようでしたら、遼寧と玉鳳にも協力お願いしますね」
〈はいっ?〉
琥琅が顔を輝かせているあいだに雷禅がさらりと次の労働を指示すると、遼寧がいなないた。
〈坊ちゃん、まさか俺たちに土やら木やらを運べと?〉
「人手は多いほうがいいじゃないですか。あちらのほうの馬たちも物を運んでいるでしょうし。僕も手伝うつもりですし。琥琅もお願いしますね」
「ん」
〈そんな、坊ちゃん、俺も玉鳳もここまでそれなりに走ってますよ?〉
〈あら、私はまだまだいけるわよ?〉
遼寧が雷禅に抗議すると、その玉鳳が口を挟んだ。え、と遼寧が首を向ければ、人間に忠実な雌馬は遼寧に冷たい目を向けるばかり。遼寧がやらなくても自分はやるつもりなのは、明らかだ。
意中の雌馬の非難を浴びた遼寧は、はあああ、と重く長いため息をついた。
〈うう、坊ちゃんって時々馬使いが荒いですよね〉
「すみません。山を越えたら塩と砂糖をあげますから。……琥琅も手伝ってくれますか?」
「……わかった」
苦笑を向けてくる。とはいえ、雷禅が手伝う気なのに琥琅が見ているだけというわけにはいかないのだ。琥琅は雷禅の護衛なのだから。
そんなこんなで山道を外れ、川へと一行を案内したあと。琥琅は遼寧と玉鳳を残して、雷禅と共に故郷の山々をさらに奥へと進んでいった。
枝葉が揺れる音や小鳥の鳴き声を聞くともなしに聞き、色や匂いを感じながら歩けば歩くほど見覚えのある景色に琥琅の記憶は揺さぶられた。この辺りを駆けていた二年前までの日々が脳裏をよぎる。
彗華から通ったときはまだ花が木々に春を告げていたのに、半月余りで木々に生い茂る緑は鮮やかで瑞々しく、花に負けない存在感を放つようになっていた。乾いた大地にある彗華のように、緑のそばに砂漠が広がっていたりもしていない。たくさんの緑が濃厚な匂いと共に辺りに満ちている。
「……」
行きのときもそうだったが、こうして故郷へ帰ってきてみるとやはり琥琅の心はざわついた。呼吸をし、草木や土の匂いを嗅いだり獣の存在を感じるたびに、懐かしさ以外にも多くの感情が絡みあって喉からせり上がってくる。
やがて琥琅の視界に、何本もの木々が折れて開けた場所が見えてきた。さらに足を進めると、崖の下にぽかりと開いた洞穴が姿を現す。
「……」
辺りを注意深く見回して獣の姿がないことを確かめると、琥琅は洞穴に近づいた。
奥行きがあまりない洞穴の中は、見たところ獣がいるようではない。しかし濃厚な獣の臭いが漂っているところからすると、ここに獣が棲んでいるのは間違いないだろう。今はたまたまどこかへ行っているだけだ。
「……あの洞穴が、貴女と母堂の家だったのですか?」
「ん」
静かな声で尋ねられ、琥琅はこくんと頷く両の拳を握りしめた。
そう、琥琅はこの洞穴で養母と共に暮らしていたのだ。夏の暑さは木陰でやりすごし、温かな毛皮にくるまって厳しい冬の寒さを乗りきり。襲ってきた賊は養母と共に問答無用で追い払っていた。
時に獣を追って死闘を繰り広げ、時に川を見下ろし魚を捕らえ。血に濡れれば川や泉で落とし、肉にかぶりついて腹を満たした。
養母と二人きりの生活だったが、さみしいと感じたり外の世界に憧れたことは一度もない。賢く強く凛々しい養母のことが琥琅は大好きだったし、神連山脈の外へ行きたいとも思わなかったのだ。外の世界へ行ってみるかと時々養母に聞かれることはあったが、琥琅はずっと首を振っていた。
そんな日々はある日突然、終わりを告げた。
腹立たしさと諦めの気持ちがこみ上げてきて、それが不快で琥琅は身をひるがえす。早足でさらに奥へと歩いていく。
ほどなくして木々の枝葉が途切れ、曇り空と山々が一面に広がった。絶景を背景にした崖には苔むした石が一つ、不自然に転がっている。
「……ただいま、母さん」
石の前に膝をつき、琥琅はささやいた。
この石は二年前に琥琅がここに置いた。養母が好んでいたこの見晴らしがいい崖は、養母の墓に相応しいと思ったから。
二年前。猟から帰ろうとして異質な気配を感じた琥琅が慌てて戻ると、洞穴の前に血の海が広がっていた。辺りには黒くどろどろしたものも撒き散らされていて。
そして血の海の中に、傷ついた養母が倒れていたのだ。
虫の息だった養母は最後の力を振り絞るように琥琅に指示を与え、息絶えた。
彗華へ向かえ、と。
養母は時々、気まぐれで少しのあいだ滞在していた彗華でのことを琥琅に話してくれていた。中でもよく話してくれたのは、そのとき懐いてきたという腕っぷしの強い少年のことだ。筋がいいから武芸を教えてやっていたのだが、嫁になってくれと何度も言い寄ってきていたのだという。
お前とは添い遂げられないと言っても諦めようとしない面白い奴だったよ、と笑っていたものである。
――――そんなことを話していたら、まさか山中にやってくるとは思わなかったが。
それが雷禅の義理の叔父である綜瓊洵だ。
惚れた女がこんな荒くれた養女を育てていると知ってもまだ嫁になってくれと言う、本当に奇特な男だった。琥琅にもへらへらした笑顔を向けてきて。養母が相好を崩して彼と話をしているのが腹立たしかった。
だからか養母の亡骸を埋めたあと、琥琅の脳裏に瓊洵のことがよぎったのだ。あの男に養母の死を知らせないといけないと思った。
そうして琥琅は彗華を目指し西へ西へと向かい、行き倒れ――――幸運にも瓊洵率いる綜家の隊商に拾われた。雷禅とはそのときに出会ったのだった。
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