第30話 開花
殺した騎士の馬に乗り、月のかがやきはじめた砂漠を駆ける。
背後から飛んできた
騎兵隊が追ってきていた。
仲間を殺したミスルの王奴を、どうあってもばらばらに刻みたいようだった。
ちらと肩越しに背後を見る。
敵は四騎。鎖かたびらと革鎧を身につけている。追跡のための軽騎兵だ。
“白い肌の連中が、騎射が下手でたすかった”
北の十字教徒たちは馬に乗っても、矢を放つより、接近しての白兵戦を好む。先ほどのように弩を射ちかけてくることはあるが、弩は一度射つと再装填に手間がかかる。
弩は、付いているあぶみを足でふんで装填する。
“馬上ではとても次の矢はつがえられまい”
飛び道具さえ当たらなければ余裕はある。
スッカルの思考はぼんやりと、さっき出会った女のことに向いていった。
なぜあの白いジンの女を見逃してしまったのか、かれは考えた。
“あの口づけのせいか? 色ぼけしている場合かよ”
だが、女を殺さなかったことについてはまったく後悔しなかった。
心を潤すことも必要だ。
前方にアカシアの木が見えてきている。
“このまま追いすがらせておけば、敵騎は間隔が開いてくる。そうなったらこっちから反転してひとりずつ討ちとってやる”
そう思ったとき、衝撃が背をうがった。
落馬した。
ごろごろと砂漠を転がる。砂まみれになり、スッカルはうつぶせになって血を吐く。
その背には太矢が突き立っている。
“しまった、新式の弩――手だけで馬上でも装填できるやつを持ってた”
苦痛が思考をつんざくなかで、どうにかそれだけ認識した。
「仕留めたぞ!」
弩をかざした敵騎兵が大声で叫んだ。
右手に槍をかまえた別の騎兵がスッカルに追いつき、とどめの刺突を突き入れる。
血が飛び散った。
槍の騎兵の顔面から。
跳ね起きて刺突をかわすのと同時にスッカルは剣を槍の柄に添え、跳躍しながらすりあげて敵の指と顔面を切り上げていた。
並の戦士では不可能な離れ業――それも手負いの身で。
「化け物が!」
落馬した槍の騎兵がわめく。その口に剣先を突き立てたのち、スッカルは倒れかけて、かろうじてこらえた。
“動け。はいずってでも逃げなければ”
自分を叱咤し、スッカルはよろめいて走りはじめた。アカシアの木をめがけて。
“治る――おれには霊薬があるんだ、こんな傷は時間さえあれば治る”
そうはいっても、霊薬は万能ではない。血を大量に失えば、首を体から切りはなされれば、心臓や脳に即死級の一撃をもらえば死ぬ。それに、「スッカルの身体には霊薬がまだ馴染んでいない、もう何年かしてからでないと怪我はたちまちには治らないと思う」とライムーンからは聞いていた。
この深手の状態で追いつめられたら、シキリーヤ人たちはかれを囲んで殺すだろう。
最後の希望は、
“ライムーンが……ライムーンに待機させている。ふたりで協力すれば勝てるかもしれない”
血をこぼしながらアカシアの樹の下によろめき入ったかれを、残った敵騎三人がとりかこんだ。かれがもう走れないとみて続々と下馬する。
「ミスルの王奴め、まだ逃げるなら尻から串刺しにしてやる」
弩の兵が吐き捨て、新たに装填を済ませて地面に下りる。
ふらつきながら剣をかまえたスッカルの腰を、背後から歩みよってきた兵が蹴飛ばした。スッカルはまたうつぶせに倒れる。
息絶え絶えのスッカルを、シキリーヤ兵たちは蹴転がして横向かせた。
かれはせきこみながら上方に顔を向けた。
視界には、アカシアの枝がくろぐろとうつっていた。
「……あ」
スッカルは目をみひらいた。おどろきで。
“ライムーン……なのか?”
それは同時だった。
かれを殺そうとするシキリーヤ兵の刃がふりあげられたのと、
ライムーンが枝を蹴ってその頭上にとびかかったのは。
本日二度目の高所からの奇襲は、一度目よりさらに、敵に効果的なおどろきを与えた。兵たちがいっせいに驚愕の声をあげる。
その獣の爪は人の頭骨をもつらぬくのだ。人体でもっとも硬い骨を。
たとえ体格の小さな若い豹だろうと、非常に危険な猛獣。金の
「な――なんだこの獣は!」
叫んでつきこまれた剣をかわし、ライムーンの爪が兵のひとりの顔面にふるわれた。血にまみれた眼球が宙にとびだす。絶叫が耳をつんざいた。
猛獣を眼前にして、恐慌におちいった馬たちが四方に逃げちる。乾いた砂がけたてられ、血しぶきが小石とともに飛ぶ。
弩の兵があとじさる。そいつは恐怖しながらも、ライムーンに狙いをつけようとしていた。
だが、倒れたスッカルに近づきすぎていた。
寝そべったままスッカルは、弩兵の尻をめがけて剣を突き上げる。
会陰部をふかぶかと貫かれると、そいつは絶叫して魚みたいにびくんびくんとはねる。手から装填した弩がぽろりと落ちた。
「尻から串刺しになるのは貴様だったな」
つぶやいて、かれがどうにか起き上がると、最後に残ったひとりは逃げ出していた。馬を追いかけて走っている。
“逃げられる。そうなったら、もっと大勢の追っ手が来るかもしれない”
「追ってしとめろ、ライムーン……ライムーン?」
豹は最初にしとめた兵をまだ爪で引き裂いていた。めちゃめちゃに。
“われを忘れてるな。はじめて人を殺したんだ。しょうがない”
頭をふり、スッカルは弩をひろいあげた。
かすむ目を必死にこらす。逃げる兵の背を正確に狙って……射つ。
うなじのうしろに命中する。兵は倒れる。即死。
ほっとしたとたん、背が裂けるような激痛が走る。
うめきながらスッカルは軽口をたたく。
「ライムーン、さっきのおまえには二度もおどろかされた。いつのまに、豹に変化できるようになってたんだ? そのうえ、おまえが人を殺すだなんて」
返答はない。スッカルは弩を投げ出した。
「死体をひっかくのはもういいだろ。そいつは生き返りやしない。おれの背の矢を抜いてくれ」
ふりかえると、ライムーンはジンの少女の肉体に戻っていた。
裸で、引き裂いた肉体の上に四つんばいになり、うつむいてふるえていた。
そして、右半身全体には紋様が……優美の書体のような、赤い曲線が浮いていた。なめらかな頬からきゃしゃな首に、脇腹から背中に、右の尻たぶに、太ももからふくらはぎにかけて、さながら血の色の蛇がからみつくように。
入れ墨のように見えて、だが入れ墨ではない証拠に、その赤い紋様はほどなくしてじわりと薄れはじめる。
妖印。
「……ライムーン」
スッカルは低めた声をかける。
彼女はまだふるえている。そのくちびるがあえぐように息をつぎ、がちがちと歯鳴りが漏れた。一瞬、彼女が嘔吐するかとスッカルは思った。
最初の殺しを、彼女は剣や槍でおこなったのではない。変化して、その手で殺したのだ。指先は粘る赤いものに濡れており、シキリーヤ兵の眼球がそのそばに転がっていた。
「スッカル」
震える彼女は顔を上げて、スッカルを見た。
「
琥珀金色の瞳――豹に変化してもそこだけは変わらなかったため彼女だと気づいた――が、瞳孔を大きく開いて、涙をあふれさせそうになっている。
優しく甘いライムーン。
スッカルはライムーンのそばにいざりよる。彼女の小さな頭を、ぐいと肩口に引き寄せた。
「ライムーン。『われわれは鋼、われわれは犬』だ。いえ」
「わ……われわれは、鋼、われわれは、犬……」
「『われわれは刃、われわれは牙』」
「われわれは刃、われわれは、きば」
「そうだ。おれたちは奴隷だ。ミスル王の鋼であり犬であり刃であり牙だ。『お仕えします、奉仕します、服従します』だ。殺しはおれたちの仕事なんだ、心を捨てろ。敵のすべてを虫けらと思え。おまえはいま害虫を叩き潰した。よくやったんだ」
白いジンの言葉を、スッカルはもう一度思い返した――「血を好むけだものをあなたは育てすぎている」。
今度は苦いものがこみあげた。
“けだものはしばらく必要だ。おれとこいつが生き延びられなきゃ話にならない”
「ましていまのは、おれを救うためだったろう。殺したことを気に病むな、ぜったいに」
「スッカル」
ライムーンはかれの首に手を回してすがってきた。
「スッカル、スッカル」
抱きとめながら、“こいつを守る”とスッカルはもう一度心につぶやく。
それがかれのいまの生きる意味だ。
「おまえの“変化”の力が目覚めたのだから、ミスルにもどったらダマスカス鋼糸の軍衣を要求してみよう。あれはジンの変化にともなって、形を変える魔法の衣だそうだから……生きのびる役に立つ」
闘争に激しく舞いあがった粉塵を、夜の風が砂丘のむこうにさらっていった。
「ライムーン。生きのびて功をあげつづければいつの日か、おれたちは軍から解き放たれる」
軍に在籍しておくほうが権力をつかむには有利だが、いまのところそちらに興味はなかった。命がまずは優先だ。
「ミスル王に年金か土地をもらって、
ライムーンはこたえない。
腕のなかで、かれに軽い体のすべてをあずけきったまま、ただしがみつく力を強めてきた。
数ヶ月後、ミスル王奴軍はシキリーヤ人たちをアフリカの地から一掃した。
若い王奴候補たちの試験を兼ねて、余力を残しての完勝。
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