第29話 白いジン


 スッカルは小屋を見回す。騎士も従者も旗持ちも、死体となって転がっている。

 内部はひどい有様になっていた。さっき乗っていた天井近くの梁まで血がとどいている。


 かれはとびおりざまに、なたで騎士の頭を叩き割った。すぐにその腰の剣をうばって、凍りついていた旗持ちの首を半ば切断した。背後から従者に剣を突きこまれる気配――身をひねって刺突を皮一枚でかわし、従者の胸にこちらの剣を突き立ててぐりっとねじった。

 血の海を意に介さず、ずちゃりとスッカルは歩みだす。見つけておいた火打ち石をふところから取り出す。


“畑と家々に火を放てば任務は終わりだな”


 占領が目的の任務ではない。


 ミスル軍の指令はこうだった。「破壊し殺戮し犯し焼き払え」と。

 リービヤ入植団の生活基盤を灰にしろと。打ち、打ち、打ち、打ち、ただひたすら繰り返して痛めつけろと。そうすれば、シキリーヤ人どもは被害に音をあげて海に撤退するだろうと。

 広範囲でシキリーヤ人どもの拠点を叩き、さっと引き上げて、べつのところを襲う。襲撃をくりかえし、じわじわ弱らせて海に追い落とす。そういう戦略だ。

 この村だけでなく、海岸沿いのあらゆる入植地が襲撃を受けているはずだ。


 手際よく床のわらに火をつけたとき、ひっ、と小さな声が聞こえた。


 生存者に気づいていなかったわけではない――スッカルは目を向ける。物置きのすみで、かれを村に入れた農民ががたがた震えている。小便の臭いがして、見下ろせばそいつのズボンの股ぐらは黒く濡れていた。

 無感動にスッカルは農民を見やった。

 剣をだらりと下げて歩み寄ると、若い農民は引きつった声をあげた。


「来るな。よせ。助けて」


 燃え上がる火を背景に、酷薄にそれを見下ろし、スッカルは聞く。


「死にたくなければ正直にいえ。この村にいるシキリーヤ人の貴族や剣士は、ここに転がった死体どもだけか?」


「い……いいや! まだいる!」


 ぴたりとスッカルは動きを止めた。


「まだいる? どこだ?」


「きょ、教会に! 女だ! ひとりきりで教会にこもって祈ったり、なにか読んでたりする! なあたのむ、俺を殺さないでくれ!」


“聞くことは聞いた。こいつを生かしておく必要はない”


 息の根を止めようとして――とつぜんスッカルは剣が重いことに気がついた。


“なに?”


 この相手は兵士ではない。

 スッカルを逃亡奴隷と思って情けをかけた農民だ。

 殺すべきか体が迷っていることに、スッカルは当惑を覚える。


“何してる、殺さないと――”


 数瞬の迷いだったが、かれの隙を見て農民ははねおきた。わあわあ叫びながら戸外に飛び出す。「ミスル兵だ! ミスル兵が来た!」

 スッカルは強く舌打ちした。追いすがって斬ろうと一瞬考えたが、すでに村じゅうに触れ回られた以上それもとくに意味はなかった。


“もういい。火をかけて、教会にいるという貴族らしき女だけ捕らえるか斬るかして、さっさと引き上げよう”


 物置き小屋から出て、火を放つ。

 シキリーヤ人の村人たちが、家のなかにかけこみ、戸のすきまからおびえた視線をそそいできていた。

 スッカルは視線を無視し、納屋に収納されていたたいまつと油を使って、家々に火をかけていく。火が大きくなれば住民は屋内から逃げ出すだろう。もし自分に向かってきたら殺せばいい。住民がまとめて向かってきても怖くはなかった。専門の戦士と非戦闘員ではそれだけの差がある。


 炎がたちまち村中に広がる。

 煙がたちこめ、悲鳴がそこかしこから上がる。


 家々から逃げ出す住民を尻目に、容赦なく土をふみしめて村の中央に進む。

 教会がどこにあるかはわかっていた。


“十字教徒どもは唯一神教徒の土地を占領したら、モスクを教会に作りかえる”


 血に濡れた剣をひっさげ、スッカルは教会の戸を激しく開けはなつ。

 ぴたりと動きを止めた。

 少年のぎらつく目が、おどろきに丸くなる。

 異国の美女がいた。壁の壁龕ミフラーブの前に机と椅子をひき、書物をひろげている。蜜ろうのろうそくが、かれと同じくらいおどろいた表情を照らしだしていた。


 おっとりとしたまなざしが、かれを見つめる。

 ややあって、彼女はスッカルを見つめる目に涙を浮かべ、シキリーヤ語でつぶやいた。


「わたくし、鼻を削がなければいけないのかしら」


 椅子にすわる女は、人ならざる美しいものだった。

 北の大陸ヨーロッパの貴婦人のドレス。金糸の滝となって床まで流れる黄金の髪。しぼりたての乳よりなお白い肌。胸や骨盤まわりにやわらかな肉感をたっぷりそなえた、女として成熟しきった体つき。優しげな深緑の瞳は森の色。

 横に長くとがった耳は、魔性の証。


「ジン族だと?」


 つぶやき、スッカルはそれから“違う”と気づいた。


“すこしだけ違う。北の大陸の白いジンか”


 十字教徒たちの地では、ジン族はアールヴエルフと呼ばれるという。もっとも、砂漠のジン族と違い、白いジンは戦闘能力にさほど長けていないと。それはスッカルにとって好都合だった。


「でも困ったわ。ナイフを持っていないもの」


 涙ぐんだ人外の女は、なおもおっとりとした口調で言った。スッカルに話しかけているのではなく、おびえからひとりごとを発しているようである。

 この女はなぜ自分の鼻を削ぐなどと言うのだろう?

 けげんに思ってから、スッカルは顔をしかめた。そういえば聞いたことがある。


『十字教徒の女たちは、異教徒に強姦されぬよう、捕らわれそうになれば自分で鼻を削ごうとする』と。


 それは強姦されずにすむ確実な方法ではない。戦闘直後で興奮した兵士は、鼻がない女でもしばしば犯すことをためらわない。

 だが純潔を守るために、彼女たちにはほかに手がない。

 彼女らの信じる十字教は――唯一神教もおなじだが――信者に自殺を禁じているのだから、顔を損傷して男の情欲をそぐくらいしかできないのだ。


「鼻は削ぐな」


 スッカルは女と同じシキリーヤ語で口早に言った。まさか敵の少年兵が彼女の言葉を解するとは思っていなかったのだろう、白いジンの女は驚きと興味をこめてかれを見返した。

 スッカルは、シキリーヤ語を話すことができる。

 軍事学校で習得させられたからだ。

 先年、シキリーヤ人がまた海を渡ってリービヤの浜辺に上陸・植民して以来、戦争が起きることは予測されていたのである。

 リービヤはミスルのすぐ隣なのだから。


「あんたは捕虜だ。けれど心配はいらない。おとなしくしていればだれもあんたを傷つけない」


 女に向け、なだめる言葉を添える。連れて帰り、ミスルの宮廷に差し出すつもりだった。


“嘘じゃないさ、たぶん”


 この白いジンはどう見ても貴重な存在だ。シキリーヤ人から身代金を取るため丁重に扱われるだろう。よしんば奴隷にされるにせよ、こんなにも美しければけっして粗末な扱いはされない。ミスル王自身か、十二人の大アミールのだれかの後宮に入れられるはずだ。富に首までつかった豪奢ごうしゃな暮らしができるだろう……


“そして、おれはこの女を連れて帰ることで、また手柄をあげることになる。

 もらえる褒美は、ライムーンとおれの身を守るのに役立たせよう”


 思惑をめぐらせながら、女の白い手をつかんだ。教会のそとに連れだそうとして。

 女はかれをじっと見た。

 そして、なにを感じたのか、案外素直にかれに手をゆだね、すっと立ち上がった。

 が、


「……だれの血なのですか?」


 スッカルの服の血のしみをみながら、女はたずねた。


「シキリーヤ人の騎士たちだ。あんたの護衛だったのか?」


「わたくしの護衛というより看守のようなものでしたが……かれらはどのていどの怪我を?」


 問いかけに、スッカルは冷ややかに答える。


「殺したよ。いうことを聞かなければあんたも殺す」


 白いジンの女は、今度はおびえなかった。

 ただ沈んだ声を出した。


「そう……殺してしまったの」


 憎しみの響きは奇妙にもない。ただ純粋な哀しさだけが伝わる口調。


「傷つけられた人は治せる。でも殺された人はもうかえらない。どうして、あなたはこんなことを?」


 どうしてもなにも戦争中だ。あんたら異教徒が、船でこの大陸に渡ってきたからだ――そう答えようとしたが、スッカルは声をつまらせた。

 シキリーヤ人たちにとっては大国ミスルの圧迫は恐怖そのものだろう。

 しかしミスルにとっては、シキリーヤ人の入植団などものの数ではない。被害者ぶるには、こちらが強すぎた。


 実際のところ、今夜の襲撃は軍の正式な任務ですらなかった。

 若い王奴候補への試験の一環だ。

〈それぞれ指示された目標を襲撃し、成果をあげて帰ってくること〉という漠然とした力試しだったのだ。自律判断と能力を見るための。


「理由など」スッカルは頬を歪めて笑う。「殺したかっただけさ」


「嘘」


 白いジンのもう片手が、かれの顔に触れた。

 スッカルはたじろぐ。

 白いジンが顔を寄せてきたのだ。おとなしい大型犬を思わせる人なつこくおだやかなまなざしが、かれを間近でのぞきこむ。


「こうして見るとわかります。あなたは、もともとそういう子じゃないわ」


「……なにを言ってる」


「だれかを守っているのね。あなたにとってほんとうに大事なだれかを」


 スッカルは慄然とした。


“なんで一瞬でそんなことがわかる、この女。ライムーンのことをなぜ”


 女の瞳が……深い森の色をしたふたつの円鏡が、かれの心を奥底まで映している。


“くそ、なめてかかっていた。戦闘能力はなくとも、白いジンもやはりジンだ”


 ジン族は魔法を秘めている。


「でも、いまのあなたは、心にけだものを育てすぎている。内側からあなた自身をもかきむしる、爪のするどい獣を。たぶんあなたにはそれが必要だったのでしょうけれど」


 女は柔和に、哀しげに言う。


「あなたのなかのけだものもあなただけれど、それがあまり起きないようにしてあげます。

 あなたがもともとのあなたに戻って、人をむやみに殺さないよう」


 そして、スッカルはひたいに口づけされた。

 春風がふわりと触れたかのような、甘くやわらかな感触だった。少年は固まって動けなくなる。


「……あら」


 くちびるを離した女は、驚いた表情になっている。


「あなた……なにか、古い魔法を帯びてないかしら」


霊薬アル・イクシールのことまで、こいつ――”


 さらに動揺したとき、別の理由で背筋があわ立った。

 びしびしと空気が張りつめていく気がする。

 これは――

 敵意だ。戦士たちの。

 白いジンが目の前で、長い耳を片方、ウサギのようにぴくんと立てた。


「あ……」


 口を半開きにして、彼女はとほうにくれたようにスッカルを見て、


「逃げて」


 かれを押しやった。

 後ずさり、スッカルは教会から首を出して、見た。

 村むこうの砂丘に、騎馬の一隊が姿をあらわしていた。砂を蹴立てて村へと走ってきている。


“シキリーヤ人の騎兵隊か。近くにいたのか。さっき逃した農民か別の村人が通報したな”


 戦闘準備をととのえている兵と戦うのは、奇襲で倒すとのはわけがちがう。ぐずぐずしていれば馬蹄でふみにじられるか、斬り刻まれる。

 つかの間、スッカルは人外の女に目を戻した。


“さすがによくばったか。捕虜に取って逃げることはできないな”


 かれは迷ったのだ。彼女を殺してから逃げるか、放っておいて逃げるかを。

 ――なぜか殺す気には、まるでなれなかった。


「……白いジン、あんたは人じゃないが、シキリーヤの十字教徒の縁者じゃないのか?」


「ええ」


「おれはあんたらの敵だぞ。ミスルの王奴の卵だ。あんたの護衛を殺した。それなのになぜ、おれに逃げてなどと?」


 まず、それが気にかかった。

 女は首をかしげる。今度はなにかの確信をこめた顔つき。どこかいたずらっぽいしぐさにも見えた。


「あなたはめずらしい色の運命を持っているから」


 スッカルは当惑を面に出した。白いジンは歌うようにささやく。


「人の運命はそれぞれ色を帯びている。わたくしはすこしだけそれが見えるのです。それに、あなたは本心では残酷なことを嫌っている……わたくしたちの敵にこそ、そういう人を増やしておきたいの。いつか話し合える日のために」


「意味がわからないぞ」


「わからなくてもいいのです。きっと、あなたとはまた会いますわ。さよなら、ミスルの奴隷さん」


 ほんとうになんだこいつ、と思いながらも、ふとスッカルは寄せた眉をゆるめていた。一刻も無駄にできない生死の際にいるというのに、心が奇妙に軽くなっている。


「二度と会わないことを祈れ」


 気がつくとかれはいっていた。剣の血を服のすそでぬぐいながら。


「つぎ会えば、おれは今度こそあんたを捕らえるか殺すだろう。それがいやならシキリーヤに帰れ。戦争にまきこまれない地にな」


 白いジンは表情をいちだんと柔和にした。彼女はほとんど嬉しそうに見えた。


「あなたこそ心配してくれるのですか?」


 一拍置いて、スッカルの頬はかっと燃えた。


「警告したからな、白いジン」


 いい捨てて、かれはうまやのあるほうへ向かう。



 これがかれと、のちに妻となるフィオレンツァとの最初の出会い。


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