第28話 潜入任務
十一年前――ミスル西北方、
十三歳のスッカルは、小屋の戸口から外の様子をうかがう。
太陽は西の砂漠にしずみかけていて、村はうす暗い。
スッカルは息をつめて、綿畑の横ではじまった口論に全神経を集中している。なにしろ、口論の中身はかれに関することだ。
「……ミスルのほうからきたよそ者を村に入れただと。なんということをした!」
畑の前の道でどなっているのは、武装した兵士たちだ。
騎士とその従者、および旗持ち。数は三人。うろたえる若い農民――スッカルを村に入れた男――をとりかこんで詰問している。
「われわれリービヤ入植団は、ミスル国が敵なのだぞ! せめて、なぜ私が戻るまで判断を保留しなかった」
みな異国人だ。
なじる兵士たちもなじられる農民も、白い肌の
異教徒の侵略者。
ミスルの敵。
「しかしですね、子供なんです。十五歳にもならないような男の子ですよ」
口をとがらせて、ようやく若い農民がいいかえした。
「それもかわいそうなことに奴隷でさ。もともとはこのリービヤあたりの民だったそうで、残酷なミスルの唯一神教徒どもにとらえられて奴隷にされたっていう話でした。逃げ出して故郷の近くに来たところで倒れてたんですよ。
むち打たれた傷が体中にあって、息もたえだえでした」
一方的に怒鳴りつけられたうっぷんを晴らすように、農民は一気にまくしたてはじめる。
慈悲を示してなにが悪いんですか。教皇さまだっていったそうじゃないですか。異教の大地にとらわれた奴隷たちにはやさしくしろって。唯一神教徒どもにしいたげられてる奴隷たちをどんどん解放してやれって。そうすればきっと奴隷たちは自由のため蜂起する。俺たちの聖なる教えにも帰依するだろう。そうなれば、兵力は逆転して戦争にもおのずと勝てるって。
「でしょう? ちがうんですか、旦那がた? 傷だらけで死にそうになってた子供を保護するなっていうんですか。かわいそうな奴隷にやさしくしてやることになんの間違いが……」
「ばかが!」
言いつのる若い農民のせりふを断ち切るように、壮年の騎士が吐き捨てた。
騎士の従者が背後でうめく。
「だ……だから言ったんです。リービヤ総督どのには戦略の完全な見直しを申し上げるべきだと。現実からかけはなれたことを民衆に信じさせておくのはばかげてるって! 奴隷! よりにもよってミスルの奴隷、それも少年を村に入れた!? まちがいなく“王奴”の候補じゃないですか!」
とつぜんの従者の激昂に、農民はとまどう。
騎士が嘆息して言った。
「……ミスルとわれわれでは国力が違う。
それに、奴隷を反乱させようという甘いもくろみなど成功するはずがないのだ。
あてがまったく外れたことを、われわれのお偉がたは気まずくて言いだせないようだ。だがこれからは民衆にいたるまで、戦う相手のことを知らないではすまされん。
百姓、おまえに教えておく。
われわれを苦しめている敵こそが奴隷なのだ」
スッカルは、小屋の隅で見つけた農作業用の
「われらが敵、ナイル川のほとりのミスル国……あの国の奴隷が反乱など起こすわけがない。
なぜならやつらが、奴隷たちこそがミスルの支配者だからだ」
鉈は剣ではない。だがスッカルは気にしない。
これでじゅうぶん、人を殺せる。
「ミスルは王も大貴族も、“王奴”と呼ばれる軍人奴隷からえらばれる社会なのだ。王奴たちは誇りたかく、たがいに争って国のために尽くす。能力を証明した者が出世していき、やがて平民や血統貴族を支配する。
つまりミスルでは、頂点にのぼるには一度奴隷にならねばならんのだ。生まれを考慮されず、ただ能力すぐれてさえいれば上に立てるという思想……なんとおぞましい連中だろうか。
もしもわれわれの子がやつらに捕まれば、王奴にされるだろう。高貴な血筋であろうと、下賤な血筋の子供と競わされることになる。『もっともきびしい競争をくぐりぬけ、血だまりのなかからはいあがってきた王奴にこそ国をゆだねるのがふさわしい』と連中は考えている。それが元敵国出身の子供であろうとだ。
その節操のなさがミスルの強さの秘密だ。卑しい武力だ……だが残念なことに、強い。ミスルはわれわれ十字教徒と対立する唯一神教の国々のなかで、最強の国だ」
――優秀でないものは蹴落とされ、優秀なものは社会の上層にのぼりつめ
――
――競争に勝った有能な奴隷が支配層となり
――かれら自身がつぎの世代の王奴をあつめてささえる、強固きわまる奴隷制。
「ともかく、そういう次第だからミスルの奴隷は危険なのだ。かれらは幼いころから武功を求める。同僚に差をつけて上にのしあがるためにな。
行きだおれていたという少年奴隷はどこだ?」
騎士のせりふをそこまで聞きとどけてから、スッカルは、あーあとため息をもらす。
(連中、遠からずおれたち「王奴」の実態を民衆にも広めるだろうな)
もう敵の無知につけこんで潜入することはできなくなったと、ミスルに帰ったら報告しなければ。
そう考えながらスッカルは体の調子をたしかめる。
戦闘能力になんの問題もなし。
農民がついに小屋をさし、騎士たちが近づいてくる。
スッカルは戸口からあとじさる。
扉がわりに戸口に垂らされた麻布ののれんをはねのけ、人々が小屋にふみこむ。
しかし、農民と騎士たちは、物置き小屋のなかにスッカルを見出さない。
血に濡れたござの上には、横たわっていたはずの少年がいない。
農民が驚きを顔に浮かべている。あごが外れそうなほど。
「なんで。たしかにここに寝かせたのに。どこに行った」
「ミスル兵め。逃げ出したな!」
騎士が歯ぎしりした。
「村のなかを探せ! ぜったいに見つけ出せ」
農民がまだ首をふっている。「動けるはずが……たしかに重い傷だった。助からないかもと思ったくらいだった。出ていけるはずがない」
「見せかけの重傷だったんだろう、この愚かな百姓が!」
怒鳴り声を聞きながらスッカルは(いいや、そこはうそじゃない)と思った。
農民の目をあざむいたわけではない。
昼間、村に入ったときはたしかに重傷だった。自分で自分を鞭打ったのだ。皮膚が裂けて血まみれになるまで。
いまもスッカルの服は血に染まっている。
しかし体に傷はない。
全快している。
そしていま、かれは小屋の天井近く……板材の
“それにしてもライムーンのやつときたら。潜入に必要だからおれを思い切り傷つけろと言ったのに、けっきょくできなかった”
“あいつ、あんな甘さじゃたよりにならない……敵にもほかの王奴にもあっさり殺されちまいそうだ”
戦闘の直前で、スッカルはべつのことを考える。村の外に隠れて待機しているはずの乳きょうだい、ライムーンへの不満をいだく。
それから、ライムーンのことを心配する。
“もう何年かはおれが守らなきゃ、あいつは生きのびられるかわからない”
“おれが死んだらあいつも殺される。ほかの王奴候補たちに。百人以上に強姦されて、のどを掻き切られてナイルの流れに投げ込まれるだろう”
そのなかで、ふたりだけ聖都出身のかれとライムーンは、孤立している。
おまけに、ジューグンダールの率いる最大派閥を敵に回していた。
“だからおれは死ぬわけにはいかない、せめてあいつがひとりで身を守れるようになるまでは”
“おれは死ねない、殺されるわけにはいかない。殺して生きる”
“殺す。敵はみな殺す。上官たちが殺せという者すべて。おれとライムーンを傷つけようとするものすべて。だれより手柄をあげて出世して、だれもおれたちに手出しできなくなるその日まで”
殺意の火――はじける、渦巻く、燃え上がる――
手にした鉈をかまえ、かれは騎士の頭上に飛び下りた。
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