間章 砂糖とレモンの物語2

第27話 軍事学校


 十二年前――ミスルの王都アル・カーヒラ

 王奴軍事学校ティバークの中庭、夕の食事前



 少年たちの苦鳴と呻吟。

 暴力ちからが産み出す、血みどろの歌。


 この日の勝者は、スッカル一奴いちど

 地に伏す四奴が、敗者であった。


 異様な光景だった。

 ミスルが誇る戦士たち“王奴”――その候補生である軍事学校の生徒たち。それが四人、敗北した。骨を折られ、皮膚を破られ、片目をえぐられている。

 入学してわずか一年半の、年下の生徒ただひとりに。

 その素手の生徒――スッカルの爪から、糸を引いて血がしたたっている。鷲の爪のように曲げられた指を伝って。湯気を立てそうに熱い、赤い雨だれ。


 赤い指をぼきりと鳴らし、スッカルは這う敗者に声を発する。


「このうんざりする軍事学校で、たったふたつだけ気に入ってる」


 声変わりをすませたばかりの、しゃがれ気味の声。


「出される飯がましなことと、勝った者が偉いことだ。

 おれが勝った、異論はないな」


 周囲をとりまく候補生たちが息を詰めて闘争の場を見ている。スッカルの後方、地面にへたりこんで震えているのは、ジン族の少女だ。

 ライムーン。

 先刻、彼女はジューグンダール達に服を半ばはぎとられ、衆目の前で押さえつけられて犯される寸前だった。彼女の叫び声がスッカルを呼び、スッカルが駆けつけるとジューグンダールは嗤った。


『処女は俺がもらおう。その次はジャフルで、その次はバード、ベニが最後だ。いや……そこの新入りのおまえ、このジン娘の乳兄弟なんだってな? よし、おまえは俺たちのあとで最後にこいつを犯せ、そうすることで俺たちに忠誠の証をたてろ』


 それに対してスッカルが腰の短刀を抜き、『武器ありとなしとどっちがいい』と聞いたとき、ジューグンダールは吹き出した。


『逆らう塵芥ごみを嬲り殺すのは楽しい。

 だが武器を使って殺すと、さすがに父上から怒られる。ただの喧嘩での事故ってことにしないといけない。

 だから新入り、おまえに少し勝ち目を残してやる。武器なしで殺すことにした』


 自分も腰の長剣を放り出して、ジューグンダールは薄笑いを浮かべる。

 その嘲笑には根拠がある。ジューグンダールは十五歳、軍事学校に入ってもう何年にもなる。対するスッカルは十二歳、入寮して一年半程度。まだ訓練で長い得物を振らせてもらったことすらない。体格でも王奴候補としての年数でも劣るかれがジューグンダールと取っ組み合うというのは客観的に見て、猫と若獅子の戦いだ。

 しかも四対一。スッカルの勝ち目などない。


 そのはずだった。

 だが結果は……


「ジューグンダール、お偉い方のご令息のジューグンダール様よ」


 スッカルは物憂げに言う。人食いわにのような目つきで。


「二度とおれの乳きょうだいに手を出すな。でなきゃもうひとつの目もむしりとって、ナイル河の鰐に食わせるぞ」


 この時のスッカルは、のちのかれがそうであるような巨躯ではない。十二歳の男児にしてはやや高めの背丈でしかない。

 にもかかわらず、夕闇のなかかれの影が敗北者たちの上にのしかかり、圧迫を与える。


 片目をおさえてうずくまっていたジューグンダールが、ゆっくりと顔を上げる。

 残った一つ目がぎょろりと動き、スッカルを見上げる。

 振り切れた殺意を乗せて。


「失敗した。武器なしにするんじゃなかったよ」


 明るく陽気におぞましく、


「もう一度やろう、武器ありで」


 いうが早いかジューグンダールが転がるように長剣にとびつく。

 その手ごとスッカルは長剣の柄を力いっぱい踏みしめる。ぼきぼきと足の下で指の骨が折れる。ジューグンダールの表情が歪み、えぐられた目からぴゅっと血が噴き出す。

 スッカルは長剣を蹴飛ばして遠ざける。同時に、ジューグンダールの取り巻きたちが起き上がって、うめきながらジューグンダールにしがみついて引き止める。

 身を守られ、スッカルから遠ざけられながらジューグンダールは、


「名前はなんだ? 貴様の名前は?」


 流れる血をぬぐいもせずにスッカルを見据え、


「名前はなんだ? 名前はなんだ? 教えろよ、おい」


 スッカルは返答しない。

 名乗るに値する相手ではなく、意味もない。

 どうせすぐに調べてくるだろう。


 ジューグンダールの一団が去ったあと、スッカルは周りを見回す。


 無言でかれを見つめている観客たち――王奴候補生の面々。

 荒みきった目でねめ回し、スッカルは吐き捨てる。


「おまえたちにも言っとく。おれと、おれの乳きょうだい――このライムーンに手を出すな。何かあれば殺してやる」







 ライムーンの手を引きずるようにして人目のない暗がりに押し込んだ。

 少女は破れた服からのぞく肌を隠そうとしてあわてている。それに構わず、その肩をつかんでぐっと壁に押し付け、スッカルは押し殺した声で聞く。


「なぜここにいる、ライムーン」


 彼女とは、シャームシリアの砂漠で別れたはずだった。


「答えろ。なぜミスルに、この軍事学校にいる」


 ライムーンは怯えた表情でかれを見上げる。その瞳がふいに潤んだ。


「なんでって……会いたかった、から」


 スッカルに。

 そうささやく彼女を見下ろし、スッカルは眉根を寄せる。


「おれに? まさかおれを追いかけてきたとでもいうのか?」


 ライムーンが沈黙して視線を落とす。まるで恥じらうかのように。

 スッカルはその沈黙を意に介さない。少女の肩をさらにきつくつかむ。


「なぜだ? なぜおれを? まだおれが自分の財産だと思っているからか?」


 棘のあるその問いに、とつぜんライムーンが顔を上げる。


「あの夜、ぼくがそう言ったから……怒ったの? 婢から離れたの?」


 ライムーンの目には涙が溜まっている。すがるように彼女はスッカルに身を寄せる。


「だったらもう言わない、だから怒らないで……そばにいさせて」


 しゃくりあげられて、スッカルは困惑する。「? それは女奴隷の一人称のひとつだぞ――」言いさして気づく。

 ミスルに入国している時点で、ライムーンも奴隷だ。


「……そうか。おまえも奴隷になったのか」


 ふいにスッカルののどにささくれた笑いがこみあげてきた。


“喜べ、スッカル。あれほど願った「対等」だ。おれが上がるんじゃなくこいつが落ちてきた”


 皮肉な笑いをひっこめて、かれは聞く。


「……そこまでしてなぜ追ってきた、というのはこの際置いておく。

 どうやって軍事学校に入った?

 おまえならば、王奴候補生よりましな待遇を受けたはずだ」


 ここは軍事学校、ここは残忍な戦士の養成所、ここは王奴候補生が互いに殺し合う生存競争の場であって、ライムーンのような見目麗しいジン族の娘が入るようなところではない。

 本人が望んだとしても、ミスルの上位層が肯んじるわけがない。


 ライムーンはぎこちなく首をすくめて答えた。

 自分から奴隷商に話を通して、ミスル王の後宮ハリームに買ってもらったのだという。


“ああ、やっぱりな”


 美しく貴重なジン族の娘が、軍事奴隷に回されるわけがないのだ。どう考えても王や大アミールの後宮が相場だろう。

 だがライムーンの話の続きはスッカルの想像を上回る。

 一年待ち、寝所に初めて王が訪ったとき、ライムーンは真っ先にじゅうたんに伏して一字剣アル・アリフを差し出したのだという。

 先祖代々のジンの宝剣を渡すと。だから乳きょうだいと一緒にいられるようにしてくださいと。


「婢の身の上話を聞いた王様は、いきなり泣き出して、婢の希望どおりにはからってくれたの。婢に触れもせず。

 スッカルの王奴候補生をやめさせるわけにはいかないけれど、婢の所属を後宮から軍事学校に移してやる、と」


「……あの狂王が」


 スッカルにはにわかに信じがたい。

 直接面識はないが、「狂王」というのが当代のミスル王の評判だ。雄鶏の声がうるさいとして王都中の雄鶏を殺させたり、人妻を召し上げて一夜凌辱したあと首だけにして夫に返したりする。卑猥な冗談を口にし、笑わなかった大臣を免職し、次の日にはみだりに笑ったとして別の大臣を免職する。人を解体する楽しみのために、死刑囚の檻をつねに庭に置いていることは有名だった。

 だが、とびきり気まぐれで、気分次第で善行をほどこすとも聞いたことがあった。


 ならば信じるしかないのだろう。ライムーンは狂王の慈悲を引き出した。極めて運が良かったのだ。


「……軍事学校に入ったのが、運が良いことかは疑問だがな」


「……そうなの?」


「ここは獣どもの蹴落とし合いの場だ。弱い者は強者の意のままにされる。おまえさっき犯されかけたんだぞ。男も女も関係なく、そういう目にあった候補生がおまえひとりだと思わないことだ。場合によれば、失うのは貞操だけじゃなく命もだ」


 吐き捨てるスッカルに、ライムーンはおずおずと、


「スッカルのお父様は? お父様を頼ってミスルに来たのではないの?」


 今度こそスッカルは笑った。ライムーンがまた怯えた顔になる。


「くそ親父の話はやめてくれ、ライムーン。過去の自分を殺したくなる。

 あの男はおれのことを路上に落ちた水牛の糞のように扱ったよ。そういえば母さんに流し込んだ子種があったなという以上の感想を持たなかったようだ。おれはあの男によってこの牢獄に、軍事学校に放り込まれた」


 スッカルの父親は、館を訪れたかれに言った。ミスルは実力次第の国だ、成り上がるのはおまえの才覚次第であって自分がなにか手を貸すつもりはないと。これ以上話をしたければ王奴になってこいと。


“古いご主人様――ジン族のほうがまだしも血が通っていたと思わされるなんて”


 父からの扱いと、軍事学校の環境の過酷さに、かれは荒んだ。

 なんとも皮肉なことに、その境遇は才能を開花させた。軍事学校に入って以来、スッカルは証明し続けている。

 対人戦闘――暴力の才を。

 ジンの王国にいて、ジンに稽古をつけられている間は、その才は目立たなかった。ジン族は人族よりはるかに戦闘向きの種族だから。


 ふいにため息をついて、スッカルははじめてライムーンに対する口調を和らげた。


「ライムーン……入学早々災難だったな。ジューグンダールのやつに絡まれるなんて」


「あの……あの人たちは……婢が何もしていないのに、『おや、めすがいる』と笑うなり、いきなり転ばせて押さえつけてきて、服を……」


「あれは大アミールの息子だ。学校内で何人も犯してるし何人も殺してる、札付きの屑だ。

 噂によれば執念深い。今後、おれのそばを離れるな」


「うん……」


 軍事学校は王奴候補たちがたがいに蹴落とし合う地獄ジャハンナムだ。

 そしてこの地獄では、後ろ盾がない王奴候補の生きる道はふたつだけだ。

 地獄の王の尻を舐めるか、地獄の王になるかだけ。


 スッカルはライムーンを助けたときに、地獄の王の尻を蹴飛ばしてしまった。

 だからかれには戦いのほか選べる道はない。

 勝ち、勝ち続け、勝ち取るしかない。地獄の王冠を。


「ライムーン、おれがおまえを守ってやる」


 地獄の王になってやる。


「その代わり、おまえもおれを守るんだ。その程度には強くなれ」


 言い聞かせるとライムーンはびくりと身を震わせる。


「婢.......戦い方を知らない」


「おれは眠い。ここの奴らはみんな敵だ、寝ているときも気が抜けない」


 信頼できる誰かが必要だった。交代の見張りを任せ、そばで深い眠りに落ちても大丈夫な相手が。


「ライムーン、戦い方をおぼえろ。教官から教わるだけじゃなく、必要ならおれが教えてやる。殺されるくらいなら殺せ。おまえの尊厳を冒す者も殺せ。おれとおまえに危害を加える者を殺せ。甘っちょろい考えのすべてを捨てろ。お姫様であった過去など忘れろ」


 少しかがんでひたいとひたいを当てる。


「だれも信じるな。おれ以外」

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