第26話 交渉
聖都の大通りを、砂塵を蹴立てて王宮に向かってくる一団がある。
東方総督ウクタミシュ・ベイ。
王宮と市街をへだてる堀の内側、跳ね橋の塔の狭間胸壁に立ち、スッカルはそれを待っている。
となりで大アミールの姿を見つめながら、アリーチェに入ったフィオレンツァがいう。彼女は歩いてかれに同行してきていた。
「あの方がミスル軍でもっとも重要なひと?」
彼女がすぐそばに立っていることに居心地の悪さを覚えながら、スッカルは首肯する。
「ああ」
ある意味では王よりもそうだ。
ウクタミシュ・ベイの戦功はミスル軍筆頭といってよい。いずれミスル王になることが確実といわれている男だ。
フィオレンツァに対し、少し離れたところにいるライムーンが尖った声で釘をさす。
「ウクタミシュ閣下を射てやろうなどと血迷うなよ。射てば防がれ、ほぼ同時に射ち返されて、射ったやつが正確に射抜かれる。あそこにいるのはそういう部隊だ」
「まあ、そんな野蛮なこと命じませんよ、ライムーン。そんなことして成功しても失敗してもみんな死んでしまうではありませんか。わたくしの流儀ではありません」
女たちの応酬を聞き流しながら、スッカルはウクタミシュを見下ろす。
“さて、どうなるかな。あの野郎が話を呑むかどうかでおれたちの命運が決まる”
形ばかりは同格の遠征軍司令官――だがウクタミシュとジューグンダールでは、全軍に響く言葉の重みが違う。
ジューグンダールはしょせん経験の浅い若造にすぎない。
東方総督ウクタミシュ・ベイは歴戦の大アミールであり、ミスル全軍中で最強の軍団を率いている。
“ちっ、飛んでくる矢を空中でつかめそうな連中がそろってやがる。ひとりひとりがさっき戦ったザーヒリー級だ”
ライムーンのいうとおり、暗殺などできそうにもない。
ウクタミシュの前に馬体をすべりこませ、大アミールを守る騎兵たち。
かれ直属の王奴、
ウクタミシュが日夜鍛えている精強な第九軍団、“獅子”隊はその中核。
選別淘汰の末に勝ちのこったひとにぎりの王奴。
最精鋭のなかの最精鋭。
「時をわきまえずはねまわる道化の顔を見に来たが――」
ウクタミシュ・ベイがとつぜん声を発する。
これ以上なく冷ややかに。
「少しは恥じ入っている様子を期待したのだがな、スッカル。おまえはいつも私を失望させる」
「やあ、閣下。あいにく面の皮あつく生まれついてるんですよ」
“てめえと同じようにな”
スッカルは声をはりあげて主張する。
「あなたが望まれたとおりに、こいつらと交渉してきたんですよ。まず評価してくれませんかね」
「私が望んだ?」
叩き返すように語気鋭く、ウクタミシュはスッカルに答えた。
「私をどれだけ呆れさせたと思っているのか、王奴スッカル? 開いた口がふさがらぬわ。
おまえを送り出したのは、シキリーヤ人を降伏させて城の鍵を受け取ってくることを期待してのことだ。しかるにさっきおまえがよこした書簡に書いてあったのは、シキリーヤ人と組んでのわれわれへの脅迫だった。グール腫に感染するぞだの、霊薬が欲しければ手は出すなだの……なんだ、これは?
しかもこの成り行きを私が望んだなどと、よくもいえたな?」
「かれらは降伏と共闘を受け入れましたよ、条件付きとはいえ。無用な戦闘の必要はなくなり、シキリーヤの鋼に身を固めた騎士たちをエヴレム・カンに向かわせることができるんですよ。この成果にご不満ですかね?」
「おまえの話を多くの王奴が聞くのだぞ。なにをいうにしろ、その鼻持ちならないへらず口は省け。いっておくが、おまえのもたらした成果とやらに私個人がなんらかの価値を認めたとしても、態度が度を越したものであれば処分せざるをえなくなるかもしれん。軍司令官としてはな」
道理ではある。それに、ややわかりづらくはあるがいまの台詞によって、話を聞く姿勢をウクタミシュは示していた。
スッカルは頭を垂れて話し始める。
「いいたいことはだいたい書簡に書きました。
おれたちはある王奴に命を狙われました。虫けらのような命でも、この命しかないもんで、なんとか守りたいんですよ。幸い、シキリーヤ人たちが守ってくれるそうなんで」
「私闘に及ぼうとした者がいるなら上層部に訴え出るのが筋であろう。先に手出しをしたのなら、その者は処罰の対象となる」
“この野郎すっとぼけているのか、それともまだ情報をつかんでいないのか? おれたちと第四軍団が殺し合ったことを”
まあ、第四軍団が好きこのんで触れ回るわけもない。戦の最中に、自分たちから内部私闘をしかけたことを。
というわけでスッカルは遠慮なく、第四軍団の失点を告げ口した。
「公の場で生きて申し立てる機会など与えられませんよ、まちがいなくその王奴ににぎりつぶされたでしょうね。仮に訴え出るとしたらこのことは遠征軍の軍事法廷ではなく、王奴庁でもなく、われらがミスル王陛下その人に申し上げるつもりでいます。ですが生きて戻るまでに殺されちゃたまらない」
その王奴とはジューグンダールだ、とスッカルは言外に告げる。
この軍の司令官と、王奴庁の頭にいる十二人の大アミール。どちらにおいても重要な席のひとつを占めている仇敵。
ウクタミシュ・ベイは表情をぴくりとも動かさなかった。
「虫の主張はよくわかった。だがおまえの小賢しい企みには、致命的な欠陥がある」
かれは峻厳な面持ちでいった。
「そもそもミスル軍法においては、敵国人との内通は問答無用で処断だ。王の御前での裁きでは、その責をおまえは負わされることになる。たとえそこに至る経緯に情状酌量の余地を認められたとしても厳罰をまぬがれはすまい。
それともおまえ、この状況でまだ、これは異教徒との内通ではないといいはる気か? ミスル陣中にグール腫の患者を撃ち込むと脅しておいて?」
“痛いところをついてくるね。強引の極みなのは百も承知さ”
「スッカル、聞け。おまえはすでに死人も同然だ。だが私が守ってやろう」
ウクタミシュは約束した。
「私を信じて戻ってくるがよい。〈霊薬〉の秘密をすべて明かし、今度こそなにもかも隠し立てをせず私に仕えるのだ。スッカル、私はおまえをまったく認めなかったわけではない。いま降るならば過去のすべてを許してやる」
“へーえ?”
スッカルは鼻で笑うのをこらえていった。
「それが補足しておきますと、内通とはちょっと違うんですよ。かれらシキリーヤの兵たちは、
ウクタミシュ・ベイを出し抜くのは、スッカルにとってほんとうに胸がすくような瞬間だった。
沈黙する大アミールにむけて、スッカルは正確に告げる。
「かれらはおれ個人に降り、従属民になってます。これなら内通じゃないでしょう」
従属民とは、王奴と契約をむすんだ平民だ。
王奴に税を払い、あるいは徴兵されて王奴の指揮下で戦う。
ミスル特有の、奴隷に服属する平民の存在。
とつぜんフィオレンツァがスッカルの左腕をとり、身をぎゅっと寄せてくる。ドレスごしにふわふわした少女の体の感触。ライムーンのほうから冷気が流れてきた気がして、スッカルは遠い砂漠のかなたを見つめる。
スッカルの腕を抱きしめながら、微笑むフィオレンツァが澄んだ声で宣言する。
「わたくしたちはこのひとの保護下に入り、このひとに奉公します。このひとがわたくしたちの権利を守る限り、わたくしたちはこのひとに具して出陣します」
砂漠の言語を使って。
ウクタミシュ・ベイが閉ざしていた口を開ける。
「それなら私は、ミスル軍司令官としてシキリーヤ人どもに命令することもできるわけだ」
スッカルは目をふたたびかれに向ける。
「そりゃ無理ですな、閣下。従属民を兵として徴発する権利は、かれらを保有する王奴が王奴庁に委任することではじめてミスル軍のものになります。おれはまだこいつらを委任してませんし、しばらくは権利持っとこうかなって」
フィオレンツァはミスル軍制のことを知悉していた。
ミスル軍にとって従属民はとても重要な存在だ。ミスル遠征軍二万の兵のうち、実は王奴の数はその一割にすぎない。残りは徴発された従属民なのだ。
専門の教育を受けた王奴の下に、十倍の平民の雑兵が集う形。
十奴長は百の兵を動員し、千奴長は万の軍を指揮するといわれるゆえん。
もっともじっさいの戦場では、ひとりの王奴が十人の平民兵をひきつれて動くわけではない。その従属民たちは、王奴個々の委任によって直属の大アミールが掌握し、ひとかたまりの軍として動かされる。
だがいまのような事態を、ミスルの法は想定していない。
“敵の一城まるごと投降前から従属民になるだなんて、これまでミスルの歴史で起こったことがないからな”
「つまり、かれらを手兵として戦わせる権利はおれ個人に帰してるってわけです」
シキリーヤ軍は私兵化した。
第四軍団と第九軍団につづく、ミスル軍中の第三の勢力。
スッカルは自分の軍を持ったことになる。
ウクタミシュ・ベイの瞳に、つかの間怒りがのぞく。
強烈に渦巻く雷火。
「気に入らないな」底冷えのする声でかれはいった。「おまえにこれを入れ知恵したのはだれだ? ライムーンか? そこの娘か?」
怒りの矛先が彼女らに向く前に、スッカルは一礼する。
「気に入らないなら強襲してください。そして王奴の数をどんどん減らしてください。または炎か投石機で、霊薬ごとわれわれを抹消してください。
ですがもしも兵力を減らすのではなく増やしたいのなら、閣下、おれたちの命を完全に安堵してください。そしてあるていどの独立行動をお許し下さい。
そうすればシキリーヤ人たちは城を明け渡し、ミスル軍の作戦に全面的に協力します。おれたちは霊薬をミスル軍にも供給しますよ。唯一の神にかけて誓います。
おれたちが欲しいものはつまるところ、自分たちの身の安全だけなんです」
ウクタミシュは、人を氷像に変えるような一瞥をスッカルに送った。
息詰まるような数瞬ののち、
「よかろう、呑んでやる。おまえらは安全だ。さっさと城を出ろ」
あまりにきっぱりといわれたので、かえってスッカルのほうが驚く。
「唯一の神に誓ってもらいますよ」
「この場では多くの者が聞いている。唯一の神の両の目、日輪と月輪にかけて誓おう。言をたがうことあらばむごたらしい死が我が身にふりかかり、とことわに地獄の火で焼かれんことを。これでよいか」
「……いいんですか、閣下? おれがいうのもなんですが」
「よいわけがあるものか。おまえがやったのは軍の規律を乱し、威信をそこなう行為だ。私みずから八つ裂きにしてやりたいところだ。だがおまえのような、厚顔無恥に粘る者と駆け引きしている時間がいまは惜しい」
ウクタミシュ・ベイは早口にいって息を吸い、
「急報が入った。北からエヴレム・カン麾下のキプチャク兵がなだれこみ、都市ラッカが落ちた」
主の内心の苛立ちを反映してか、かれの馬が地をかっかっと蹴る。
塔の上の一同も息を呑む。
ラッカは
「ひと揉みであったらしい。それからすぐに隣のジャバルが落ちた。さらに内部のハラブの町がいま包囲を受けている。
もう始まったのだ。
エヴレム・カンはどんどんシャームに食い入っている。われわれには思った以上に余裕がない。いますぐこの地を拠点として戦闘に備えねばならぬ。内部でのくだらない争いに時間をついやしている余裕などない。
おまえたちは竜王に救われたと思え、そして――」
ウクタミシュ・ベイは重く有無をいわせない声でスッカルに告げる。
「おまえのふざけたいいぶんを認めてやる代わり、例の王奴との揉めごとは棚上げにせよ」
ジューグンダールを見逃せという意味のことを、かれははっきりいった。
“そりゃないぜ”
スッカルは抗議する。
「おれから攻撃したわけではありませんよ。しかもそれで部下に死人が出たんです、簡単に忘れろとは……」
「聞こえなかったのか? おまえの罪を忘れてやる理由と、その王奴を見逃さねばならん理由は同じだ。エヴレム・カンとの戦闘はもう始まるのだ!」
あの男はこの遠征軍の半数を指揮しているのだぞ。しかもおまえが手に入れたシキリーヤ軍よりもよほど兵力が多い――ウクタミシュの表情はそういわんばかりだ。
スッカルはあきらめる。
“ちっ、ここらが手打ちどきか”
交渉で得るべき最低限のものをかれは得た。
この日、聖都はミスル軍が掌握した。
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