第25話 フィオレンツァ


 スッカルはどういう顔をしていいかわからない。


 フィオレンツァはかれの妻だ。

 残酷な王奴であった少年のかれと出会い、慈悲と愛を教えた。みずからの選択によってかれと結婚した。

 そして、かれを裏切った。


 陰謀をめぐらせて、ミスルを内側から食い破ろうとした女だ。

 だが、スッカルは彼女を憎んではいない。フィオレンツァの陰謀を成功寸前でくじいたのはかれだが、彼女を船に乗せてミスルから逃がしたのもかれだ。


 もう会うことはないと思っていた――この日、この時までは。

 別人の体に精神だけ入った状態を、会ったというのかは微妙だが……


 しかしそれやこれやも含め、とつぜんの再会について、感傷にひたる余裕はスッカルにはない。


「放せスッカル、何もしないから放せ!」


 羞恥に頬を燃やしたライムーンが、かれの腕のなかでもがいている。


「すんません皆様、お騒がせを……」


 スッカルはあぜんとしているシキリーヤ人たちに謝る。

 かれはライムーンを抱え上げて椅子に座っている。花嫁を抱き上げて新居の戸をくぐるときのような横抱き。

 ただし、甘い雰囲気を感じるどころではない。少なくともスッカルのほうは。

 先刻、彼女がアリーチェの体を刺す前に、豹隊は総掛かりで槍を取り上げねばならなかったのだ。


 というわけで疲弊したかれは、ライムーンが身動きできないよう、がっしりと捕まえている。


「使うか?」


 シャオフーが縄を持ってきたのを首をふって断る。

 かれはライムーンにいいきかせる。


「頭を冷やせ。シキリーヤ人との取り引きをぶっこわす気か、おれたちの命がかかってるんだぞ」


「婢はもう冷静だ、たしかにさっきはちょっと頭に血が上ったけれど……だ、だから腕をゆるめてというのに!」


「ほんとうに何もするんじゃねえぞ。フィオの体ははるかかなたのシキリーヤだ。おれたちの目の前にいるのはアリーチェという小娘だ。どうやってか知らんが、フィオはアリーチェに入って言葉を伝えてきてるだけだぞ」


「ああわかってる。婢らの目の前に現れたら必ず殺すと約束したから、その回避策というわけだ。変わらないその小賢しさもふくめて腹が立つっ」


 ライムーンがうなった直後、くすくすと穏やかな笑い声が広間に響く。


「あいかわらずわたくしが嫌いのようですね、ライムーン。でもあなたのような幼いジンを警戒してこの体を使っているのではありませんよ」


 三〇〇歳と二十四歳。

 フィオレンツァとライムーンの年齢だ。

 子供扱いもむべなるかな。


「じゃあなんだ、そのふざけた魔術は」


 目を据わらせてライムーンが問いただす。

 フィオレンツァが困ったように微笑む。アリーチェの顔で。


「わたくしの体はシキリーヤ島を出ようにも出られないのです。わたくしは幽閉されているのですよ。シキリーヤのかわいい民のなかにも、わたくしが自由に出歩くことを怖れる者は多いのです」


 スッカルはシキリーヤ王に視線を投げる。

 シキリーヤ王は小声で認めた。


「ああ、そのとおりだ。大賢者さまを島から……否、大図書館から出すべきではないと主張する声が多い」


 この方はわが国にとっても本来、危険人物なのだ。

 王の声なき声をスッカルは聞く。


“まあ、ジンも白いジンも、もともと人にとっては危険な存在だ。愛してくれてもなお、そうだ”


 ライムーンが「それはよい」と喜ぶ。


「ぜひとも終末の日まで出さないでいただきたい。その女フィオレンツァはミスルにとって歩く大迷惑、体制転覆を狙う政治犯、愛を説きながら男をくわえこんでみだりがわしい思想を植え付ける邪悪の具現だ」


「あらあら。たいしたいわれよう」


 フィオレンツァが落ち着き払った声で受けて立った。


「前のふたつは異論はないのですが、最後はまちがっていますわね。わたくしが体を許した殿方はスッカル様だけですし、奴隷廃止はみだらな思想などではありませんし、スッカル様にそれを植え付けることは失敗しましたよ。

 それと、殿方それもひとの夫に抱っこされながら話している子に、大淫婦のようないわれ方をされるのは釈然としませんね」


 ライムーンの顔がまた真っ赤になる。

 万が一の殺害事件を起こさないようにしっかりライムーンの上体と両ひざを抱えながら、スッカルはちょっと後悔する。やはり縄を使っておけばよかった。


「おいフィオ。こっちは必死なんだ。ライムーンで遊ぶな」


「わたくしは嫉妬しないわけではないのですよ、スッカル様。あいかわらずきょうだい仲がよろしいですこと」


 どこまで本心かわからないすねた口ぶり。

 しかしすぐ、彼女は「ええ、たしかに遊ぶのはほどほどにしておきましょう」と表情をあらためた。


「あなたとこうして会話できるのはとてもとても嬉しいことなのですけれど。時間もありませんし、まずは目の前の危機を取り除くお話をしましょうか」


「それに異論はない。おまえらにはミスルに投降してもらう。そしておれたちの身を守ってもらう」


「そしてあなたはわたくしたちに霊薬をくださる。ええ、その条件で――」


「待った、まず確認したいことがある。おまえはいまのシキリーヤ王家とどういう関係だ」


 スッカルはたずねる。

 彼女と結婚し、同居していたのはわずか半年のことだ。そのあいだ、スッカルは彼女に身の上を詳しくたずねなかった。彼女がシキリーヤ王家の縁者であることは知っていたが、それ以上は踏み込まなかった。かれは細かいことを気にする性質ではなかったし、フィオレンツァが自分から話すまで待てばいいと思っていたのである。いまでも後悔していることのひとつだ。

 フィオレンツァはあっさり答える。


「いまの王家は、わたくしの姉が人と結婚して生した血筋なのですよ。この娘、アリーチェはわたくしの雲姪孫うんてっそんにあたります。

 血のつながりがある者には、わたくしの魔術を及ぼしやすいのです。ですからこうして体を借りることができますわ。本人は気づいていないですけれどね」


「おまえの公的な立場はどういうものだ」


「歴代の王の相談役、とでもいいましょうか。いくつかの助言を、求められたときに口にするだけです。それですらあまり口を出しすぎると嫌われてしまいますから、長いこと表だっては関わりませんでしたが……ミスル関係ではどうしてもむきになってしまって、結果が軟禁状態です」


「この場では、おまえの言葉にどのくらいの意味があるかを知りたい」


「スッカル様ったら……大切なお話をしましょうといったのに、さっきからわたくしのことばかりお聞きになるのですね」


 フィオレンツァが頬に手をあてて照れる。

 スッカルは眉も動かさない。


「はぐらかすなよ。大切なことだ。フィオ、おまえの立場は盤石ばんじゃくじゃない。さっきそれを自分でいってたろ」


 先ほど、シキリーヤ人たちは人質にされたアリーチェを奪回しにこなかった。その理由はことによるとフィオレンツァのせいかもしれない。

 彼女に指図されたくない者たちがいるのだ。


「ああ、なるほど」


 フィオレンツァが得心いったとばかりに手をたたく。


「わたくしと交わした言葉があとで無かったことにされる、それを心配しているのですか」


「そういうことだ、悪いが。

 フィオ。おれはおまえをまだ好きかもしれない。けれど、もうあまり信じちゃいないんだ」


「あなたは最初から最後までわたくしを信じていなかったくせに」フィオレンツァは哀しそうに眉を下げた。「でも、わたくしはあなたを信じていますし、いまでも愛していますよ、スッカル様」


“ちくしょうこの女、ほんとうらしくいいやがる。本心だとしたらもっとたちが悪い”


「……おまえがおれを積極的に害するつもりだとまでは思わない。けれど、おまえが不安定な立場にいるなら、おまえを交渉相手にする価値はあまりないんだ。

 うお」


 スッカルは小さな驚きの声を発した。

 ライムーンのためだ。

 ふてくされつつ口ははさまず彼女は沈黙していたが、とつぜん豹に変わったのである。

〈変化〉。

 たぶん豹でいたほうが、まだしも恥ずかしい格好ではないと気づいたのだろう。


 身をよじって腹ばいになった豹をひざに載せたまま、スッカルは気をとりなおしてフィオレンツァを見つめる。

 フィオレンツァは嫣然と微笑を浮かべ直す。


「そういうことならばスッカル様、今回、わたくしは陛下から外交全権を委ねられています。ですから、いまはあなたの妻のフィオではなく、シキリーヤ王代フィオレンツァに話をしていると思し召せ。誰にもわたくしの言葉に異をとなえさせはしませんし、わたくしの言葉がシキリーヤの国民によってあとから反故にされることもありません。

 陛下、そうでございましょう?」


 フィオレンツァに水を向けられ、シキリーヤ王はためらいを残しながらもうなずいた。


「ああ。いまさら言を違えはせぬ」


「あらためて神の御名にかけて誓ってくれますね? よろしければ、わが夫の懸念を払拭させてあげてくださいな」


「父と子と聖霊の御名にかけて誓う。貴女の言葉は余の言葉だ。われらを最善の道に導いてくださいますように」


 シキリーヤ王ヴァスコ三世はおごそかに述べ、立ち上がって広間を見渡した。


「誇り高きシキリーヤの諸侯らよ。大賢者さまについて汝らが手放しで信じる気にならないのはよくわかる。だがこの日までわれらにグール腫の進行を止める薬を授けたのも、聖都に来れば霊薬が見つかると予言したのもこの方だ。そしていま霊薬が見つかった。彼女をいま一度信じてみるには不十分であろうか?

 危急存亡の折、内輪もめしている場合ではない。聞くがよい。これから大賢者さまが発するいかなる言葉の責任も余が持つ。ゆえにこのふたりの交渉に異を唱えるなかれ」


 その言葉に、不承不承の雰囲気はあったが、おおむね諸侯たちも受け入れたようである。

 なかなか度量ひろいじゃねえかとスッカルは敬服する気分になる。

 フィオレンツァの知恵を信頼しているとはいえ、こうもぽんと庇護だけ与えて自由にさせるのは並大抵の決断ではない。


“でもフィオの発言の責任を取るとなったら、絶対後悔すると思うんだけどな”


「感謝します、陛下」


 王に礼を述べ、フィオレンツァは「それでは、さっそくながらわたくしの決定に従っていただきますわね」と柔らかい笑顔になった。

 彼女はぱんと手を合わせる。

 明るくはしゃぐいたずら好きな少女と、敬虔に祈る聖母を混ぜたかのような表情。


「みなさん、わたくしたちは最終的にミスルと共闘する必要があります。

 ミスルはわたくしたちの不倶戴天の敵です。国としての。十字教徒としての。

 ですがエヴレム・カンは、命あるものすべての敵です。かの怪物と王奴たちを比べれば、どちらと組むかに選択の余地はありません」


 そこまではまともな発言。

 それから話が流星のごとく、地平線の向こうまですっ飛ぶ。


「ですから、徹底的に同じ陣営に入りましょう。これからみんなそろってミスルに身を売りましょう」


 聞き間違えたか? とそちこちで人が顔を見合わせる。


“そら、始まった”


 スッカルはなにも考えないようにしてライムーンのあごの下をくすぐる。豹の姿のライムーンは、うっとうしそうにしながらもくすぐる手を受け入れている。


「……失礼。もう一度述べてもらえるか」


 諸侯のひとりが手を挙げた。

 フィオレンツァはにこにこしたまま、わかりやすくいいかえる。


「スッカル様をご主人様と仰ぎましょう」


 言葉は絶句の母となる。

 一拍。

 二拍。

 諸侯たちは呆然から顔を見合わせ、ざわめきだす。

 すぐに大広間には怒号が満ちた。


「ミスルの奴隷になれというのか!?」


 と。


「おいスッカル、なにがあったんだ」アイバクが困惑しきった様子でたずねてくる。「シキリーヤ語はわからないが、連中が『ふざけるな』みたいなことをいってるのは顔見りゃわかるぜ」


「心配するな。向こうの王さまが責任取ってくださるそうだから……」


 スッカルはあわれみをこめてちらと一瞥する。

 シキリーヤ王の顔色は死人そのものになっている。

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