第13話 甘露


 苛烈な陽光そそぐ砂の上、ザッ、ザッ、ザッと足音が響く。

 スッカルとライムーンはただひたすらに歩いている。一度来た道を戻っているはずなのに砂に足跡がない。風で消えてしまっている。そもそも、元の道をおそらくかなり外れてしまっている。

 砂漠をさまよいはじめて数日が経っていた。


「こちらで……ほんとうに方角は合ってるのか、殿下。地図は頭に入ってるんだろ」


 かすれた問いに、おなじく絶え絶えの声で隣のライムーンが答える。


「たぶん……こっちに行けば街道に出られる、はず……」


 口の中まで砂でじゃりじゃりしている。しかしつばを吐くことすらできない。もう、つばが湧いてこないからだ。

 飢えを圧倒する渇き。

 深刻な脱水症状。


 聖都が滅びた翌朝、ふたりは母のアミを埋めた。

 それから、魔術師の追手がかかるかもしれない街道を離れた。都を落ちる前にライムーンが教えられた、砂漠の中の水場を目指して。助けを求めるべきほかのジン族の居場所だと。

 日差しに耐えて日中からずっと歩いた。一刻も速く、呪われた聖都を離れたかったのである。


 ところが、途中であてこんでいた水源は涸れていた。何年も前に捨てられた住居の形跡だけがあった。ほかのジン族がかつてそこにいたとしても、すでに土地を去っていると思われた。

 渇き死にの危険はそのとたんに現実味を帯びた。

 こうなっては街道に戻るほかはない。

 もともと、水を入れた革袋は持っていた……一個ずつ。


 とはいえ、スッカルのぶんはもう空だ。

 かれは自分の水を飲み干してしまっている。母を埋葬してから、異様にのどが乾いていることに気づいたのだ。グール化したサラームに致命傷を負わされたこと、目覚めると傷が癒やされていたこと、そして母が死んだことと関係があるのかは定かではなかった。


『アミはスッカルに輸血したの』


『ゆけつ?』


『管蛭は、うまく使えば人の血を別の人に移すことができるから……

 アミはスッカルの傷を〈霊薬〉で治したの。でも霊薬は、「傷を修復する」ことはできても、完全に失われてしまった血肉を戻すことはできないんだって。

 スッカルは血を失いすぎていた。だからアミはあなたに自分の血を移した。それで死ぬことになっても』


 のどがもっと乾くとわかっていながら、互いに話すことを止められなかった。ぽつりぽつりと切れ切れに。

 ライムーンのほうはどうだかわからないが、スッカルがそうしている理由はふたつあった。

 ひとつは、母の死を語ることで現実を直視するためだ。


“おれを助けるために、母さんは死んだ。血を失って”


 もうひとつは、水への獰猛な渇望をまぎらわすためだ。

 ライムーンの水袋にまだ水が残っているかどうか、スッカルはそれを聞くまいと決めている。


“聞いたらいけない。もし、こいつが最後の水を残しているのだとしたら、おれはきっとそれを奪って飲んでしまう。だから、けっして知らないほうがいい”


 ライムーンも同じように、こちらの水の量を聞いてこない。

 砂漠で迷った旅人たちが、最後の水をめぐって殺し合った話はふたりとも知っていた。


“おれは母さんとは違う。殿下をご主人様だなんて敬っちゃいない。

 でも、殺し合いたいわけじゃない”


 乾ききった口でスッカルはあえぐ。そのとき足底が砂丘をずるりと滑り、朦朧とした視界が横にかしいだ。

 転倒。

 回転。

 砂丘の斜面を転がり落ち、砂塵を舞い上がらせて倒れ伏す。


 スッカルはなんとか、砂の上に仰向けになる。砂が目に入りそうで目を開けられない。

 起き上がるどころか顔の砂をぬぐう力もなかった。四肢に力が入らない。動かなければこのまま確実に死ぬ。だが動けない。


“いやだ。死んでたまるか”


 あえいだとき、唇に何かがあてがわれた。

 続いて、命そのものの清涼感がちょろちょろと流れ込んできた。


“これが霊薬か?”


 一瞬そう思ったほどの、命の充足。


“違う。水だ。みずだ”


 すべての理性が消え、本能が取って代わった。むさぼるようにその水をスッカルはすすった。手を上げて水袋をもぎとり、一口ばかりのそれをごくんと飲み干す。

 身じろぎする気配がかたわらにあった。スッカルは顔をぬぐい、目を向けた。


 ひざまずいたライムーンと目が合う。彼女の手は、水袋を差し出す格好のままだった。

 臓腑に水分が、脳裏に理解がしみわたっていく。スッカルは呆然と、


「殿下……最後の、水だったのか?」


 こくんとライムーンはうなずいた。茫洋とした、焦点の合わないまなざしで。

 スッカルは口を開け閉めする。ややあって、どもりながらどうにか言った。


「あ……ありがとう」


 精一杯感謝をこめたつもりだったが、伝えきれた気がしなかった。砂漠で、最後の水を与えられたのだ。自分にはそれに報いられるものが何もない――言葉があまりに軽く薄っぺらく感じた。

 こみあげる感情を噛み潰し、ふらつきを抑えて立ち上がる。

 行こう、殿下。

 そう声をかけようとしたとき、とさりと横に倒れる音。


「殿下……ライムーン?」


 見ればライムーンは砂に伏して動かなかった。眠るように目が閉じられている。かぼそく呼吸はしていたが、揺すぶっても彼女は目覚めなかった――疲労と渇きの極みで意識を手放しているのは一目瞭然だった。


 スッカルの脳裏に、彼女を捨て置いていく選択肢がまったく浮かばなかったといえば嘘になる。

 だが結局のところ、ライムーンを背負ってスッカルは歩きはじめた。


“こうするのは、殿下がおれの主人だからじゃない。乳きょうだいだからだ”


 砂を踏みしめ、少女を背負って少年は砂漠を歩く。

 歩く。

 砂地が足をつかむ泥濘のように感じる。


“そして、殿下がおれに最後の水を飲ませてくれたからだ”


 砂に埋まる一歩の重みは、背中で気を失っている乳きょうだいの命の重みだ。


“だから、脚よ、歩け。街道に届くまで”


 自分の身体に命令する――もう、ほかのことは何も考えなかった。


“歩くんだ。死ぬまで歩くんだ”


 一歩。

 一歩。

 また一歩。次の一歩を踏み出すこと、それだけを意識する。


 やがて、目を開けているはずなのに光景が認識できなくなった。



 どれだけ経ったのかわからなかった。気がつくと周囲でざわめきが聞こえていた。荷を積んだ何頭もの駄獣がいなないている。

 そこは街道で、数十人からなる縦列の中をスッカルは突っ切りかけていた。


「少年よ、歩くのをやめなさい。死ぬぞ」


 隊商のひとり――山羊髭の男が目の前に立ちふさがり、スッカルの肩を押し留める。

 ぼんやりと見上げてスッカルは、


「水を……おれたちふたりに水をください」


 山羊鬚の男が横を見てスッカルのほうにあごをしゃくる。ラクダに乗っていた男が革の水筒をふたつ放ってきた。

 水筒の吸口をスッカルの口に突っ込んで飲ませてくれる。

 水筒ひとつを飲み干したその場で、ライムーンを背負ったまま前のめりに倒れ、スッカルは意識を手放した。





 凍てつく砂漠の夜、あまたの星々。


「隊商の人にさっき教わったの。あれがカシオペア座サナーム・ナーカだって、スッカル」


 ふたりは荷台の上だ。

 毛布にくるまってスッカルに肩を寄せ、ライムーンが夜天を指差す。

 水分と栄養を与えられれば少年少女の回復は早かった。隊商の荷車に揺られながらこんこんと眠り、ときおり起きて水となつめやしの干したものを食べ、一日たった今ではすっかり生気がよみがえっている。


「北にはずっと動かない星があって、それを見つけるためにあの星座が必要なんだって。その星で方角を見極めながら砂漠を渡るんだって。ねえ、知っていれば無駄に歩かずにすんだね」


 残念そうに話しかけてくるライムーンに、スッカルはぶっきらぼうに返す。


「いまこうしてふたりとも生きてるんだから別にいいさ。

 ……なんだよ」


 ひざをかかえたライムーンがかれを見て嬉しそうにしていた。


「スッカル、やっと笑顔を見せてくれた」


「え?」


 無愛想のつもりだったが、微笑んでいたようだった。

 自分自身に、スッカルは驚く。


「何年も見ていなかったから。なんでスッカルはわたしに怒っているんだろうと思っていたの。ねえ……もう怒ってない?」


「怒っていたわけじゃ……」


 スッカルは言いよどむ。

 ただおれは、奴隷と主人でいたくなかっただけだ。

 きみと対等でありたかっただけだ。

 かれはライムーンを見つめる。


 砂にまみれてなお星の光で輝く白金の髪、柔和な温かさを帯びた琥珀金の瞳。竹の葉のような横に長い耳。夜露をたたえているかのようにきらめくまつ毛。幼くともあまりに整った目鼻立ち。古来より揺るがぬ特徴として、ジン族は美しい。

 その種族ゆえの美しさとは別に――ライムーンという少女そのものに、スッカルはこのとき初めて目を惹かれる。

 甘ったれだが優しく柔らかな、ずっと近くにいた少女に。


 和解の言葉を期待するようにライムーンがそっと袖をつかんでくる。スッカルはためらいながら、彼女の間近で、大切なことをささやくように言う。


「その……砂漠でもらったあの水は……」


 あの水はおいしかったんだ、ライムーン。

 王宮できみからもらっていた、どんな豪華なごちそうの食べ残しよりも。


 そうはっきり口に出す前に、荷台に近寄ってくる足音がある。


「すっかり元気になったな」


 かれらを助けた山羊髭の男だ。


「おまえさんがた、なんで野垂れ死に寸前で歩いてたか知らんが運がよかったな。唯一の神は慈悲深くあらせられる」


 ところで、とその男は言いにくそうに切り出す。


「この先はどうするつもりだ? 悪いがずっと連れて行ってやることはできないんだ、この隊商はミスルに入るからな。あの国は商人以外は奴隷しか入れない。これは奴隷商人プトラーン様の隊商でな、キプチャクやチェルケスの少年たちを買い付けてミスルに帰るところだよ」


 そうと聞いて、スッカルは目を見開く。

 神の思し召しというならば、かれにとってはこれがそうだ。

 さきほどから不思議には思っていた。この隊商にはスッカルと似たような年の少年が多い。琵琶ウードを弾く少年、誇示するように剣を佩いている少年、身を寄せ合ってパンを分け合っている少年たち。


 檻に閉じ込められていたりはしないが、


「じゃあ、あの子たちはみんな奴隷なのか?」


 スッカルは山羊鬚の男に聞く。

 その男は当然と首肯する。


「それにしては……自由にふるまっているように見えるけれど」


「あの子らはミスルの『王奴』の候補だからな。あの子たちの家族がかれらを売った。本人もそれを望んだ。部族間の戦争で捕らえられた子たちもいるが、そういう子たちも故郷で奴隷をやるよりミスルに行くほうがましだと受け入れた。

 なにしろミスルの王奴になれば、出世の道があるからな」


 では――

 では聞いてきた話は本当なのだ。ミスルは奴隷にとって楽園のような国だと。

 ミスルの王奴は平民を支配すると。

 王奴として手柄を上げれば、他国の貴族を圧倒する豪奢な生活を送れると。極まれば、王位をさえも狙えると。

 そしてミスルには父がいる。


 夜であったにかかわらず、歓喜の光がスッカルの眼前に満ちた。

 立ち上がると毛布がスッカルの足元に落ちる。かれは叫ぶように言う。


「連れて行ってくれ。おれはミスルへ行きたいんだ」


 “父さんのいる国へ行って、父さんを探したい。生まれながらの奴隷でも上へ行ける国に行きたい”


「いや、だから、ミスル国境は基本的に商人と奴隷しか越えられないんだぞ。農業奴隷、家内奴隷、軍人奴隷こと王奴……立場はさまざまだが。例外は王奴の従属民くらいで、これは王奴に支配される民だ」


 困ったように言う山羊鬚の男に、スッカルは懇願する。


「おれは元から奴隷だ。おれをあの子たちのような商品に追加してくれ。おれはミスルの王奴になりたい……逃亡奴隷でも大丈夫か?」


 虚をつかれたようにライムーンが口を開け、かれを見上げている。

 その視線を感じながらもスッカルは山羊鬚の男だけを見つめる。

 はたして山羊髭の男は、祝福めいた笑みを浮かべた。おごそかに。


「よくよく神の思し召しだな。プトラーン様は『健康な男児』という王奴候補の条件にさえ合えば逃げたい奴隷を受け入れることにしている。あの方は〈慈悲深きプトラーン〉と呼ばれる、敬虔で人格すぐれた奴隷商人だからな。奴隷の元主人と対立するのもいとわないんだ。

 そして今回の買い付けでは、王奴候補の数が足りなくて困っていたところだ。十歳そこらで強健なおまえさんは都合がいい。

 おまえさんさえよければミスルに連れて行ってやるよ」


「――だめ!」


 短く、悲鳴じみた叫び。

 ライムーンが、スッカルの袖をにぎっていた。


「な、何を言って……勝手に決めないで、スッカル! あなたはわたしといっしょにいないと駄目……あなたはわたしの……わが王家の財産じゃないの!」


 必死の声は、しかし少年を翻意させなかった。

 表情を暗くして、スッカルは彼女を見下ろす。財産と呼ばれ、心にまた黒い泥水が湧き出すのを感じる。悲しみか怒りか、それは区別がつかなかった。


“やっぱり、あんたにとっておれは奴隷扱いなんだな。自分の持ち物だから勝手に離れるなってことなのか”


 やっと対等になれた気がしたのは、ほんの今しがたのはずだった。


“勘違いだったな。なら、ライムーンのもとを去ったほうが苦しくない”


「殿下」


 思ったより失望が顔と声に出たのかもしれない。ライムーンがびくりと顔をこわばらせる。スッカルは彼女の手を振り払う。


「奴隷は家畜とおなじように財産だ。でも財産は盗まれる。家畜も逃げ出すことがある。

 だから、さよなら、おれはあんたから逃げる。おれひとりいなくたって殿下は困らない、珍しいジン族を客としてもてなす土地は多いだろう。いざとなったら一字剣アル・アリフを売って、それで食っていけばいい」


 顔をそむけて、スッカルは立ち上がる。

 ライムーンは茫然と座り込んでいた。

 山羊髭の男とともに荷台から離れながら、スッカルはふと意味のないことを考えた。


“もし、財産ではなく、「乳きょうだいだから一緒にいよう」と言われていれば、おれは留まっただろうか?”

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