間章 砂糖とレモンの物語1

第11話 滅亡の夜に

  十四年前 聖都アル・クドゥスの郊外の地中



 聖都のジンの国ジンニスタンが滅んだ夜だった。


 十歳のスッカルは暗闇のなかで、生きるために砂を掘る。

 母と、同い年の乳きょうだいとともに。

 道具はない、素手だ。それでも地下の秘密通路から出るためには掘るしかなかった。外はおそらく曙光が差している時刻のはずだが、その光はまだ差し込まない。携帯式の角灯は壊れてしまい、明かりはなかった。


 この場所は、城内から続いて一ファルサフ半約9kmも離れた外へと通じる脱出経路だ。

 ところが、出口がふさがれてしまっている。何百年も使われないうちに外から流れ込んだ砂で埋まっていたのだ。


「もう掘りたくない、アミ」


 とうとう乳きょうだいが音を上げるのが聞こえた。アミが彼女をすぐにあやしはじめる。ライムーン様、もう少しですからね。もう少ししたら地上に出られますからね。

 アミはスッカルの母だ。王家所有の奴隷であり、女性専属の宮廷医師であり、そして王女ライムーンの乳母でもあるという人物だった。


「もう掘るのはいや。だって手の爪が剥がれたの」


 聞いていたスッカル少年は苛立つ。


「おれだってそうだ」


 砂は砂岩かと思うほどに固まっていた。爪の三枚がすでに剥がれ落ち、手は血まみれだ。残る爪も砂粒が肉とのあいだに深く食い込んでいる。

 母さんもたぶんそうだろう。素手で掘り続け、とっくに手はぼろぼろになっているはずだ。ライムーンだけのことではない。


“そりゃあ高貴なお方の手は柔らかいのかもしれないが”


 相手は乳きょうだいとはいえ主筋だ。自分は彼女の一族が所有する奴隷だ。

 それがどうした?

 聖都のジン王家は今日滅びた。


「だいたい、痛いならべつのもので掘ればいい」


 スッカル、やめなさいスッカル! とアミがかれの名を呼んで制止しようとするのにもかかわらず、少年は闇に吐き捨てる。


「ふところの短剣があるだろ、王女殿下。この隠し通路に入る前にジンの王さまから渡されてたやつだよ」


「だめ!」


 ライムーンが首をふる気配があった。


「なにをいうの、スッカル。この〈一字剣〉アル・アリフはそういうことをする道具じゃない。これはお父さまが持っていけと。わが王家の宝剣だから大事にして、願わくばいつかこれで仇をとるようにと」


「生き延びるのが先だよ。外に逃げなければ、追いつかれて殺されるんだ」


 鼻にしわを寄せ、スッカルは止まらなかった。昨日までならライムーンにこんな口をきけば鞭打ちにされていただろうが、いまはそうする者もいない。胸の奥にこれまで押さえつけてきた泥水のような思いがにじみでてきている。


「追いかけてくるのは見知った顔かもしれない。変わり果てた姿のさ。おれはいやだ、食人鬼グールに変えられた王さまや女王さまに食い殺されるのはな」


 闇が凍ったかと思うほど、間が空いた。

 ジンの王と女王。ライムーンの両親だ。


「そ……そんなこと起きるはずがない」幼い王女ライムーンの震える声。「父さまも母さまもグールに変えられたりしない」


「そんな言葉、自分自身が信じてないくせに。ほんの数日で都じゅうのジン族と人族が殺されて、死体がグールに変えられて聖都を満たしたんだ。あの魔術師に勝てるもんか。グールになってるよ、おふたりはとっくに! そして殿下を食い殺す。その剣でここを掘らなければね」


 自分でもきつい言葉だと思った――が一息にいってしまった。


「ひどい、スッカル」


 闇のむこうで、ライムーンが泣きはじめる。


「わたしは……今日まであなたにひどいことなんてしなかった。なんでそんな意地の悪いことをいうの?」


 たしかにそうだ。

 彼女は彼女なりに優しかった。王宮内で労働するスッカルに会うと励ましの声をかけて通り過ぎていった。かれと母のアミには、食事においてライムーンの食べた宮廷料理の残りが与えられた。手付かずの皿も多い、ぜいたくな残飯。

 かわいがっている犬に餌を投げ与えるようだと、スッカルは感じていた。

 瞬時に、スッカルの胸奥ににじみだしていた黒い泥水がかさを増す。


「奴隷だけれど乳きょうだいだから慈悲をほどこしてあげたのに、といいたいのか? いまになってもご主人様づらか?」


「スッカル!」


 アミの鋭い叱声。もし視界が明るければ、アミは息子の頬を思い切りひっぱたいていただろう。

 ライムーンはもう答えなかったし、すすり泣きもしなかった。固まるように沈黙していた。

 それから、掘るために宝剣を使い始めた。

 ざくざくと音が変わったのでそれがわかった。


「殿下。おれか母さんに剣を。あんたはこのなかでいちばん掘る力が弱い」


 ライムーンはスッカルに直接答えない。


「アミ。やって」


 三人が黙々と砂を掘る音だけが響く。

 スッカルは唇を噛む。


“これで殿下には嫌われたな”


 胸奥で黒い泥水がまだ湧き出していることにスッカルは動揺する。


“なんでだ? これでもうあの能天気な笑顔を向けられずにすむというのに、あまりせいせいしない”


 いってやりたかったことをいえばすっきりすると思っていたのだが……余計いらいらが募っていた。


“いいさ。おれは脱出したらミスルにいく。父さんがいるという国へ。そこでまともな暮らしをつかんでやる……殿下のことなんかもう気にするもんか”


 スッカルは父の顔を見たことがない。父親も奴隷で、母の腹に子種を残してミスルに転売されていったという。うわさではそこで出世しているとのことだった。


“ミスルは奴隷のための国だっていうじゃないか。きっといいところだ”


 奴隷の両親をもつスッカルは、生まれたときから奴隷だった。

 通常と違うのはただ一点。かれら母子の主人はジン族ということだ。

 聖都アル・クドゥスは数百年間、ジンの王朝の統治下にあった。とはいえ人よりはるかに長く生きる人外の存在ゆえ、王の代替わりも一度しかなかったらしいが……


 その栄華もいまは過去のことになった。

 なにが起こったのかスッカルにはよくわからない。崩壊はあまりに異常で、急なことだったから。



 半月ほど前、とつぜん聖都の市内で疫病が起きた。

 恐ろしい死病だった。

 全身の皮膚が白っぽい肉腫となって膨れ上がり、高熱を発して死に至る。発症すれば数時間から数日で遅かれ早かれまちがいなく死ぬ。悪いことに強い伝染性を持っていた。


〈グール腫〉と医師たちはそれを名付けた。


 なぜなら、死んだ者がすぐに呪われた獣グールとなって起き上がり、生者を食い殺しはじめたからだ。毛が抜けたぶよぶよの体だが、大型の猿のように敏捷で力強く、なにより獰猛だった。人肉に対する渇望に突き動かされているかのように。


 聖都は市壁によって囲われた城塞都市だった。それは近隣の都市にとっては不幸中の幸いであり、聖都のひとびとにとっては不幸の極みであった。

 門を閉ざした高い市壁はグール腫と、グールたちを聖都に閉じ込めたのだ。

 グールの移動する端からあらたにグール腫が広がった。グールに食い殺された死体もグールになった。


 ジン王は美しい白金の髪をかきむしる苦悩の末に、ひとつ正しい選択をした。

 それは聖都の民のためではなく、世界のための正しさだった。


『ヤッフォ門を開けてはならぬ。花の門、獅子の門、黄金の門、そして糞の門に至るまですべての門を閉じるのだ。グール腫が外に漏れれば地獄が広がる。

 わが民よ、許せとは言わぬ。余を呪え。そして市壁の中で死んでくれ』


 血と疫病の嵐が市壁のなかで渦巻いた。やがて、市民のあらかたを殺してグールの数は、王宮を守るジンの戦士たちですらも手に負えない数にふくれあがった。

 聖都アル・クドゥスは死の都と化した。


 グールの海に王宮や神殿が呑み込まれ、押し寄せる波がついに王宮の壁を乗り越えたとき、ジン王はかれら親子を御前に呼んだのだった。

 娘とともに逃がすために。


『グールの数はどうにもならぬ。その上、グールを生みだした魔術師がまもなく乗り込んでくる。

 対応を誤り、われわれは詰みの局面にいる。

 霊薬アル・イクシールをすぐにでも使用すればよかった。

 この敵は霊薬で倒せたかもしれない。だがもう遅すぎる。できることは次の世代に託すことだけだ』


 三十名足らずに減ったジン族の戦士たちを大広間に集め、王は命令していた。


『余は民とともに死のう。だがライムーンを落ち延びさせる。それとそこの乳母をだ』


 王の剣の先がアミを指し示した。アミがぎゅっとスッカルを抱きしめる。なんで母さんが? と疑問を覚えるスッカルの前で、


『わが娘ライムーン、脱出したらほかのジンの国を探せ。わが王家の証である一字剣アル・アリフを持っていけ。一族の仇をとることを託すぞ』


 娘との愁嘆場もそこそこに、次に――驚くべきことに――王は直接、奴隷のアミに声をかけた。


『アミ。祖より代々、わが王家の所有物たるおまえには、なすべきことがわかっていような。霊薬は人族の自由にさせてはならぬ。おまえはライムーンから生涯離れるな』


『はい、陛下』


“霊薬とはなんだろう?”


 スッカルは聞きながら首をかしげる。母が逃がされる理由がそこにあるのはうすうすわかったが……

 長く主人を見あげていたのがまずかった。

 ジン王は視線を下げ、小さなスッカルを見て、


『ところで……その子を連れて行くつもりなのか? 逃げ足が鈍るのではないか』


 顔色を変えたアミがさっとひざまずいた。


『陛下、後生でございます。我が子スッカルを連れて行くことをお許し下さい。そうでなければわたくしもここで死にとうございます』


『愚かな! ライムーンについておれと命じたばかりだぞ。勝手に死ぬことなど許しておらぬ。だが……その子はライムーンの乳きょうだいでもあるか。まあよいだろう、生涯仕えてくれる奴隷はふたりいてもよい。その子をいっしょに連れて行くがいい。

 それでは最後にもう一度いう。〈スライマーンソロモン王の霊薬〉は人族に自由にさせるなよ』


『ありがとうございます、陛下。誓って仰せのままにいたします』


 そのやり取りを聞くあいだ、スッカルは顔を伏せていた。主人への反感が目に出そうだったから。


“一生殿下のそばになんかいるもんか、おれはミスルへ逃げてやる”


 スッカルは生まれたときからジン族の奴隷である自分に飽き飽きしていた。

 けっして虐待されたわけではない。だが、この先も一生所有されて当たり前だと思うこともできなかった。


 ジン王とはそこで生涯の別れになった。

 王はじめジンの戦士たちは後に残って総勢で時間を稼ぐことになった。スッカルたちは広間の隠し通路から外に送り出された。


 護衛には、ジンの戦士であるサラームがつけられた。

 ほかにも生き延びた戦士がひとりくらいはあとから追いついてくるのではないかとスッカルは期待した。


 ……追いついてきたのは、ひしめくグールだった。


 サラームが残り、通路に立ちはだかって戦った。逃げるスッカルたちの背後で轟音が響いたところからして、サラームは最後に通路を崩落させたようだった。たぶんかれの「妖印」の力かなにかで。

 出口と思しき場所にようやくたどりついたが、そこは砂で埋まっていた。携帯式角灯は直前のグールの襲撃で壊れており、油が漏れていて、やがて火が尽きた。闇のなかでスッカルたちは砂を掘るしかなくなったのだった。


 そこまでが今この瞬間にいたる経緯だった。


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