第10話 仇敵
「じゃあ金をたかりに行くかシャイク。ドゥーリーの別荘に」
「あまりかれをいたぶると一か八かの反発をされかねませんよ」
「なに、あの野郎は受け入れるさ。もともとあんたらを追い出したがってたし、それ以上におれに出ていってほしがってる。おれたちが金で消えてくれるってんなら、渇き死に寸前で泉を発見したかのように飛びつくさ」
スッカルとシャイク・アークは、何人かの難民を伴ってドゥーリーの館に向かっている。
かれらは出ていく算段をつけている。
そのための資金をドゥーリーに出してもらうのだ。
「さあて、カラクを出たらどこを目指すかな。
「はい。シャームから出るとしても、すでに戦場になっている北のチェルケスは論外です」
「じゃあ東の
「……西に行けばミスルですが、そちらは無理ですか?」
シャイク・アークの言葉にスッカルは少し黙る。
「やはりミスルに戻ることは難しいのですか? 王奴の支配さえ受け入れれば、豊かで住みよい土地だと聞きましたが」
シャイク・アークの控えめな希望の言葉に、スッカルは歩きながら目を閉じる。
光景が浮かんでくる。大河
夕陽がピラミッドを照らして砂漠の果てに落ちる。ローダ島の岸辺に生えるサント木や柳が川風になびく。
夜が来ると
港では東方の香辛料や絹や陶磁器が取引され、百もの国の民が行き交っている。
果てしなく並ぶ尖塔、モスク、城塞、館、噴水……
世界の首都たるミスルの王都。
そして、彼女がそばにいた。
かれの半身。
スッカルは目を開く。苦笑する。
「ミスルに戻ったらたぶん殺されるからなあ、おれ」
「では、残念ですが無理ですね……」
「あと、あの国は新規に移り住むとなると奴隷しか受け入れてない」
そんなことを話しながらスッカルたちは煉瓦の路地を歩いてゆく。
アーチ門をくぐってドゥーリーの別荘に入ったとき、申し合わせたようにその歩みが止まる。
別荘には花樹をふんだんに植えた中庭がある。
そこに死体がごろごろと転がっていた。柱廊にも噴水の盤にも門のそばにも……
血が石畳に広がり、そこから幾筋もの川の流れを作っている。
「みんな死んでる」
若い難民がおののいた声をだす。
スッカルはぐるりと見渡して喉の奥でうなる。
“出入り口をふさいでから殺したな。だが殺した側のほうがずっと少人数だ”
死体の傷が似通っている。とくに刺し傷一箇所だけの死体が多い。
“刺されたのちはほぼもがいていない。これをしたのはすさまじい手練だ”
一刺しで即死させるのはたやすい技術ではない。胸をめった刺しにしても、急所を指一本ぶん外せばのたうちまわって死ぬ。よほど的確に急所を貫かねば一撃死はしないのだ。
“王奴だ”
歩いていき、そして柱廊の奥にスッカルは見る。
ジンの女が石柱の台座に腰かけている。肩に槍をもたせかけて。
女は無言でかれを見つめている。背後に並んだ、血のしたたる剣を手にさげて外套をかぶった者二名も。そのふたりもおそらく王奴だろう。
しばし視線を交わし、スッカルはふと足元に視線を落とす。
ドゥーリーの死体。
あぜんとした顔であおむけに倒れ、もうなにも映さない瞳を空に向けている。
“やれやれ。こいつにも幼い娘がいたものを”
「唯一の神をのぞいては永遠の栄えなし。安らかに眠れ」
スッカルは祈りながらかがみこんでドゥーリーの目を閉じてやる。
それから、顔をあげて、座るジンの女に、
「こんどの追っ手はとうとうおまえか……ライムーン」
その呼びかけはいくつもの感情を帯びる。
向けられる感慨を斬って捨てるように、ジンの女は冷ややかに答える。
「しばらくぶりだな、スッカル」
「この連中はたしかに悪党だが……殺すまでしなくともよかったものを」
「
冷たい美貌、冷たい目、冷たい声。
「君とこの男の対立の
この者たちは君を排除しようとしていた。隙あらば君を殺したはずだ。君がいなくなれば、君が肩入れしたそこの者たちをも殺しただろう。一度恨みを買う真似をしたら、最後まで敵を殲滅しろ。報復を防ぐ唯一の確実な道だ。そう婢に教えたのはかつての君だぞ、スッカル」
「おまえ……」
「剣を抜け、叛逆者スッカル。
ライムーンは立ち上がって槍をかまえる。
スッカルは動かず立ち尽くしている。
そののどもとに、槍先がつきつけられる。
「なんで剣を抜かない」
「相手がおまえじゃなあ」
「やる前から観念しておとなしく殺されるつもりか」
「殺すつもりないだろ、おまえ」
静かにスッカルはいう。挑発ではなく、槍先に殺意がないことを感じている。
ライムーンはおれを傷つけない。おれがこいつに刃を向けるのがありえないのと同様に。
なにしろ、乳きょうだいだ。
スッカルの母はライムーンの乳母だった。
ふたりは父の精液と母の胎盤をおなじくせずとも、生後七十日までの母乳を分け合って育った。
聖典によって、「実のきょうだいにおなじ」と定められた存在。
ライムーンが歯をくいしばる。
激情を抑える表情。つかの間、槍の先端がのどの皮膚に触れる。
スッカルはまた苦笑いを浮かべかける。うぬぼれが過ぎたかもしれない。離れていた二年で、ライムーンがどれだけ変わってしまったかはわからないのだ。
幸い、ライムーンは槍を引く。
そして告げる。
「つつしんで聞け。君の罪は
国王陛下と王奴庁は、君に下した抹殺令を撤回した。君がミスル軍に戻って戦うことを条件として」
青天の霹靂。というほどでもない、実は。
許される理由は予想がついている。
「エヴレム・カンか?」
背後で、シャイク・アークたちがはっと息をのむ。
「そうだ。かれが攻めてくる。これからミスルの存亡をかけた大きな戦がはじまる。王奴庁はかの竜王と戦うことを正式に決定した。
ただしミスルの国土は戦場にしない。わが軍は前へ出て、このシャームの地で迎え撃つ。そのためにはわれわれがまずシャームを征服し、急いで防備を固めねばならない。
ゆえに、ミスル軍はいま有能な王奴をひとりでも多く必要としている。君のような叛徒とみなされる者でも帰参するならその罪を許すことになった」
なんとまあ。
スッカルは口笛を吹きたくなったがやめる。いまふざけると槍の柄でぶったたかれるくらいはあるだろう。
「おい、ライムーン、それじゃなんで剣をとれなんてさっきいったんだ」
その問いに答えたのは、ライムーンではなかった。
「まだきさまがものの役に立つかを見るためだ、叛逆者スッカル」
中庭の隅で影のように立っていた王奴ふたり。
その片割れがしゃべっていた。声に敵意をにじませて。
ライムーンが向き直る。
「スッカルの腕前を疑う必要はない。こいつは……戦いしか能がないから」
「ライムーン殿、勝手に手順を省かれてはこまるな。もしや乳きょうだいへの手心か? そこの反逆者が戦力としても役に立たぬようなら抹殺令の撤回の必要はない、ここで殺せ――と大アミールはおおせだったはずだ。本来なら貴殿も、そこの叛逆者と共謀した疑いで罪を問われていたはずの立場だ。それを忘れぬように」
「おまえたちは婢とスッカルが殺し合うところを見たかっただけだろう!」
強い言葉でいいつのるライムーンをさえぎり、
「戦えると示せばいいんだな。じゃあおまえが戦え。証明してやるから」
スッカルはめんどうくさそうに一歩前へ出た。その王奴が頭巾の下から暗い視線を投げつけてくる。
さらに前へ出ながらスッカルは聞く。
「大アミール、といったな。ウクタミシュ・ベイか? ジューグンダール・ベイか? うわさでは今回、シャームに出張ってきたのはそのふたりの軍団だったな。わざわざ親切にも乳きょうだいを派遣してくれたのはどちらの大アミールだ? おれを殺したがっているのはどっちだ?」
「ウクタミシュ様の発案ではないとだけいっておこう」
三人目の王奴が口を出した、ほとんど答えと変わらないことを。「余計な口出しを!」先に発言したほうが険悪にうなる。おそらくこのふたりはウクタミシュの配下とジューグンダールの配下だろうな、とスッカルは見て取った。かれに敵対的なほうがジューグンダールの王奴だ。
“相変わらず陰湿だ、腐れジューグンダールめ”
とはいえ〈最も狡猾な王奴〉ウクタミシュ・ベイを信じるのも危険だが……
そのウクタミシュ配下の王奴が手をあげる。
「私はキプチャク人の王奴だ。あなたと同じように」
「おれはあいの子だ、純粋なキプチャクじゃない。それはくそ親父だ」
「……スッカル殿、わが主君ウクタミシュ様も、貴方の現在の能力を確かめたく思っている。だが王奴同士で戦う必要はないとも。だから働きぶりで証明してもらおう。
さっそくだが働いてもらうことになっている。
貴方は昔ひきいていた部隊に戻り、ミスル軍の使者として聖都に入るのだ。聖都を占領するシキリーヤ人に和平通告を行ってもらう」
スッカルは立ち止まり、目を白黒させ、それから当然の疑問を口にする。
「いきなり使者? なんでおれが?」
「先方の希望だ。
シキリーヤ人たちが、和平交渉の使者として貴方の名をあげた。わが主君ウクタミシュ・ベイはそれを受けた」
「だからなんでだ」
「シキリーヤ人どものほうは知らぬが、ウクタミシュ様が貴方を選んだ理由は三つある」
その王奴は指を三本立てた。
「第一に、貴方の能力を計る必要。
第二に、貴方が
第三に、貴方が聖都出身であること。土地勘がある者が望ましい……交渉が決裂して戦闘になったとき、より役にたつであろうから」
筋は通っていて、スッカルはぐうの音も出ない。
ウクタミシュ配下の王奴は、「それから」と続けた。
「もうひとついっておこう。
攻めてくる敵、エヴレム・カンは、貴方とライムーン殿の仇だ。
かれは毒気と疫病と
十四年前、聖都アル・クドゥスにあった
これは王と奴隷の物語。
竜と霊薬の物語。
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