第18話 アリーチェ
「ミスルの王奴らよ。この奇病を知っているようであるな。そうだ、人を呪われた獣に変えるグール腫である」
少女は暗く笑う。
「驚いたであろ。
私たちシキリーヤ人は、ルーム人に援軍を出して以前にエヴレム・カンの軍とあいまみえた。おまえたち王奴のやろうとしている戦いなど、とっくにわれわれは実践したのである」
「知ってる。そしておまえらが負けたこともな」
あごをなでてスッカルは指摘する。
ミスル軍に戻ったことで、スッカルは世界の状況をつぶさに伝えられている。
戦慄と舌打ちを禁じ得なかった。
キプチャク草原はもとより、ルームやヘラスの地においては、予想以上にエヴレム・カンの侵攻が進んでいた。
その惨状を「侵攻」という生ぬるい言葉で表してよいのかは疑問だったが。
なにしろ、戦場となった広大な地域の人口が、二年で半分かそれ以下に減っていた。
ミスル軍が集めた記録によれば、侵攻された土地にはキプチャクの騎兵隊が突っ込んでくるのと同じくして、あらゆる疫病がばらまかれた。
天然痘。
麻疹。
水源は片端から赤痢に汚染され、北の地にもかかわらず熱病を伴った蚊の大群が湧き上がっているという。原産地であるはずがないのに、眠り病を媒介する特殊な蝿すらも観測されていた。
そうそうたる顔ぶれだった。太古から人命を奪ってきた疫病たち。
火と剣での戦よりも、はるかに多くの人々が殺された。
しかも『新種の病が多く混じっている可能性がある』と、ミスルの学究機関である
だめおしが、グール腫だった。
この悪辣な病は人の死体を、人のみを食う
エヴレム・カンは文明破壊の総仕上げとしてそれを解き放った。
戦場でキプチャク騎兵の馬蹄に蹂躙されなくとも、疫病の嵐に殺される。複数の伝染病をからくも生き延びても、徘徊するグールが生者を執拗に追い詰める。
エヴレム・カンの戦争は、虐殺のための虐殺だった。
戦後の支配などまったく頭にないとしか思えない、あらゆる命の破壊。
意図すら読めない蹂躙の前に、ブルガール、ヘラス、チェルケスといった諸地域は崩壊した。
いまや北の地の人民は、疫病と戦争を避けるために、
当初、戦争から逃げることを考えていたスッカルが断念したのは、この記録を見たためだ。ここで逃げても数年以内に必ず全世界が呑み込まれる、そう悟るしかなかった。
負けたといわれてむっとしたのであろう、少女が尖った声をだす。
「ミスルもかの竜王と戦えばわかるであろうよ。対抗するすべがないのである! 軍が強ければどうにかなるというものではないぞ」
“すべがないわけではない”
スッカルは思ったが、なにもいわなかった。
少女が「いや、おまえらが健闘するかなどどうでもよい」と首をふる。
「さあ、私をどうする。人をさらって自分と同じ身分にするというおぞましき奴隷兵らよ。
私をそうしてみるがよい。ミスルにつれて帰り、王の後宮にでもどこにでも送るがいいのである。私は故国シキリーヤの大賢者さまの薬がなくば、この呪われた病にすぐにでも全身を冒される身。私に触れれば、約束するが、おまえたちの国にこの病をばらまいてやるのである」
鬼気迫る覚悟のほどをスッカルはうなずいて聞き、
「ふむ」
グール腫の進行程度を確かめようと手を伸ばした。
「ぎゃあ! 何をするであるか!」
少女がスッカルの手を払いのける。胸の谷間を守ってばっとシャツの前をかき合わせた。
「この破廉恥漢! 強姦魔め! 触るなである!」
「おまえさっきどうにでもしろと自分でいってなかったか……ええいやかましい」
スッカルは嘆息して、
「シキリーヤの大賢者といったな。それ、フィオレンツァって名前の
少女がぴたりと動きを止め、うかがうようにスッカルを細めた目で見る。
「……大賢者さまの名を知っているのであるか」
「どこでっつーか、まあ。それは置いとこう。
もしかしておまえ、フィオレンツァの縁者かなにかか。なんとなく顔立ちが似てる気がするが……おい、人族だよな? そういえばシキリーヤの支配層には北方の白いジン族の血が入ってると聞いた覚えがあるが」
「そ、そんなことぺらぺら喋るわけがないのである。おまえは馬鹿であるか」
少女の目が泳いでいる。
「スッカル。なにを悠長に話してる。どうするんだ、そいつを」
しびれを切らした様子のアイバクが声をかけてくる。戦々恐々とした様子。
「グール腫だぞ。なんてことだ、俺もそいつに触っちまった。いますぐ水を探して体を洗わなくては……動く死体になどなってたまるか。
くそっ、この小娘が。さっきの全身を密封するような鎧、あれは病魔を閉じ込めるためのものだったんだな! 人質にするにも危険すぎる。いますぐこいつから離れよう、スッカル」
「おまえも落ち着けよ」
スッカルは腕組みして考える。
グール腫は極めて危険だ。対応を誤れば、聖都がかつて滅びたように、北の地がいま滅びかけているように、あっさりと軍や都市を壊滅させる。
部下たちが感染した可能性もある。かれらをミスル軍中につれて帰り、そこで発症したらまずいことになる。
しかし、自分にはその可能性を除去する方法がある。
スッカルは霊薬を持っている。
グール腫の予防薬にして特効薬を。
“だが、使えばあの薬のことをこいつらに知られる。その危険を犯す価値があるだろうか?”
悩みの時間は長くなかった。
部下たちを見回す。気性の荒いアイバク、寡黙で風呂が好きなカラト、はるか遠い東から売られてきたシャオフー、愛馬と結婚しているジッリー……いちどミスル軍を脱け出す前からの部下だ。戦友といってもいい、長い付き合いのこいつらのことは死なせたくはない。なるべくは。
あと、ミスル軍にも滅びてほしくはない。ほんとうにくそったれな古巣だが……それでもスッカルも王奴だった。
“それにこの娘も死なせるには忍びない”
「おい、ちび娘。話がある……こら、こっちを見ろ」
少女はつんとそっぽを向いている。
「ちび娘などという者は知らぬ」
「……おまえの名前は?」
「外道に語る名などない。呼びたくば〈シキリーヤの薔薇の花弁に輝く白露のごとき麗しく優雅なご令嬢〉と礼を尽くして呼びかけるがいいのである」
「長い! ふざけあってる時間はない、名前をいえや」
「べろべろばーである。いま時間を無駄にして困るのはそちらであろ?」
やっぱり放置して病死させようかなという気分にスッカルはなってきた。味方によって窮地に追い込まれたあげく、なぜこんな小娘におちょくられねばならないのか。
しかし、生意気な少女に宿るかすかな面影がかれに辛抱を強いる。
この小娘は、おそらくフィオレンツァに関係ある者だ。
スッカルは確認する。
「治してやるといったらどうする?」
「えっ……」
少女は目を丸くするが、すぐに鼻で笑う。
「グール腫に治療薬はないのである。これは大賢者さまでも進行をとめるのがせいいっぱいの病。おまえたち唯一神教徒の薬ではどうにもならないであるぞ」
胸を張ってから少女は急激にしょんぼりとして、
「治るものなら治りたいであるが。やっぱり死ぬのは怖いし……わたしのような美少女が化け物に変わる病であたら無残に散るのは世界の損失である」
おかしなのを拾っちまったなと思いながらスッカルは交渉する。
「よし、おとなしくするならあとで治療してやる。だから名前をいえ、それから手をかけさせずにおとなしく歩け」
「はっ、治るはずがないである!……もしかして治せる? ほんとに?」
憎まれ口を叩きながら、隠しきれない期待を上目づかいに乗せてくる。案外、素直な娘なのかもしれなかった。
聞き出した名は、アリーチェといった。
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