第8話 シャイク・アークの天幕


 広場には石のかまどがしつらえられ、パンを焼くにおいが立ちこめている。


「スッカル様!」


 華やいだヒュリヤの声に出迎えられる。スッカルは「おう、みやげだ」と彼女に向けて羊の頭をかかげてみせた。脳は珍味だ。

 シャイク・アークの娘ヒュリヤは一瞬たじろいだあと、そろそろと羊の頭を受け取る。


「来てくださって嬉しいです。お父様とお夕飯をご一緒されるんですか?」


「そうだな。軽く食べてきたが、どうせならお呼ばれするか」


 答えながらスッカルはヒュリヤをまじまじ見つめる。

 射たれたあの夜の傷は完全に癒えたようだ。母の死と拉致されたことの衝撃で数日は寝込んでいたが、いまはそれからも立ち直っているように思う。

 ヒュリヤが見られていることに気づき、頬を染める。


「これはその……先祖から受け継いだ古着です。売ってもこちらではあまりお金にならないので、一着だけでもとっておきなさいと生前の母が。お見苦しくないでしょうか」


 視線を誤解されたようだった。大胆な言葉を期待するように上目づかいで見られて、スッカルはあわてる。


 ヒュリヤは気立てがよく、素朴な美しさのある娘だ。このあいだは全体的に粗末な身なりであったが、いまは緋の民族衣装をまとっている。西陽を浴びてそのキプチャクの伝統着は、やや褪せた色がおぎなわれ、燃えるように映えていた。


 視線をちょっとさまよわせ、スッカルは穏当に褒める。


「似合ってる」


「よかったです」


 小声になったヒュリヤがますます頬に朱を散らして目を伏せる。

 着飾る一方、以前は剥き出しにされていた黒髪が、今日は被り物でおおってある。好もしい恥じらいの証だった。


「お父様、スッカル様がいらしてます」


 天幕のなかにぱたぱたと駆け入りながらヒュリヤが呼ぶ。

 パンと豆、羊肉の素朴な夕食をともにしたのち、シャイク・アークが切り出した。


「ヒュリヤをどう思いますか?」


「どう、というと……」


 スッカルは返答に迷う。家長の前でその家の女性の容姿に言及するのは、一般的には礼儀を失するふるまいだ。だが今回は、まさにそのたぐいのことを聞かれている気もする。


「いい娘さんだ」と答えるにとどめた。


 シャイク・アークがかすかに頬をゆるめた。


「あれは十七になります。……親のふがいなさであの歳まで独り身にさせてしまいましたが、はやく貰い手を探さなければ」


 食後の白湯をすすりながら、スッカルは応じる


「心配いらないだろうさ。環境が落ち着いたら相手には不自由するまい」


「スッカル殿、もしまだお独りでしたらヒュリヤを貰っていただけないでしょうか?」


 なんとまあ。スッカルは軽い動揺を押し殺す。

 うすうす予想はしていたがだいぶあけすけだ。


「慣習である男性からの持参金マフルですが、最低限でかまいません。スッカル殿はヒュリヤの命の恩人ですし、あれもあなたを敬愛しているようです」


「いや……恩人といっても、ドゥーリーとのいさかいについてはおれが発端だった気がしないでもないし……むしろ迷惑をかけた側ではないかなと……」


「いいえ。たしかに私自身、あの夜あなたをなじりもしましたが、あれは一時の激情です。発端はもっと根源にあります。われわれ遊牧の民は、こうした都市に入ると放浪の民として蔑まれるのですよ。とはいえ家畜を失ったいま、遊牧の暮らしに戻ることはできません。だとしたら、せめて頼りになる方に娘を託したい。守ってくれる力のある方に」


「そのう……ヒュリヤに文句はないんだ、ただおれのほうの事情が……」


 スッカルは言葉を濁す。シャイク・アークは理解を示すように深くうなずき、


「その事情とは、あなたがミスルの王奴であることと関係があるのですか?」


 別種の緊張感がその場を支配した。

 スッカルはゆっくり目を向け直す。シャイク・アークは手を広げた。


「心配無用。恩人の事情をひとことたりとも漏らすつもりはありません」


「なぜ気づいた?」


「キプチャクの地ならいざしらずこの地であなたほど強いのは、音に聞く王奴くらいであろうと」


「へ?」


「私たちキプチャクは身内を奴隷に売りません。ですが、遠方のミスル国にだけは進んで子供たちを売ってきた伝統があります。かれら『王奴』は奴隷にもかかわらず、富と名誉を与えられる誇り高い戦士だと知っているがためです。

 かれらは強さでわれわれキプチャクの軍に並ぶ、世界でただひとつの軍だ。あなたほど強い人はキプチャクでもそう見たことがない。

 ですからまちがいないでしょう、あなたは王奴だ」


 自信満々な返事が来て、スッカルは目をしばたたかせる。

 なにが困るかといって、論理の妙ちきりんさはともかく結果は当たっていることだ。

 だが、「すみません。なかば冗談です」とシャイク・アークは真顔でいった。


「ほんとうは、あなたが『霊薬』でヒュリヤを助けてくれたときに気づきました。一年ほど前、ミスルの王奴が『霊薬』を持っていると聞いたことがあります。そう聞いたときは与太話かと思ったのですが――」


「シャイク、頼みがある。そのことについては不用意に口にしないでくれ」


 スッカルは身を乗り出すようにして話をさえぎった。

 シャイフ・アークの顔に戸惑いがよぎる。


「なんと?」


「いいか、シャイク。おれが王奴ということよりも、霊薬を持っていることのほうが慎重に扱わなきゃいけない話なんだ。

 あの夜、おれはヒュリヤに薬なんぞ飲ませなかった。ヒュリヤはたまたま矢が急所をはずれていて、唯一の神の思し召しあってすぐ回復した、それだけだ。他のみんなにもあんたからよろしくいっておいてくれ」


「もしかすると……あの霊薬は、ミスル軍内で配られたものではないのですか?」


「もちろんそうだ。霊薬をおれが持っているなんて知られてみろ、地の果てまでも元同僚たちに追っかけられかねん。正直いうとおれはたしかに王奴だが、いまはミスルと関係がない。もと王奴といったほうが正しい。

 一方で、王奴はミスル王になったものただひとりを除いて終生の奴隷身分だ。おれは公式には奴隷のままなんだ。ミスル外では奴隷身分はなんの得もないし、あんたらにとっても奴隷との結婚はきまり悪いんじゃないかと思うんだが……」


「そういうご事情でしたか」


 スッカルが逃亡王奴であることはシャイク・アークに伝わったようだった。

 かれは目を閉じてしばし黙考していたが、やがて目を開いた。


「それでもかまいません、あなたは独立して生きていける型の人間です。

 これから動乱の世になるでしょう。どんな身分も意味をなさなくなるかもしれない。それならば純粋に頼りがいのある人に娘を委ねます」


 シャイク・アークのいい方には、強い実感がこもっていた。手をのばしてスッカルの手を包むように握り、その男は話しだす。


「お聞きください。私がお仕えしたキプチャクのカンは、民族が滅ぶ最後の戦いには、戦士のみを連れて行くと決めておられました。不具の者、老人、女子供は逃げよとハンは仰せられたのです。

 キプチャク草原南ロシアを南下し、カラ・デニズ黒海に沿ってチェルケスの地を転々としました。路銀も糧秣も尽き、馬を売るしかありませんでした。ところがやっと落ち着いたと思った矢先、敵はふたたび襲ってきました。かれらは西進してブルガールやヘラスギリシアの地を荒らすだけでなく、軍をふたつに分けて南のチェルケスにさえも攻め込んできたのです。われわれはシャームの地に逃げ出し、この町に入ったしだいです」


「んん?」スッカルは疑問を呈した。「キプチャクが滅んだ? そんなはずがない」


 むしろ、昨今飛び交う話では、


「最近、あちこちの国々を征服してるのはキプチャクだろう。以前にもまして盛大に暴れまわってると聞いたんだがな」


「それは表面上のことです。わが同胞は敵の奴隷になったのです。王奴になるのとはわけが違う、真の屈従の状態に」


 シャイク・アークの表情は苦悶に満ちていた。


「キプチャクは長年分裂していました。わがカンはそれを統一できるはずだった。ところが、草原統一戦の最終段階で、とつぜん現れた予想外の者が勝ちました。その者はわがカンを殺し、玉座を盗み取りました。

 わが民族は、かの残忍なカンの尖兵と化しました。役に立たねば殺されるという、使い捨ての駒の扱いです。もはや誇りごと滅びたといっても過言ではありますまい。

 その者の名はエヴレム・カン。

 キプチャクの言葉で『竜の王』。

 出自はわかりません。魔術師だともジン族だとも、本物の竜の化身だという者もいます。

 遠くない将来、キプチャク戦士を先頭に立ててここにも攻め寄せてくるでしょう」


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