第4話 炎と歌


 背嚢はいのうを背負ったスッカルは、占拠した望楼から眺めている。離れたところで炎上するドゥーリーの館を。

 無人の屋内で育った火の勢いは強く、かけつけてきた消防隊も手をこまねいて見ている。


「スッカル殿」


 ふりかえるとシャイク・アークが戸口から出てきていた。


「いわれたとおり人質たちはきちんと面倒をみています。男たちは革紐できつく縛り、ドゥーリーの娘は……ドゥーリーの妻に抱かせたまま、下の階に閉じ込めています」


「そうかい。ドゥーリーの娘はぐずってないか?」


「おびえて泣いてます」当たり前だろう、と言外に若干の非難が混じった声音。


 スッカルが正面から見返すと、シャイク・アークは恥じるように視線を下げ、それから、


「まだ小さな子ですから」


「やり口が気に入らないのはわかる。だがこうしたのはあんたの娘の安全のためだよ、シャイク」


 こうする前にスッカルは自問をすませている。


“四十人の敵が準備しているところに乗り込んで問題を解決できるか?”


 答え。皆殺しにするだけならかれにはおそらく可能だ。ただし人質の安全は保証しかねる。形勢不利とみるや敵はたちまち人質ののどに刃を押し当てて脅してくるだろうから。

 というわけで、天秤をまず釣り合わせてから戦うことにしたのだ。


「それにおれはこういうやり方しか知らないんだ」


“王奴戦争で学んだやり方だけな”


 王奴戦争は、定期的に起こるミスルの内乱だ。

 ミスルの軍はつねに一枚岩というわけではない。支配階級はほぼつねに派閥にわかれて争っており、ことにミスル王が後継者を指名せず急死でもしようものならたいへんなことになる。

 ミスルの王都アル・カーヒラカイロでは、街区ごとにといってよいほどひんぱんな市街戦が起きた。館や高官のハレムがつぎつぎ襲撃され、お互いに人質を取り合った。


 先手をとった側が警戒すべきは報復だった。

 身内を拉致されたときの王奴の対処方法――間髪をいれず、敵の身内や保護民を報復で拉致。拷問、強姦、殺害、遺体損壊――ありとあらゆる「目には目を」。それも奪われたひとつの目につき、両の目をえぐりだしてついでに鼻もそぐような、超攻撃的対応。

 軍隊が本気で行う恐怖戦略は、その徹底において田舎の犯罪組織など足元にもおよばない。


 シャイク・アークが「感謝しております」といい、それから、


「ですが、もしもドゥーリーが意地になったら? 自分の娘がどうなろうとかえりみず私の娘に危害を加え、あくまでこちらを攻撃してきたら……」


“その危険はあるな、残念ながら”


 こうした危険な「我慢比べ」で導かれる結果はふたつのうちのどちらかだ。

 一方が恐れ、手を引くことで決着がつくか、たがいに譲らず報復の連鎖が起きるかだ。王奴戦争の場合はたいてい後者で、あのころのミスルは地獄のありさまになっていた。


「こちらも人質にやり返すか、ということか?」


「はい。その事態になったときはどうしますか? あの幼児に同じ仕打ちを?」


 スッカルは夜空を焦がす炎にまた目を向ける。


“五歳の娘を手ごめにして殺せるかって?”


 まっぴらだ。


「やらない。あの幼児を確保したのははったり用だ。

 見込み違いであんたの娘に危害が加えられれば……おれが責任をもってドゥーリーたちを始末する。それは約束しよう」


 息をつめて返答を待っていたシャイク・アークの気配が、ややあってスッカルのとなりに並んだ。


「私はひどい親です」


「なにが」


「我が子が恐ろしい目にあっているかもしれない。それなのに、仇の幼子に同じことをする必要がないと知って、ほっとしている……」


「悪事に及ばないことで自分を恥じる必要はないんだ、シャイク」


 スッカルにとって、それは自分にいい聞かせる言葉でもあった。

 かれがドゥーリーの仕事場に直接乗り込まなかった理由はもうひとつある。敵が準備した場所で、人質を助ける機会をうかがいながら戦うとなると、手加減の余裕はさすがにない。

 あんな悪党どもでも殺したくはない。

 しかばねの山はもううんざりだ。


「私たちは北東から逃げてきました。あのような火から。戦火から」


 燃える館に視線を注いでシャイク・アークがぽつぽつ語っている。


「私たちはキプチャクです。草原の騎馬の民です」


 ふりかえりこそしなかったが、目を丸くしてスッカルは反応する。


「そりゃ驚いた。世界最強の民族だ」


 おれの血も半分はキプチャクだ、といいかけて苦い顔つきになり、言葉を呑む。かれはあまり父親のことを説明したくなかったのである。親子仲はけっしてよろしくない。

 シャイク・アークはその沈黙をべつの意味に取ったようだった。


「不思議ですか。無理からぬ話です。わが民族はたしかに……古来、武勇で鳴り響いています。そのキプチャクが、たとえ小さな集団とはいえ、なんでこんな臆病な情けない男に率いられているのだと。弓矢を持たず馬を売り払い、小さな町のごろつきにも抵抗できない惨めなありさまなのかと。そうお思いでしょうね」


「……そういう疑問を抱いたわけじゃない」


 シャイク・アークが右の手のひらをかかげるのをスッカルは視界の端に見た。

 横目を向けると、その手には親指がなかった。


「弓が引けません。かつては弓矢の腕をカンに称されたこともあったのですが」


「断ち切られた傷だな。誰にだ」


「妻です。寝ているあいだに、羊をさばく包丁で」


 スッカルのけげんな様子に、シャイク・アークは哀しそうな微笑を浮かべた。


「夫婦喧嘩が行き過ぎたわけではありません、仲のよい夫婦だったと思います。妻は私に、死ぬとわかっている戦に出てほしくなかった、自分と娘を連れて逃げてほしかったと弁明しました。

 妻の希望通りになりました。わがカンは、不具の者を戦場には連れて行かぬとおっしゃっておりましたから。

 ですが……この傷のせいで、私はカンの最後の戦いへのお供ができなくなりました。戦うすべも、仕える主も、ひきいる羊もことごとく失い、馬をも路銀のために売り払った騎馬の民に、どんな誇りが残るでしょうか? 結果、私のなかにかつて燃えていた勇気の火は、冷たい灰となりました」


「奥さんを恨んでたのか」


「なぜ恨まなかったはずがあるでしょう? たとえ愛から出た行いだとしても。

 私は妻を憎みました。心の底から憎みました。愛しているのと同じだけ。妻が死んだいま、自分の心を静かに見通せます」


 シャイク・アークの皺ぶかい頬を涙が伝っていた。

 スッカルは厳粛に祈る。


「唯一の神の御名において、奥さんの魂が最後の審判の日まで安らかに眠りますように。奥さんを殺したやつはドゥーリーに差し出させる」


 感謝をこめて目礼し、シャイク・アークが階下に消える。

 それを見送ってから、スッカルは背嚢から道具を取り出す。


 数本の投げナイフ。

 密林出身の黒人奴隷ザンジュから買ったもの。


 一張の弓。キプチャクら騎馬遊牧民の愛用の品。

 複数の素材をふんだんに使った複合弓だ。


 矢と矢筒。

 矢は三種類で、接近戦用のもの、遠距離用のもの、そして遠距離用で音を出す機構のついたもの。


 矢筒をかれは背負う。ベルトには剣が吊られているのを確認する。

 そろそろだ。

 はたして、燃える館の前の通りにドゥーリーたちが現れる。寝台ごとドゥーリーを手下数名がかつぎあげ、後ろの騾馬ラバには縛ったシャイク・アークの娘を乗せている。町衆の消防隊を押しのけたり水桶をひったくったりして、燃える館の前で右往左往している。消火したいがどう手をつければいいかわからないという様子。


 少し離れた望楼の上から、すべてがスッカルにはよく見えている。

 火がドゥーリーたちの姿をくっきりと見せている。

 スッカルは矢を弓につがえる。

 夜に敵の拠点に放火し、消そうと集まった敵を闇から狙撃する――王奴の常套戦術。


“敵の頭を殺せばすむ話ならこれで終わるんだがなあ”


 かれは離れたこの場所からでもドゥーリーを狙える。かならず射殺す自信がある。

 ただし、今夜は殺さない。

 つがえたのは音を出す矢。


「われわれははがね、われわれは犬」


 静かにくちずさむのは王奴の軍歌。

 戦闘開始の士気高揚歌。

 世界最強の「民族」はキプチャクであると世の人はいう。

 だが世界最強の「軍隊」はミスルの王奴たちだともいう。


「われわれはやいば、われわれは牙」


 放つ。

 甲高い音を鳴り渡らせて矢は夜天を裂き、ぐんぐんと上り、弧を描いて落ちはじめる。

 曲射。


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