第20話 ”心の闇”

 ざぁ、と音がするほどに振る雨を、ワイパーが攫う。

 一瞬だけ鮮明な世界がフロントガラスの先に見え、すぐさま新たな雨粒で滲んでいく。


 信号待ちの車の中だ。


 運転席に座っているのはスーツを着込んだ女性だ。若い頃の朱里の母だろう。禁煙パイプを咥え、苛立たしげにハンドルを爪で叩きながら信号が青になるのを待っていた。


 後部座席のチャイルドシートには幼い朱里が座っている。


 俯いた彼女は目元を真っ赤に腫らしていた。


 ——ごめんなさい。


 呟いたそれは、呟きというにはあまりにもか細いものだった。雨にかき消され、おそらくは母親の耳には届いていないだろう。


「……はぁ……」


 代わりに、大きな溜息が車内に響く。

 母親が禁煙パイプのフレーバーがついた息を吐いたのだ。


 負の感情が込められたそれに、朱里の肩がびくりと震える。

 恐る恐る母へと視線を向ける朱里。


 ――信号が変わる。


 朱里と母親の視線は、決して合うことはなかった。





「……トラウマは、なのか……?」


 核心は雨が降っていた。

 と言っても、誰ひとりとして濡れることはないだろう。

 ドームのようなガラスに覆われており、雨はガラスを伝って流れるだけだ。時折ワイパーのようなものが通り過ぎてガラスの雨を払っていた。ガラスの奥に見えるのは分厚い雲と、赤・黄・青のにじんだ光だけだった。


 カナタたちがいるのは映画館の座席の如く、無限に乱立するチャイルドシートの間だった。


「これ、あの記憶のシーンだよな……?」

「そうっすね。それで、ってどういう意味っすか?」

「……朱里のトラウマだよ。核心ここは朱里のこころの中心なんだよな?」

「っす」


 表層から中層に移動する時に見た監督のヒステリックな言動。それが朱里の”心の闇”の源泉だと思っていた。


「朱里のこころに残ってたのは監督の暴言じゃない。――だ」


 マネージャーとして朱里についてたのであれば、監督が朱里を攻撃した場にも母親はいたはずなのだ。


「その結果があの溜息なら……きっと朱里は失望しただろうな」


 小さい子供にとって一番の拠り所となる親。

 その親に守ってもらえず――それどころかガッカリされたことが心に傷として刻まれているのだろう。


「だから核心が車の中なんだ」

「なるほどっす……ニンゲンって複雑っすねぇ」

「……とりあず今は救世者の欠片を探すぞ」


 ヘッドレストを浮石代わりに、飛び跳ねていくカナタ。どう考えてもマーカスに敵うビジョンが見えなかった。結局はマーカスに追いつかれる前に目的を達するしかないのだ。


「救世者の欠片ってどんな形してるんだ?」

「はっはっはっ。魂に形なんてあるわけないじゃないっすかぁ。馬鹿っすか?」

「羽根毟ってカメラ・マンの前にぶん投げるぞ」

「なんでっすか!? 嫉妬!? 超絶ぷりちーなミカエルちゃんに嫉妬して——」

「静かに」


 シートの隙間に、何かが見えた。

 急いでそこに向かい、覗き込むと——


「……朱里……?」

「……あ……カナタ……くん?」


 真っ赤に泣きはらした、幼い朱里がうずくまっていた。


「なんで、俺の名前を……?」

「なんでって……カナタくんこそ、なんで?」


 眼が零れ落ちそうなほどに見開いた朱里は、子供らしい舌足らずな口調で尋ねると、首を傾げた。


「カナタさん。ここ、精神世界っすから! 朱里ちゃんの精神がまだ本当はちびっこってだけっすよ!」

「しつれいなてんしさん! あかり、もうチビッコじゃないもん!」

「およ? 見えてるっすか?」

「んー? 見えてるよ?」


 迷宮ダンジョン内だから、それともここが朱里の核心だからか。

 現実には見えないはずのミカエルがはっきりと認識できていた。


「カナタくん。ここでなにしてるの?」

「……さ、探し物、かな。朱里は?」

「……ひとりぼっちでないてたの」


 すがるような視線を向けられ、思わず詰まる。


 どうしたものか。


 本当ならば放っておきたい。が、はっきりと自分のことを理解している朱里を放っておけるほどカナタは割り切れていなかった。


「……一緒に来るか?」

「いいの? あかり、じゃまじゃない? いらないとか、じゃまといわない? はぁ、ってならない?」


 怯えるような、しかしどこか期待するような視線を向けた朱里。


「ああ。来い」

「うんっ! ありがと!」


 朱里がカナタの伸ばした手を掴んだ。頬は好調し、目元を赤くしながらも瞳を輝かせていた。


「朱里ちゃんはロちゃんでも可愛いっすねぇ」

「なんだロって」

「ロリってのはつるぺたで無知で無垢なヴァー——」

「待て馬鹿天使。本人が聞いてる前でとんでもないこと口走ろうとすんな!」


 思わず朱里を抱きかかえて耳を塞ぐカナタ。当の朱里は嬉しそうに振り回されていた。


「きゃー、セクハラっすよカナタさん! 若いつぼみを毒牙に!」

「そんなつもりはないんだが……すまん」

「あっ……」


 ミカエルの茶々を受けたカナタが慌てて身体を離すと、朱里は寂しそうな表情になる。それからすぐに頬を膨らます。


「……てんしさん、きらい」

「えええっ!? なんでっすか!? やっぱり嫉妬――」

「そのくだりはもう良いから。行くぞ」

「うん」


 カナタに促された朱里は自然とカナタの手を取る。小さな手がカナタの指を離すまいとぎゅっと握り込んだ。


「はなさないでね」

「ああ」


 ぽてぽてと歩く朱里に合わせ、ゆっくりと歩く。


「ロリちゃんの歩調に合わせてたら探索進まないっすよー」

「ロリ里ってお前な……」

「が、がんばってあるく!」

「大丈夫だ。手を離したりしない」

「……ほんと?」

「ああ」

「幼女に優しい……! 朱里ちゃんになびかなかったのはっすか!?」

「えっ……そうなの……?」

「雫のこと思い出してただけだ……朱里も真に受けないでくれ」


 カナタは兄である。今となっては口達者で敵わないところもあるが、妹の雫が小さかった頃のことを思い出し、それに倣っていただけだ。


「そっか……ろり……」

「だから違うって言ってんだろ」

「でも、わたしのあぷろーち、ぜんぜんきかなかったし」

「……そんなことはなかったぞ?」

「どんなとこにどきどきしたの?」


 幼い朱里に顔を覗き込まれるが、どうして地球は丸いの、みたいな顔でする質問ではない。


「……ポテト、とか」


 ぽつり、言った瞬間に異変が起きた。

 墓石のように乱立するシートが上から降ってきたものたちによって爆砕されたのだ。


「なっ!?」

「追ってきたっすね……急いで救世者の欠片を探すっすよ!」


 カメラ・マンとマーカスが、決着もつかぬまま核心に降り立った。

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