40-3 その手を伸ばして ヤキモチの理由

「リコ待ってろ!!!」


 アンジェの横でエリオットが叫び、彼の全身を魔法の雷が迸る。アンジェが彼の方を振り仰いだ瞬間、少年は彗星のように空中に向かって飛び出し、そのまま大講堂の尖塔めがけて階段でもあるかのように駆けていく。


「わっ、わたくしもっ!」


 アンジェもライトニングダッシュを発動させてエリオットを追いかけるが、少年の全力にはとても追いつけない。二人を見た来賓客がざわめく、エリオットは大講堂屋根まであと数十メートルほどまで接近する。


「リコぉ!」


 エリオットの叫びに、屋根の上の不安定な足場に立つリリアンがこちらを向いた。その瞬間大講堂の尖塔から渦巻いていた黒いもやが急速に肥大し、突風となってエリオットに襲い掛かる! エリオットは空中で静止し手で顔を庇うが、衣服のあちこちが裂けて血しぶきが上がる。同じ突風がアンジェをも襲い来る、アンジェは唇を噛み、はやる心臓を押さえて防御魔法を展開した。


「うぐっ……」


 ばきん、きん、と細長いガラスが折れるような音がする、防御魔法が押されて両腕が震える、維持しきれない──黒い突風が、屋根の上から発せられた白い閃光によって薙ぎ払われた。


「リオ! アンジェ様! 来ちゃダメ!!!」

「リコ……!」


 エリオットが呻きながら力を失い、地面へと落下していく。アンジェは急ぎ駆け寄り、激突寸前のところで少年の腕をつかむことができた。なんとかゆっくりと地面に着地させると、少年は呻きながら右肩を押さえた。肉がぱっくりと裂けたのだろうか、吸血鬼の扮装の白シャツが腹のあたりまで真っ赤に染まってしまっていた。


「アンダーソンさん!!!」

「……セルヴェール様……早く、行かないと……」

「ええ、でも、すごい出血でしてよ!」


 エリオットは自分に治癒魔法をかけているが、素人目のアンジェが見ても彼の力量で治せる傷ではない。アンジェが使えるのも彼と似たり寄ったりだ。どうしよう、どうすればいい? 逡巡しながら見上げた大講堂の尖塔、渦巻く黒いもやがみるみる収束したかと思うと、金の瞳に紫の髪、山羊の角を持つ男の姿となった。


「ははははは、来たか、我が愛し子よ!」

「ま……ラキオン!!!」


 哄笑する魔物を睨み上げ、アンジェはぎりと唇を噛む。


「さあ、そこで物欲しげに見ているがいい、其方の愛しい百合が摘まれて散る様を!」

「アンジェ様、来ちゃダメっ!」


 マラキオンと対峙するリリアンが叫んだ。彼女の周りをたくさんの鳥が取り囲むように飛んでいる。マラキオンはリリアンに向かって手を振りかざすと、黒い突風が彼女を襲った。リリアンは魔法障壁を発動するが衝撃を相殺しきれずによろめく。周囲の鳥の何羽かが弾き飛ばされる、残ったものがリリアンの手を、背を支えるように押し上げる。


「ごめん、ごめんね……!」


 聖女は涙声で呟いたが、目の前の魔物をぎりと睨みつけた。


「アンジェ様、こいつはアンジェ様が目的なんです! 私は大丈夫ですから!」

「リリィちゃん、でも!」

「ははは、さんざん逃げ回ったがそれもようやく終わりだな! 観念して我が許に下るのだ!」


 エリオットは呻きながら自分に治癒魔法をかけ続けている。


「アンジェ様、大丈夫です、私一度捕まったけど自力で逃げ出したんです! だから来ちゃ……きゃあっ!!!」

「リリィちゃん!!!」


 マラキオンの攻撃がリリアンではなく大講堂の屋根を狙い、瓦屋根が音を立てて崩れた。足場を失ったリリアンはその場にしゃがみ込んで屋根の縁にしがみつく。


「さあ、さあ、どうするルネ! このままこの小娘をそこに叩き落してやろうか!」

「やめて! やめてお願い!!!」

「アンジェ様、ダメッ……!」


 リリアンが叫ぶ。鳥たちが必死に鳴いており、あちらこちらから集った仲間が、リリアンを守るように取り囲む。


「私が……全部、解決、しますからっ……!」


 アンジェの角度からはリリアンの顔は見えない。たなびくストロベリーブロンドですら、鳥の羽の向こうに隠されている。リリアンは落ちかけた屋根をよじ登り、もといた足場に戻ろうとしている。マラキオンが哄笑しながらゆっくりとリリアンの方に歩いていく。トビが一羽、マラキオンめがけて真っ直ぐに突っ込んでいったが、その手で無造作に払われ、きりきりと回転しながら地表へと墜落していった。ああ、と、リリアンが呻く。


「ごめん……ごめんね、痛いよね……!」

「リリィちゃん……!」

「アンジェ様、大丈夫です……! 何にも心配しないで……!」


 屋根を上り切り、先ほどより更に切っ先に近い部分にリリアンは立つ。地表から見上げるアンジェを見ると、にこりと──悲しげに微笑んだ。


「リンコさんは、私が、助けてきますから……!」

「……えっ……」


 リンコ。言葉の意味が理解できずにアンジェは硬直する。マラキオンが放った黒い雷が再びリリアンの足場を砕く、しかし今度はリリアンが一瞬早く後ろに下がり姿勢を保つ。


「……リンコ……?」


 リンコ。りんこ。凛子。


「怒ってごめんなさいっ、ヤキモチやいてごめんなさいっ!」


 リリアンは屋根にへばりつくように身を屈め、マラキオンに向けて光の矢を放つ。いくつかは命中し、いくつかは外れ、爆発音があたりを揺るがした。アンジェとエリオットの周りに来賓客が集まってきて、頭上の惨状に悲鳴が上がる。


「アンジェ様、お優しいから……お友達のこと心配して当たり前なのにっ、私っ、バカだからっ! 殿下みたいに、大事な人の大事な人も、大事に出来ればっ、いいだけなのにっ!」


 あの子は何を言っているの? 心臓の音がすごくてよく聞き取れない。ストロベリーブロンドと一緒にきらきらと風に靡いているものは何? リリィちゃん、リリィちゃん、リリィちゃん。


「セルヴェール様の……友達、なんですよね。リンコって人」


 顔色が青白いエリオットが独り言のように呟き、アンジェはびくりと身体を震わせる。


「昨日のデートで愚痴きいた時……自分に話してくれないのは、自分よりその人の方が大切だからなんじゃないかって、言ってましたよ」


 エリオットの深い青の瞳がゆらりと揺れた。正面から受け止めるには慄いてしまうほどの暗い激情に、アンジェの心臓が針を突き立てられたように痛む。エリオットはまだ何か言いたそうだったが、顔を歪めながら右肩に当てていた手をそろそろと離す。


(リリィちゃん……)

(そんな……そんなことを、ずっと……?)

(……落ち着くのよ、アンジェリーク。感情に飲まれてはダメ……)


 少年の手は血まみれだが傷口は既にかさぶたのようになっていた。エリオットは右手をゆっくりと開閉すると、ふうう、と長く息を吐く。


「止血できたので、俺は行きます」

「待って、お待ちになって」

「邪魔しないでください」

「お待ちになって!」


 アンジェは強い口調で言い、エリオットの左手を掴んだ。


「貴方は、魔法に対する手立てを持っていないでしょう!?」

「……それでも行きますよ! 俺はあいつが最優先なんで!」


 エリオットが手を振り払ったが、アンジェは更にその手を掴む。ぎり、と爪を立てるほど力を込め、顔をしかめたエリオットを真正面から見据える。


「わたくしの言葉をお聞きなさい、エリオット・アンダーソン」

「……はい」


 エリオットがたじろぐ感触が、掴んだ手首から伝わってくる。


「貴方も、わたくしも……防御魔法は、授業で習う程度のことしか使えない。そうでしょう?」

「……はい」

「けれど、わたくし達はライトニングダッシュで早く駆けることが出来ますわ。貴方お一人ならきっと素晴らしい速度となることでしょう。よいですわね?」

「……はい」

「あの恐ろしい魔物は、本当はわたくしを狙っているの……ですから」

「……それはダメです!」


 エリオットが叫び、掴まれていた手を振り払う。


「囮とか、引き換えにとか、そういうのはダメですってば! そんなことしないでもリコを助けます!」

「いいえ、少しでも救出の確率を上げるのよ、アンダーソンさん。信じられないでしょうけど、今このアカデミーの中で、国王陛下を暗殺しようという恐ろしい謀反の計画すらはびこっているの……それらに対応なさっているフェリクス様やルナが来るのを待っていたのでは間に合わないかもしれなくてよ。わたくしと貴方だけで、必ずやり遂げるためなのだもの、自身の身柄だろうと何だって使ってやるわ」

「えっ……えっ!? 陛下が何ですって!?」

「それは一度お忘れになって、目の前のことに集中しましょう。……大丈夫、わたくしも、丸腰ではないのよ」


 アンジェは微笑みながら自分の太腿に手を伸ばした。フェリクスに下賜されたミスリル銀の短剣。ルナが忘れるなよと散々釘を刺し、ショーが終わり着替える時も彼女の顔がちらついたおかげで今ここにある、唯一の武器。スカートを少したくし上げ、腕のライトニングダッシュを強化して短剣を引き抜く。切っ先がきらきらと星屑のような光をこぼしながら、小ぶりな刀身がアンジェによって支えられ、姿を表した。


「フェリクス様にいただいた剣でしてよ。魔法の力で威力を増幅させることが出来るのですって」


 呆然としたエリオットの頭上で、ドォンと爆発音がし、爆風と黒いもやがあたりに吹き荒れる。もやは大講堂全体を覆うように広がりつつあり、この近辺だけ嵐の直前のような不気味な暗さだ。二人が尖塔の方を見上げると、リリアンは正面入り口の三角屋根の上にしがみついているような状態だった。


 エリオットはリリアンを見て、マラキオンを見て──アンジェを、アンジェがその手に持つ煌めく刃を見た。アンジェは微笑んで見せる。大丈夫と思わせるのよ、アンジェリーク。彼を不安にさせてはいけない、彼の躊躇いのない速さが生命線なのだから。エリオットはまたしてもため息をつくと、左手で自分の頬をぴしゃんと叩いた。


「……分かりました。でも、セルヴェール様も、無事でいて下さいよ?」

「もちろんですわ。……では」

「はい」


 アンジェとエリオットは同時にライトニングダッシュを発動させる。体中の神経を、魔法の雷が駆けていく感触。少し体が浮ついて興奮しているような心地になる。大丈夫よ、アンジェリーク。何だってやってやるわ。待っていて、リリィちゃん。絶対に、絶対に、彼を貴女のところへ送り届けて見せる。


「──マラキオン! わたくしが相手ですわ!」


 アンジェは力の限り叫び、魔物めがけてまっすぐに駆け出した。




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