39-13 決行 真実の怒り

 ほどなくしてフェリクスの護衛が王妃ソフィアを伴って戻って来た。


「陛下、お加減はもうよろしくて? フェリクスはどう? ……あら、アンジェちゃん、ルネティオットちゃん。ご機嫌よう、お見舞いにいらして下さったのね」


 何もかも完璧な様子で王妃は令嬢二人に微笑みかけ、アンジェとルナは返礼をする。妃の様子を横目に眺めていたヴィクトルが、頭痛でもするかのようにこめかみのあたりを押さえてため息をつく。ソフィアはそれには気が付いていないのか、椅子に座ったフェリクスが横に立つアンジェにしがみついたままである様を見て、まあ、と声を上げた。


「フェリクスったらそんなにアンジェちゃんにくっついて。また何かしょうもないことを言って、アンジェちゃんを困らせていたのではなくて?」

「いえ、母上……」


 フェリクスは力なく首を振り、更にアンジェを抱き寄せる。


「アンジェは……僕の弱い心を、支えてくれているのです」

「あらあら、まあまあ、健気なことを言うものね。小説の一場面のようでしてよ」


 ソフィアは口許に手を当ててクスクスと笑った。アンジェがその所作の美しさに見惚れているうちに、王妃はアンジェの前の席に座る国王の傍に歩み寄り、肩に手を置いてその顔をじっと覗き込んだ。


「わたくし、陛下がお休みなさっているからと、ヴィーをお誘いしてお菓子クラブに伺うところでしたのよ。はちみつのタルトが今日しかないのですって」


 ソフィアは柔らかく微笑む。

 アンジェは息を呑み、ルナは目を見開き、フェリクスも硬直してアンジェを抱く腕に力がこもる。


「そのわたくしに火急の用だなんて、一体どんなお話ですの?」

「おお……そうか」


 ヴィクトルは何事もないかのように微笑み、妻の頬に手を伸ばしてそっと撫でる。ソフィアの微笑みは完璧だ。


「お話が終わったら、またヴィーのところに戻ってよろしいのかしら?」

「……うむ」


 触れられた手の上に自分の手を重ね、夢見る少女のようにソフィアは囁く──ヴィクトルは唸るような相槌をすると、ちらりとフェリクスを、アンジェを、ルナを見た。その非難がましいとも哀れみを誘うとも取れる表情に──アンジェはルナを見て、それから自分にしがみつくフェリクスを見下ろした。


「国王陛下、フェリクス様。わたくし、イザベラ様のところに戻りまして、仔細をお伝えしたいのです。フェリクス様がご一緒してくださると嬉しいですわ」

「あっ、ああ、そ、そうだね、アンジェ」


 流れる水のように流暢なアンジェの口上に比べ、フェリクスは相槌だけなのに実に白々しい。ルナが笑いが暴発するのを噛み殺しきれずにぐふっと変な声を出したが、俯いてそれ以上を堪えた。


「ちっ父上、アンジェに付き添ってやって良いでしょうか? ヴォルフも伴いますし人目のつかないところは避けますので」

「うむ、うむ、そうしてやるがよい」


 ヴィクトルは目を輝かせながら何度も頷いた。


「あら、残念だわ、アンジェちゃん。せっかくいらしてくださったのに」

「良い、良いのだ、ソフィア。早く連れて行ってやれ、フェリクス」

「はい」

「ルネティオットも共に行け」

「御意」


 ヴィクトルはソフィアを横に避けて立ち上がり、フェリクスとアンジェの手を取って立ち上がらせてくるりと回し、背中を押してぐいぐいと入口の方に押しやる。


「ではな、アンジェリーク、ルネティオット。フェリクスはすぐに戻るのだぞ」

「はい、父上」

「ご機嫌よう、国王陛下」

「失礼つかまつります、我が主君あるじよ」


 三者三様の挨拶が終わるか終わらないかのうちに、ヴィクトル自らが扉をしっかりと閉ざした。足音が遠ざかっていく気配がして、三人は互いの顔を見合わせた。


「──ああ、息が詰まりそうだった」


 フェリクスは扉にもたれかかりながら胸に手を当て、肩を落としながらため息をついた。


「アンジェ、ありがとう。君の機転のおかげだね」

「いえ……フェリクス様は嘘が苦手でいらっしゃいますこと」

「うん、得意でないし得意になりたいとも思わないな」


 クスクスと笑ったアンジェに、フェリクスも苦笑いで応える。


「イザベラに用事があると言うのは本当なのかい?」

「ええ、きっとご心配なさっておいでですわ」

「そうか、じゃあ歩きながら話そう。おいで、アンジェ」


 フェリクスは実にさりげなくエスコートの手を差し出した。アンジェは顔をしかめてルナの方を見ると、ルナはニヤニヤしながらぶっと吹き出す。


「きゃあ、殿下がまたエスコートと仰っているわ、リリィちゃんに見つかったらやきもちを焼かれてしまうわ、どうしましょうー」

「ちょっと、ルナ!」


 アンジェの声色を真似て喋るルナにアンジェは殴りかかるそぶりをするが、ルナはその拳を軽く払いながら更に続けた。


「ああ、でも、殿下も御身が危ないのだわ……! 私が近くに侍っていれば、謀反人共も殿下に手出しがしにくくなるというもの……これは仕方ないのよ、リリィちゃん、殿下をお守りするためなの……! ねえ、そうでしょうルナ、そうだと言って……ああそうだな赤ちゃんべべ・アンジェ、全く持ってその通りだと思うぜ」

「……えっ」


 最後のところだけいつものルナの喋り方に戻り、アンジェは何も言えなくなってしまう。フェリクスを見上げると、フェリクスはアンジェの返答を待たずにその手を取ってしまった。


(……仕方ないわ)

(フェリクス様をお守りするためだと、ルナも言っていた……)


「それで、イザベラはどこにいるのかな」


 フェリクスはアンジェの思考を摘み取るように、その手をしっかりと自分の腕に添えさせて歩き出す。


「……こちらに参る前は、大講堂の控室におられましたわ。けれど少しお休みになりたいと仰っていましたの」

「では我が従妹殿がお休みなのは貴賓室かな? でも入れ違いになると良くないし、一度大講堂に寄ってみようか」

「はい」


 歩き出した二人を、フェリクスの護衛官が黙礼しながら追い越した。いつもは後ろをついてくる彼が、王子の二メートルほど前に立って先導するような形で歩く。後ろにはルナが何でもないような顔をしてついてきているが、その手はさりげなくジャケットの裾に触れている。ローゼンタールの講演会の時のように、ジャケットの中に刃物を仕込んでいるのだろう。


「……アンジェ。少し……君の話をしても良いかな」


 医務室から大講堂までは校舎の外を正門側から歩いて行った方が早い。来賓でにぎわう正門前に向かって歩きながら、フェリクスが優しい声音で尋ねてくる。


「はい、フェリクス様」


 アンジェは微笑みながらフェリクスの腕にしがみつくように力を込めた。


「君の……前世について。出来るならばどこかでお茶をしながら、何度でもゆっくりと聞かせてもらいたいものだけれど……これだけは今教えて欲しいんだ」

「……何なりとお尋ねください、フェリクス様」


 尋ねられる内容は、考えるまでもなく分かっている。


「君の前世の……僕たちは、物語の中の登場人物ということなのだろうか?」

「はい、そのようにお考えいただいてよいかと存じますわ」

「そこで……君は、僕との再婚約を求めて……よからぬ企みに加担したと言っていたね」

「……はい」


 アンジェはフェリクスを見上げる。アンジェに合わせてゆっくりと歩いている王子の、少し下から見上げた横顔。何度も見てきた顔であるのに、今は彼がその胸に何を思い描いているのかが分からない。


「前世では……僕が君を婚約破棄をした、ということなのか?」

「……はい」

「信じられないな……僕がアンジェを愛さなくなるなんてことがあり得るのだろうか?」


 フェリクスがこちらを向いて、アンジェの顔をまじまじと眺めた。その顔は本当に驚き訝しんでいる様子だったので、アンジェは小さく苦笑いする。


「……物語の主人公は、リリィちゃんですのよ。フェリクス様と生徒会活動を通じて思いを通わせて、わたくしがそれにやきもちを焼きますの」

「え……」

「わたくし、悲しみのあまり……リリィちゃんを階段から突き落としたり、酷い暴言を吐いたり、自分の誕生祝賀会に参加させまいと、底冷えする書庫に閉じ込めたりしましたわ」

「アンジェ、それは、でも君はどれも無実だろう!?」

「ええ……今ここにおりますアンジェリークは、リリィちゃんを陥れるようなことは何一つしておりませんことよ。けれど、物語の中で愚行を繰り返したわたくしは……フェリクス様に愛想をつかされてしまいますの」

「アンジェ……」

「わたくしは……リリィちゃんに意地悪をする役回りでしたの。フェリクス様との恋路を盛り上げる、悪役令嬢だったのですわ」


 フェリクスが絶句したのが気配で分かった。アンジェは小さくため息をついて、自分をエスコートしている王子の腕に頭を持たせかける。


「でも、それは、あくまでも物語の中でのことですの。わたくしはその物語を……『セレネ・フェアウェル』というその物語を見て……物語の中のフェリクス様に、恋をしたのです」

「え……」

「『セレネ・フェアウェル』の登場人物になることができて……フェリクス様の婚約者という立場で、わたくしがどれほど喜び、どれほど落胆し、どれほど未来を恐れたことでしょう。自分の手で触れることが出来たらいいのに、リリィちゃんに成り代わることが出来たらいいのにと憧れてやまなかったフェリクス様が、わたくしを見つめて愛を囁き、その腕に抱き締めて、大切な宝物のよううにエスコートしてくださる幸せを……誰かに奪われなければならないなんて」


 ルナはこの話が聞こえているだろうか。耳の良い彼女のことだから聞こえているのかもしれない。後ろを振り向いたら、ニヤニヤしているだろうか、それとも何もかも分かっているぞと言いたげに微笑んでいるだろうか。


「わたくしは、ずっと、恐れていたのです……フェリクス様」


 アンジェは俯く。もうこれ以上、フェリクスの顔を見ていられない。


「初めは、リリィちゃんにお心が移られてしまうのを。今は……眩いばかりのそのお心が翳ってしまうのを。わたくしとリリィちゃんのことを許して下さって……それでも、変わらずに愛しお守りくださるフェリクス様のお心を失うのを、わたくしは恐れていましたの」

「……アンジェ……」


 フェリクスはアンジェの名を呼んだきり、しばらく絶句していた。アンジェは当然だと思う。ただでさえこじれている自分たちの間柄に、前世だなんて信憑性に乏しいものを差し挟まれて、戸惑わないほうがおかしいというものだ。リリィちゃん、ごめんなさい、わたくしのそういうところを怒っているのでしょう? ヤキモチ焼きと教えて下さったのに、貴女の心を踏みにじるような真似をして、それで怒っていたのでしょう……?


「……アンジェ。顔を見せておくれ」

「はい」


 フェリクスの言葉にアンジェは顔を上げた。涙が零れなくてよかったと思った。フェリクスは微笑んでおらず、何か考えているような顔でアンジェをじっと見つめる。


「……まだ、分からないことも多いけれどね。ひとまず僕は、僕と君とリリアンくんが生きるこの世界が、物語そのものでなくて良かったと思ったよ」


 フェリクスの手がそっとアンジェの頬を撫でた。いつものように優しく、愛しげに、触れるだけで蕩けそうになる手つきで。


「僕は僕だ。僕が愛するのは君一人で……君をどんな風に愛するのか、僕自身で決めることが出来る。それは君もリリアンくんも同じだろう」

「……はい」

「何度でも言うよ、アンジェ。僕たちは三人で一つだ。君がリリアンくんを愛するなら、僕はその君も、君の大切なリリアンくんも、すべて含めて愛するんだ」

「……はい」

「だから君は、僕を失うことを恐れなくていいんだよ、アンジェ」

「あれ、殿下」


 アンジェの返答を遮るように、横から声が聞こえてきた。校舎側からてくてくと歩いてきたのは、吸血鬼の扮装をしたエリオット少年だ。


「こんにちは、殿下。セルヴェール嬢にパイセンもいるんスね」

「やあ、エリオットくん。今日の衣装も素晴らしいね」


 フェリクスは何事もないかのようにニコニコと少年に笑いかけた。アンジェは安堵したような、気の抜けたような気持ちが漏れ出ないように微笑んで見せ、エリオットは軽く頭を下げた。


「これからうちのクラスで最終日のフィナーレをやるんスよ! もしご用事なければいらっしゃいませんか?」


 屈託のない笑みを浮かべるエリオットを見て、アンジェはふと疑念が脳をかすめた──さきほど見た少年は、確か、制服を着ていなかったか。


「アンダーソンさん、ご機嫌よう。リリィちゃんとのデートは済みましたの?」

「へっ、リコとデート?」


 アンジェに声をかけられて、青い髪の吸血鬼はきょとんと目を丸くする。


「俺、朝からクラスにでずっぱりで、今日はアイツには会ってないっスよ?」

「ええ? だって先ほどお迎えにいらしたでしょう、予定が変わったと」

「いやいやいや、ずっとクラスにいましたって」


 困ったように笑うエリオットの笑い方は、何の含みもない、年相応の少年そのものだ。

 先ほどの──アンジェを小馬鹿にしたような、皮肉気な笑みとは似ても似つかない。


【さっすがセルヴェール様、話が分かるッスね】


「え……」


 あの声は、少年の声そのものだと思った。何一つ疑いもせず、度量の大きいところを見せたくて、少しだけ怒らせた理由が分からない後ろめたさも残っていて、彼女も喜ぶかと思って、送り出してしまった。


【……アンジェ様。私、すぐ帰りますから】


 アンジェが青ざめていくのを、エリオットが、フェリクスが見て二人は顔を見合わせる。ルナがアンジェ達に追いついて、護衛官がこちらを振り返る。


「嘘よ……嘘……」

「……まさか、セルヴェール様」


 エリオットが大股にこちらに歩いてきて、がしりとアンジェの腕をつかんだ。フェリクスが顔をしかめて少年の手を払いアンジェを抱き寄せたが、少年はそれに対して何の反応も見せずにアンジェをぎろりと睨む。


「……リコは……どこに行ったんスか」

「……貴方と、ご一緒していると、ばかり……」

「リコはどこに行ったって聞いてるんですっ!!!!」


 怒りで瞳孔が開いた青い瞳に射すくめられ、アンジェは答えることが出来なかった。




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