39-9 決行 大切な秘密

 フェリクスが扉を開けるとほぼ同時に、去り行くクラウスの背中が廊下の角を曲がって見えなくなった。


「ああ、アンジェ、僕の愛しいアンジェリーク! 君にどれほど逢いたかったことだろう! そうしたら君がここまで来てくれた、なんて素晴らしいんだ! 君の小鳥が歌うような声は扉越しに聞いてもすぐ分かるね、さあ廊下は冷えるからこちらにお入り。ああ、ルネティオットもいたんだね。君も来るといい」


 予備の制服に着替えたフェリクスが、ニコニコと笑いながら顔を出した。アンジェは躊躇いながらルナを、クラウスが去った廊下を見比べる。ルナはルナでフェリクスを見て、アンジェを見て、廊下の方を見て、やれやれと言いながら肩をすくめて見せた。


「私はどっちでも構わんぞ、赤ちゃんべべ

「……っ……」


 アンジェは唇を噛む。ルナはアンジェに付き添うのでも、クラウスを追いかけるのでも良いと言っている。気になると言えばイザベラのことも気になる。リリアンは今エリオットとどのあたりにいるのだろう。


「アンジェ? ルネティオット? 入らないのかい?」


 フェリクスがのんびりと言ったのを見て、ルナは苦笑いを浮かべてアンジェの肩をぽんと叩く。その手をアンジェの背に回すと、ぐいと引き寄せるようにして二人して医務室に入室した。


「お加減はもうよろしいか、我が主君あるじよ」

「大したことはないよ、鼻血だからね。見た目が派手なだけさ。けれど周囲の皆々には心配をかけてしまったな」


 室内はいつものように薬品の匂いが漂っている。扉を閉ざしながらルナが尋ね、フェリクスは答えながら実に堂々とアンジェに手を差し出した。アンジェは拒む気も起こらずにその手を取ると、王子はごく当たり前のようにアンジェを自分の傍に引き寄せた。


「ま、あれは仕方ない。百合スキーにはひとたまりもないだろう。ネコが殿下最愛のアンジェなら猶更だ」

「ユリスキー? 何だそれは」

「殿下みたいな百合大好き野郎ってことだよ。……おっと」


 ニヤニヤしながらあたりを見渡していたルナは、ギョッとしてその場に膝をつく。


王国の守護神ヘレニアの末裔、偉大なる我らの王、ヴィクトル・ヘリオス・フォン・アシュフォード・フェアウェル陛下。陛下の忠実なる家臣、ルネティオット・シズカ・シュタインハルトが参りました。御身に幸多からんことを」


 ルナが武人の礼法で膝をついた先、医務室のベッドの上には、国王ヴィクトルその人が気まずそうな顔で体を起こしていた。アンジェも慌て、フェリクスの手を離れて深々と最敬の礼をしてみせる。


「国王陛下、ご機嫌麗しく存じます。アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールです」

「……いたいけな少女二人にかしずかれても何が楽しいものか。二人とも、面を上げよ」

「はっ」

「はい」


 ルナは膝をついたまま顔を上げ、アンジェは屈めていた腰を伸ばした。国王ヴィクトルはごほんと咳払いをし、髭の先をちょいちょいと整えてから、いつもの威厳ある微笑みを浮かべてみせる。


「アンジェリーク、先は素晴らしいショーであった。楽しく観覧させてもらったぞ」

「まあ、なんて勿体ないお言葉でしょう、アンジェリークは光栄ですわ。イザベラ様のご采配ですのよ」

「聞いておるぞ。それにしてもリリアンと其方のなんと仲の睦まじいことよ、熱気で火傷をするかと思うたぞ」

「……ほほほ、嫌ですわ、お恥ずかしいところを皆様にご覧に入れてしまいまして」

「よいよい、良いのだ、良いのだぞ。また夕食を共にしようぞ、のう、フェリクス」

「はい、父上」

「まあ、嬉しいですわ、ありがとう存じます」


 アンジェは頭を下げながら、ヴィクトルとフェリクスの様子をちらりちらりと伺った。部屋を見回すと端の方に二人の護衛官が控えているのが見える。いつもいる養護教諭は今は席を外している、ヴィクトルによって人払いをした後ということなのだろうか。


 国王ヴィクトルはフェリクスに、アンジェの婚約を破棄しリリアンと婚約するよう要求している。フェリクスはそれを拒否し続けているが、親子の仲が不仲になったようには見えないし、アンジェに対する国王の態度も婚約していた時と変わらない。これは国王に何か思惑があってのことなのか、あるいは臣民に等しく慈愛を示しているだけなのか、相対しただけでは分からなかった。ヴィクトルはアンジェの様子に満足げに頷くと、今度はルナの方を見た。


「ルネティオットもご苦労であるな。先日のノブツナとの模擬試合は見事であった」

「光栄至極にございます、陛下。あと少しで世代交代を狙えましたのに、御身がご覧になられているとあっては我が手許も畏れに狂うというものです」

「左様であるか」


 ルナはフェリクスに対する時のように茶化すわけでなく、心からの忠誠と薫陶を示しており、アンジェは秘かに感心する。アンジェの横に立つフェリクスは二人の様子を嬉しそうに眺めて微笑んでばかりだ。二人の会話を聞き流しながら、アンジェはこの先に話すべきことを脳裏に思い浮かべる。話すべきこと、話さざるべきこと。名前を挙げるべき人物、その者が秘めている想い。考えれば考えるほど、心を寄せれば寄せるほど、複雑に絡み合ってほどけなくなっていくようだ。


(わたくしが、お二人に話すのだわ……)

(玉座を揺るがすクーデターが企てられていることを。つい先ほど、恐ろしい暗殺と誘拐が為されようとしていたことを……)


「どうしたんだい、アンジェ」


 視線を落としていたアンジェに、フェリクスが優しく話しかける。


「何か父上に申し上げたいことがあるのかい?」

「フェリクス様……」


 アンジェがフェリクスを見上げると、フェリクスは微笑みながらちらりと父王の方を見る。


(首謀者が、陛下の寵愛深い大公夫人だなんて……)

(陛下のお怒りによっては、逮捕や国外追放に処されるかもしれない)

(イザベラ様ですら、確たる証拠がなくて、攻め手に出られなかったのよ……)

(リリィちゃんが講演会と今日の会場で彼女を魔力を見た、が証拠になるのだとしても、そのリリィちゃんがここにいない……)


「大丈夫だよ、アンジェ。僕はいつだって君の一番の味方だよ。躊躇われるならまず僕に話してくれてもいいんだ」

「おお、そうだ、何でも申せ、アンジェリーク」

「……はい」


 玉言に頷き頭を下げてから、アンジェはフェリクスの緑の瞳を見た。自分を映して猶も宝石のように澄んで煌めく瞳。この瞳の輝きが翳るのを、怒りに染まるのを、アンジェも皆も恐れていた。けれど今は、この瞳が疑惑に曇るのが怖い。アンジェ、そんなことを根拠もなく信じることは出来ないよ……。けれど、今ここで伝えなかったら、この先どうなってしまうのか。アンジェ達だけで彼らを守り、恐ろしい野望を阻止することが出来るのか。


「……ねえ、ルナ」

「……どうした、アンジェ」


 名を呼ばれ、ルナが応じる。アンジェは微笑みもせず、真顔でじっと親友の顔を見る。


「……わたくし、全てお二人にお話しすることにいたしますわ」

「おう、私もさっきのことは把握しきれてないからな。是非ともそうしろ」

「先ほどのことだけではなくてよ……『セレネ・フェアウェル』と、わたくしと……祥子のことも、とにかくわたくしの知ること、全てですわ」

「……マジか」


 ルナは顔色を変え、眼鏡の奥の灰色の瞳を見開いた。


「お前……それは、俺やらメロディアやらのことも話すのか?」

「……ええ、そうなるでしょう。メロディアさんの推しの方のお話も、避けて通れませんことね」

「……それは、まあ、……そうだよな」

「考えてもみてちょうだい、そうでもしないととても信じていただけないでしょう。こちらの手札を全てご覧いただいて……それでもお二人の信頼を勝ち得ることが出来なければ、わたくしはもう、悪役令嬢にでもなってしまえばいいのだわ」


 ルナはアンジェをじっと見つめ、フェリクスを、国王を眺めやる。もう一度アンジェを見て、その青い瞳が真っ直ぐに自分を見返してくるのを見て、ニヤリと笑った。


「……分かった、好きにしろ。誰かがぴーぴー言っても私が何とかしてやる」

「ありがとう、ルナ」


 アンジェはにこりと微笑んだ。様子を窺っているヴィクトル、首を傾げているフェリクスをそれぞれ見て、つとフェリクスの方に歩み寄り、自分からその手を取って胸に押し抱いた。


「……フェリクス様」

「何だい、アンジェ」


 フェリクスは微笑み返す。柔らかく、嬉しそうに、アンジェに取られたのと反対の手を差し出して、その頬を優しく撫でる。


「何か……大切な秘密を話してくれるのかな」

「……はい」


 アンジェは頷きながら睫毛を伏せた。


「その前に……お伝えしておきたいのです。わたくしがこの秘密をフェリクス様にお話しできなかった理由を」

「理由?」

「ええ……このことをお話ししてしまったら、フェリクス様のお心がわたくしから離れてしまうのではと……そんなことを気に病んで、ずっと、秘密にしてきたのです」

「アンジェ……そうだったんだね」


 アンジェの想像通り──数多く見てきたスチルの通り、フェリクスは愛しげに微笑む。頬を撫でる指が耳に触れ、結い上げたままの髪に触れ、顎をゆっくりとなぞる。その触れる感触はゲームにはなかった、祥子は知り得なかった。ここはゲームではなくリセットは出来ず、皆それぞれ一度きりの人生を歩んでいる。大切なものを守るためには、届くうちに手を伸ばさなければ。


「申し訳ありません……わたくし自身は、リリィちゃんに恋をしてしまいましたのに……それでも、フェリクス様がわたくしを変わらず愛してくださっているという事実に、わたくしは守られているのですわ」

「そうだよ、アンジェ、そうだとも」

「今でも、フェリクス様がお嘆きになるのではないか、お怒りになるのではないかと……気に病んで、口が重くなっていますの。リリィちゃんにも申し訳なくて……けれど、それを押してでも、お伝えしなければならないのです」

「アンジェ……」


 胸元で握り締めている手を、優しく顔の輪郭をなぞる手を、アンジェは王子の胸元に押し返した。一歩、二歩後ろに下がり、何とも言えない表情で息子とその暫定婚約者を眺めていた国王ヴィクトルを見据える。


「偉大なるフェアウェル国王、ヴィクトル・ヘリオス・フォン・アシュフォード・フェアウェル陛下。ならびにご子息にしてわたくしの愛しい婚約者、フェリクス・ヘリオス・フォン・アシュフォード・フェアウェル殿下」


 アンジェの青い瞳が、決意を宿してきらりと光る。


「クーデターを……革命を目論む不届き者どもが、お二人のお命を狙っております」

「えっ」


 フェリクスが声を上げてしまい、すぐに手で自分の口を覆う。ヴィクトルは声こそ発さなかったが、目を見開いてベッドの上で身を乗り出す。部屋の端に控える護衛官が色めき立つのが見える、ルナが唇を引き結んでじっとアンジェを見ている。アンジェは深呼吸し、両手をきつく握りしめた。


「首謀者は……大公夫人ですわ」


 胸の間に入れっぱなしにしていたミミちゃんが熱いような気がする。リリィちゃんがここにいてくれたらいいのに。


「……どうかお逃げくださいまし、国王陛下、フェリクス様」


 完璧を目指して研鑽してきたはずのアンジェでも、それを告げる声は震えていた。






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