39-6 決行 贖罪を捧げるのは
「へっ、陛下っ!? どうなさったのっ!? フェリクスまで!!!」
王妃の悲鳴を皮切りに講堂内は騒然とした。ヴィクトルは顔に手を当てるがその指の隙間からだらだらと鮮烈が伝い漏れる。もはや鮮烈の濁流を隠す気もないフェリクスは制服を真っ赤に染めて椅子に座り込む。血相を変えた国王の護衛官が貴賓席に飛び込んで、玉体にばさりと大判の布を被せた。
「妃殿下、失礼、陛下が何者かに襲われました、すぐに外にお運びします!」
「ええっ!? 大変だわ!!!」
「ま……待てエリク、大事には至らぬ、待て」
「失礼陛下! 御身は必ずお守り申し上げます!」
使命感に燃える護衛官はヴィクトルが何かもごもご呟いているのは耳に入らなかったようだ。かくして国王ヴィクトルは護衛官に抱えられる、あるいは引きずられるようにして貴賓席を降り、そしてそのまま大講堂の外へと担がれていった。フェリクスの護衛官の方はもう少しばかり余裕がある、あるいはこの惨状を見慣れているのか、ソフィアに王族に触れる非礼を詫び、クラウスに略式の挨拶をして、未だ呆然としているフェリクスを担ごうと手を差し出す。その瞬間フェリクスははっと正気を取り戻したかのようなそぶりを見せて叫んだ。
「僕は行かないぞ! ここでずっとアンジェを見る!」
「そのような血まみれで何を仰いますか殿下」
護衛官はちょっと面倒くさそうだ。
「嫌だ! 僕はどこも怪我などしていない! このまま兄上とここにいる!」
「万が一ということもございますし、どちらにせよお召し物をお取替えなさいませ」
「嫌だ! アンジェ、アンジェ、リリアンくん! 素晴しいものを見せてもらったよ、なんと尊い世界だったことだろう! どうかその美しい百合をそのまま咲かせていておくれ、僕が挟まる時まで! アンジェ、僕の愛しいアンジェリーク! お願いだ……リリアンくーん!!」
フェリクスは抵抗しようとしたが、他にも数人の護衛官や近衛兵がやってきて、フェリクスを羽交い絞めにして大講堂の外へ連れ出していった。ざわめきばかりがあたりに残り大きくなっていく。お二人ともたくさん血が出ていたわ! 誰かがお二人を殺そうとしたのよ! 殿下は怪我をしていないって仰っていたわ。馬鹿ねえ、セルヴェール様を心配させまいとして仰ったのよ、気丈なお方。あれが決行いうことだったのかな? どうだろう、具体的なところまでは知らないから。じゃあ失敗したのかしら? どうだろう、何も分からないわね……。イザベラはしばらく惚けたような表情をしていたが、やがて立ち上がって王族と観客に中断を詫びた。王妃ソフィアがそれに応じ、親子に命の別状がないことを告げる。会場の張り詰めた空気が安堵に崩れ、またもどよめきとなる。イザベラは上手の楽隊に音楽の再開を指示し、観客に手拍子を促し、レーヴ・ダンジュ新作披露会が再開した。フィナーレを先に終えてしまったが、モデル一人一人がランウェイを歩き、先進的で煽情的な新作を魅せていく。アンジェ、イザベラ、リリアンは一度ステージの下手側の端まで下がり、そこに並んで手拍子をする。
「……妃殿下。僕はこれにて下がらせていただきたく存じます」
クラウス・アシュフォードは、一つ席を空けて座る王妃ソフィアに遠慮がちに声をかけた。気の抜けたような表情でショーを見ていたソフィアは、あら、と言いながらクラウスの方を向く。
「せっかくのショーですのよ、最後まで特等席でご覧になって?」
「……お心遣いありがとうございます。しかし」
「ヴィクトルもフェリクスも下がってしまいましたのよ、貴方までいなくなったらわたくしはこの列に一人きりですわ。ね、もう少しですから。わたくしを助けると思って、こちらにいらして」
他人行儀に、だが親切そうに微笑みながら、王妃ソフィアは自分の隣、先ほどまでフェリクスが座っていた席を軽く叩いて見せた。クラウスは僅かに息を呑む。ソフィアは微笑んでいるだけだ。
「……では、お言葉に甘えて」
クラウスは頭を下げ、腰を浮かして異母弟が座っていた席に移るべく立ち上がった。ソフィアの緑色の瞳が、クラウスの長身を、背に揺れるオリーブ色の髪をじっと見つめる。クラウスが戸惑いながら座席に座り直したのを見届けると、視線をランウェイへと戻した。
「……ありがとう、クラウス」
手拍子と歓声のせいで、隣同士でもその声がやっと聞こえるほどだ。
「私の可愛い子犬ちゃん」
視線をランウェイに戻そうとしていたクラウスは凍り付いた。信じられない言葉が聞こえたような気がした。中途半端な方向を向いたままの顔でソフィアの横顔を見る。ソフィアは顔を正面に向けたまま、目線だけちらりとクラウスの方に向けた。
「前を向いて、そのまま聞いて。返事はしなくていいわ。貴方と二人で話せるの、もうないかもしれないから」
鼻から唇にかけての輪郭がほとんど動かないままソフィアは囁いた。クラウスは錆びついたかのように急に動かなくなった首をなんとか正面へと向ける。膝の上の手が震えていて、強く握りしめて堪えた。たくさんの記憶が、抱えきれないほどの感情が、心の奥の方にしまっていた箱の中からとめどなく溢れて来る。彼女が自分のことをそう呼んだのは、どれほど昔のことだっただろうか。
「ソフィ……?」
懐かしい呼び名がこぼれ出てしまった。横目にソフィアを見ると、くすりと微笑むのが見える。
「ええ、貴方のソフィ姉様よ」
「……思い出したの?」
「思い出したというか……ヴィーの忘却魔法は確かにかかったのよ。でもすぐに、ヘレニア様が戻して下さったの。それこそすぐよ。私が寝たふりをしている間」
王妃は裏表のなさそうな微笑みを浮かべ、手拍子をしながら正面のランウェイの少女たちに視線を送る。少女たちは憧れの王妃の視線を受けて、恥じらいながらも誇らしげにポーズを取り、思い思いのパフォーマンスを披露する。
「じゃあ……まさか、ずっと……?」
「……ずっとよ。最初から。記憶を消されたくなかったら、記憶が消えたのと同じようにすればいいって、ヴィーが言ってたじゃない」
「……でも……全然、そんな風には……」
「ふふふ、ソフィ姉様はお芝居も上手なのよ」
おどけてみせた笑い声が記憶の通りで、クラウスは鼻の奥がツンと痛む、何も零れないように、ほんの少しだけ目頭に力を入れて堪える。目の前の少女たちの華やかなショーも中盤から後半に差し掛かったようだ。ステージ脇に控えていたイザベラ、アンジェ、リリアンが、列の最後尾について歩き始めたのが見える。ソフィアの視線が少女三人を捉え、憂いを隠すように少し目を伏せる。
「クラウス。ヴィーを……リヴィディア・フェロスを倒すんでしょう」
「……うん、ごめん」
「謝らないで……貴方はフェアウェルを守ろうとしているわ」
「……うん」
「大丈夫よ……私が好きだったヴィーは、きっとずっと前に死んでしまったんだって思うようにしたから……」
「……ソフィ」
「貴方が、ヴィーの仇をとってくれるんだと思って……その貴方が大切にしている人たちを守るためだって思えば、忘れたふりくらい、何でもなかったわ」
「……ソフィ……」
突然すぎて、そして箱の中から出てきた感情が大きすぎて、何一つ言葉にならない。惰性で手拍子をして、前を向いて、彼女をじっと見つめることもままならない。
「クラウス……」
ソフィアの声は震えている。
「貴方なんでしょう? ヴィクトルに、私はお酒が飲めるって教えてくれたのは……」
「……うん」
クラウスは頷いた。隣からの返事はしばらく帰って来なかった。そちらを向くことが出来さえしたら。ソフィ、ソフィ、ソフィ。今どんな顔をしているの。泣きそうなの、ほっとしているの、それとも落胆しているの。
「……それから」
レーヴ・ダンジュ個別アピールの順番は、アンジェ、リリアン、イザベラとなっているようだ。アンジェがランウェイに差しかかり、戻って来たモデルとすれ違う。
「ヴィーがね。時々、私の記憶が戻っていないか、確かめるためだと思うの……貴方のことを教えてくれるのよ。神官になったとか、教師になったとか、いろんなこと」
金の小鳥は言いにくいことがあるとやたら饒舌になる。饒舌なのに支離滅裂で、会話の焦点が同じところを行ったり来たりする。
「……イザベラと、仲がいいみたいだ、とか」
やっと出てきた言葉は、予想外で──いや、それしかなかったであろうという直感を孕んで、クラウスの肩に、臓腑に、心にずしりと圧し掛かった。
「……あのね、クラウス。私、私ね……前に、子供みたいなものだったから……貴方を困らせたと思うの。でも、でもね、ずっと、……ずっと、貴方が幸せならいいな、笑っていてくれたらいいなって、思っているわ……本当よ」
「……ソフィ」
あの雷鳴の夜、不安げに、頼りなげに、置いていかないでと貴女は言った。
忌まわしいあの夜は、震えながら、嫌いにならないでと懇願した。
花のように可憐な王女が自分に触れる時、いつも胸の奥で誰を思い出してしまうのか、できるだけ考えないようにしていた。
「クラウス……貴方は、変わらずに私の大切なクラウスだわ。でも、私はここにいると決めたの……陛下の隣で、陛下をお守りすると。魔女は陛下には何も手出しできていないわ。それは私が保証する。陛下をお守りするのが私の役目……貴方もそう言ってくれると、私、思ったの」
「……ソフィ」
アンジェがランウェイの先端にやってきて、王族一同を余裕の微笑みと共に見つめ、挨拶し、比類なき肢体と身に着けた下着を正々堂々と披露する。観客が、後席の王族たちが、惜しみない称賛の拍手を公爵令嬢へと捧げた。ランウェイの中ほどにはリリアンがおり、イザベラは間もなくランウェイに差し掛かるあたりだ。
「クラウス……でもね、貴方は自由なの。どこへでも行ける、何にでもなれる」
「…………」
拍手、歓声、囁き声。クラウスは何も言えない。聖女セレネス・シャイアンたるリリアンが、先ほどのにゃんにゃんポーズをして見せたのとは同一人物とは思えないほど、無邪気な笑顔を浮かべながらぺこりと礼をしてみせる。
「あの魔女は、貴方ならきっと倒せるわ……いいえ、倒してちょうだい。倒して、生きて帰ってくるのよ、私の大切なクラウス」
「……ソフィ」
(……年を取るのは嫌なものだな)
前を向き、リリアンがポーズを取るのを眺めながらクラウスは考える。躊躇うソフィが次に何を言おうとしているのかが分かる。それは今までの経験の蓄積であり、持続された関係性の集結であり、人の表情や心の機微を察せるようになった思慮でもある。聖女の肩越しに、隣の愛しい金の小鳥に瓜二つとも言える王女がこちらへと歩いてくる。眩くて美しくて触れることのできない可憐な花。彼女を遠ざけておいてよかった。彼女はソフィのことを知っているのだろうか? ……知らないはずだ。彼女の侍女はクーデターのことを話し、王女に別れを告げたことでクラウスを責めはしたが、王女の言葉や心境を一切代弁はしなかった。
「それで……貴方が帰ってきた後は……」
リリアンが満面の笑みと共にもと来た道を戻る。入れ違いにやってくるイザベラを、クラウスは、ソフィアは正面から見つめる形となった。典雅の化身とまで賞賛された王女は、クラウスを見て、ソフィアを見て、それでも慈愛を湛えた微笑みを浮かべて見せる。
「……ね、イザベラはとっても可愛らしくて素敵だわ。賢いし弁も立つし、とても聡明な子なのよ」
うさ耳イザベラが、両手で自分の顔を撫で上げるようなポーズをする。アンジェとはまた違う完璧さを孕んだ細いラインが強調される。彼女の緑の瞳がちらりと自分を見る。クラウスは微笑む、うまく出来ただろうか、何もかも完璧だろうか。ああ、もう、そんなことを気にする必要もないのに。
「だから……クラウス」
ソフィアの手が手拍子を忘れて膝の上に落ちる。
「私のことは……もう……」
「……ソフィ」
堪え切れず、クラウスは視線を動かした。目の前の眩い王女ではなく、自分を熱っぽく見つめる可愛い少女ではなく、隣で震えている王妃を見遣る。ソフィ、震えているよ、いつか雨に打たれた僕のように。雷に怯えたあの夜のように。
「……それは、無理だよ、ソフィ。僕もここにいるって決めたんだ。王女殿下は確かに僕に良くしてくださった。でも……それとこれは、全然別だよ」
「クラウス……でも」
「本当に貴女の隣に立つことは、確かに無理かもしれない。でも、どこにいても、何があっても、たとえこの命が尽きたとしても……僕の心はいつもここにいるよ」
王妃ソフィアもまたクラウスの方を向く。右頬、ランウェイに向けられた側の瞳から、ぽろりと一筋の涙が落ちる。
「……クラウス……」
切なる眼差し、しかしクラウスは何も言えず視線を正面に戻す。王女イザベラが最後のポーズを決め、じっと一同を──クラウスを見つめた。クラウスは息を止める。だが王女から目線は逸らさない。イザベラもまたクラウスをじっと見る、その瞳の奥の奥、心の奥底にしまってある箱を、掴んで引きずり出してしまうかのように。
ソフィアは誤魔化すように鼻を啜り、忘れていた手拍子を再開した。クラウスが見つめる先でイザベラは完璧に微笑み、最後の一礼を美しく決めて、それから大歓声に応えて手を振りながらもと来た道を戻っていった。その背中は凛と美しく、揺れるうさしっぽの毛先すらも彼女の意志によって統率されているかのようだ。クラウスはただ、彼女の背中を見つめるしかできなかった。ベルと呼んだ、愛しいと思えた少女の気丈なふるまいを最後まで見届けるのが、自分にできる唯一の贖罪なのだと思った。
ステージに戻り列の中央で優雅に礼をするイザベラ、その輪郭がゆらりと揺らめいたように見えた。
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