39-4 決行 期待値は如何ほどか

 フェリクス・ヘリオス・フォン・アシュフォード・フェアウェルは、最初の一撃を耐えた。


「あっ……アンジェ、君は、何てものを着ているんだい!? それがイザベラの新作だというのかい!?」


 堂々たる王太子の声は、黄色い歓声を貫いて真っ直ぐにアンジェまで届いた。貴賓席の柵にしがみつき身を乗り出し、りんごかと思うほど真っ赤になって、食い入るようにアンジェを見る。ランウェイでモデルが言葉を発するのは御法度だ。その代わりとばかりにアンジェは微笑むと、その場でゆっくりと回転してみせた。


 きゃあああ、と悲鳴のような歓声が上がる。


「これがレーヴ・ダンジュですのね……!」

「セルヴェール様、素敵……!」


 女性の下着といえばコルセットというこの世界この時代、胸と尻につけるだけのブラジャーとショーツを、初めて目の当たりにした観客も多かった。知っているのはもともとレーヴ・ダンジュの顧客たちばかりだ。上体を締め上げることなく、だが胸を美しく盛り立てる──アンジェのような完成された曲線の持ち主でも、後から登場するリリアンのようなささやかな世界であってもそれぞれの魅力が引き出される、それはどれほど軽やかで魅力的に映ることだろう。


「アンジェッ……!!!」


 王子の叫びもまた悲鳴のようだった。一周を終えたアンジェが貴賓席を見やると、戦慄くフェリクスをクラウスが着席するよう席に引き戻したところだった。王子の異母兄は落ち着いているように見える、彼はもしかするとイザベラに仔細を聞いていたのかもしれない。フェリクスの横では王妃ソフィアが瞳を輝かせ、さらにその隣の国王ヴィクトルは、驚きに目を見開いてはいるが、やはりフェリクスほど取り乱しているわけではない。


「ねえ陛下、素敵だわ! なんて煽情的なんでしょう!」

「うむ」


(少し、お顔が赤いかしら……?)


 他の王族もヴィクトルと似たような様子だ。アンジェは席に着いたフェリクスをじっと見てもう一度微笑むと、それと同時にきゃああ、うわあ、とまたしても歓声が上がる。


「リリアンさん!」

「スウィートさんだわ!」


 下手側から、猫耳デビルのリリアン・セレナ・スウィートがスポットライトに照らされて登場した瞬間だった。歓声が先ほどよりも熱を帯びる、それは主に少女たちの切なる叫びだ。


「すごい……夢を見ているよう!」

「フリルが可憐で上品ね!」

「あんなにくっきりと谷間ができるなんて……!」


 リリアンは緊張した表情で、だが誇らしげに頬を染めて歩いてくる。先ほどルナが教えたにゃんにゃん歩きではなくなってしまっているが、飾り気のない、だが迷いのない歩き方がかえって凛とした意志の美しさを感じさせた。リリアンがランウェイにさしかかり、観客の注目がアンジェからリリアンに移り行く。それを確かめ、アンジェはそっと視線を客席に落とす。アンジェのちょうど左側、ランウェイからも貴賓席からもほど近いあたりにニヤニヤしているルナがいて、ばちりと視線が合う。


 アンジェはほんの一瞬だけ微笑みを消し、素早くウィンクしてみせる。


【アンジェちゃん、もし出来そうなら、ルナにウィンクでもなんでも、何か合図を送ってちょうだい】

【ええ、けれど事前に打ち合わせていないのに伝わりますでしょうか?】


「……ん?」


【異変があったと伝わりさえすれば充分だわ。新年会の時も、あの子はちゃんとアンジェちゃんの背中を押してくれたでしょう】


 ルナは眉をひそめてアンジェを凝視した。アンジェはもう一度、今度は反対の瞳でウィンクをすると、何食わぬ顔で別の方向を向いてポーズをとる。新年会にて、イザベラはバルコニー上からわざわざ扇子を取り出した様子をみせた。それを見たルナが「絶対に何かある」と言ったのは、本当に意図があってのことだったのだ。そして彼女はイザベラの、前世の妻の意図を正確に汲み取った。


(……ルナの言葉がなければ、新年会でリリィちゃんに告白など、とても出来なかった……)


 正面からは、拍手喝采を受ける恋人が目をキラキラさせて歩いてくるのが見える。ああ、その瞳! 微笑む貴女のなんと美しい、どうしてこんなにも愛しいのだろう、フェリクスよりも先に自分が鮮烈してしまうのではないか。リリアンがお守りにと谷間にねじ込んだミミちゃんが少し熱いような気がする。アンジェはランウェイ先端から一歩端に避ける。リリアンも正面まで歩き、キッとフェリクスを睨み据えた。そしてあの、「やらしーけど可愛いオトナの余裕」の微笑みを浮かべる。


「りっ……リリアンくん!?」


 再びフェリクスの悲鳴が聞こえる。リリアンはくすりと笑いながらくるりとその場で回転してポーズを決めてみせる。横目にルナの方を見ると、やや呆れた感がなくもないが、ニヤニヤしつつ手拍子をしていた。


(今のリリィちゃんはもはや、可愛さの暴力だわ。可愛いオブ可愛い。可愛いの天才でしてよ)

(フェリクス様に耐えられまして……?)

(わたくしは無理でしたわ……)


 リリアンもポーズを終えると、アンジェとは反対側の端に避けた。本来の進行ではモデルはそれぞれ一度舞台袖にはけるが、一刻も早くフェリクスを鮮烈せしめるために、進行が変更された。


 すなわち。


「王女殿下だわ……!」

「イザベラ殿下、御自らお召しになって……!」

「なんて高貴なうさぎさんなんでしょう!」


 ショーの最後に行うはずだった、モデル全員がステージに集合するフィナーレが、開幕と同時に始められていた。


 三番手に現れたイザベラは、歓声がやがて万歳となった。王女は流石の品格で微笑んで手を振り、ランウェイを堂々と歩き出す。アンジェとリリアンは目配せをしながら三歩ほど後ろに下がる。リリアンが彼女の高ぶる感情をそのまま表したかのような歩き方だったのに対し、イザベラは洗練された、どの瞬間を切り取って人形にしたとしても名のある細工師の手による名品となるような、非の打ち所のない歩き方だった。万歳、王女殿下万歳! 喝采と共にランウェイの先端に到着したイザベラは、貴賓席をじっと見やり、フェリクスの隣に座る男を見てゆっくりと瞬きをした。


(イザベラ様……)


 イザベラはふわりと微笑んだだけだった。王女の指先が、存在しないはずのスカートの裾を摘んで実に優雅に礼をしてみせる。貴賓席からも惜しみない拍手が返される。イザベラは左右に向けても同様に礼をし、左右のアンジェとリリアンに手を向け、それからその手をステージ──イザベラの直前の指示に従い、ステージからランウェイにかけてずらりと勢揃いしたレーヴ・ダンジュのモデルたちに差し向ける。割れるような喝采、煌めく魔法の光、こっそりとリリアンが呪文を唱えて操るリボンが色とりどりの光に瞬く。拍手が鎮まるかという頃、イザベラは貴賓席の方を向いたまま散歩後ろに下がった。入れ替わりに今度はリリアンだけが前に出る。


【いいこと、リリアンさん。あの朴念仁を煩悩で吹っ飛ばすには、ギャップが大切でしてよ】

【ぼ……んの? ギャップ?】

【やらしーことばかり考えている低俗な脳みそという意味よ。どうせリリアンさんが出てきた時点で、アンジェちゃんとのあんなことやこんなことを妄想しているに決まっているわ。よいかしら、まずフィナーレで……】


 うさぎの王女から猫の悪魔に、ひそひそと囁かれたのは、甘美なる作戦だ。一同の注目を浴びたリリアンは、緊張した面持ちのままその紫の瞳をゆっくりと閉じる。眉間にしわを寄せながらその場に膝をつき、両肩を強く抱き──上目遣いに貴賓席を、狙う獲物フェリクス唯一人を、じっと見上げた。


「なぁーお……♡」


 猫耳デビルリリアンが、か細く鳴きながら小首をかしげた。


 発言が御法度のランウェイの上で、聞こえるか聞こえないか程の微かな鳴き声。見開いた紫の瞳が最も愛くるしく潤んで見えるような絶妙な角度で、リリアンは反対側にもう一度首を傾げてみせる。そのまま軽く握った拳を顔のあたりに掲げると、ふわりとその場に立ち上がった。腰から伸びる黒猫の尻尾が彼女自身の足にしゅるりと絡みついてから、空中でぴんと伸び、その先端だけぴくりと曲がる。


「なぁーお……♡」


 ルナが教えたにゃんにゃんポーズが決まると、会場からとんでもない音量の悲鳴が上がる。


「猫ちゃん! 猫ちゃんですわ!」

「可愛いっ……!」

「あのお手々、うちのベアトリスちゃんにそっくり!」

「リリアンさん、こちらを向いて!」


 当初のフィナーレは、リリアンが子猫のようにランウェイやステージを駆け回ってイタズラをし、それをウサ耳イザベラが嗜めるという構成だった。最後には二人で手を取り合いダンスも踊る予定だったらしい。だが、アンジェが参加し、フェリクスを鮮烈せしめんとしている今、子猫リリアンがしかけるイタズラといえばただ一つだった。


(……フェリクス様と、わたくし……)


 曲調がコミカルなものに代わり、先頭の三人を除いたモデルたちは可愛らしい振り付けのダンスを踊り出す。イザベラは優雅なポーズで二人の動きを見守っている。


(どちらが最後まで耐えられるか……勝負でしてよ!)


「だっ……! ばっ……!」


 戦慄くフェリクスの叫びはもはや言葉にはならないようだ。リリアンは自分の尻尾の先端を撫でながらアンジェに近付き、そのままアンジェの手を取り、すりすりと頬を寄せた。


「なぉーん……♡」

「……無理かもですわ……」


 恋人の目があまりにもきらきらしていて、アンジェは顔が引き攣らないようにするのが精一杯だった。



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