38-9 君を見ている 希望を見る瞳

 年齢が刻まれた淑女の手が、遅れてやってきた客人のためのカップを運んでいく。


「さあ、どうぞ、メリルさんと仰いましたか」

「……ありがとうございます」


 客人は頭を下げると、冷えて赤くなった手でカップを手に取った。ふわりと上がる温かな湯気が凍えた頬を撫でる。客人──二十代半ばほどの王女イザベラ付の侍女は、出されたお茶をゆっくりと味わった。


「王女殿下のお世話はよろしいの?」

「はい、控えのメイドもおりますし、殿下は御自らお支度をなさることがお出来になるのです。日頃は私の立場があるからと任せて下さっているだけなのですわ」

「まあ、ご身分にしては実直なお考えなのですね」


 深夜の茶会の主人はほほほと微笑みながら長椅子に座った。中流階級の応接室としては一般的な広さの室内は、テーブルの上の魔法ランプひとつと暖炉の炎だけでは全てを照らし切れない。アンジェの家庭教師サリヴァン女史の隣には、頭頂が見事に禿げ上がった白髪の老人がローブに埋もれるようにして座り、お茶を啜っていた。老人の対面、侍女の隣には、オリーブ色の長髪に緑の瞳、眼鏡をかけた青年──クラウス・アシュフォードが困惑を露わにしていた。侍女は何食わぬ顔でお茶を飲み干し、王女にも負けぬ優美な仕草でカップをソーサーに戻すと、わざとらしくため息をついてみせる。


「クラウス・アシュフォード様。こちらにいらして何よりですわ」

「……はい」


 クラウスは呻くように答えるしかない。


「王女殿下から、サリヴァン先生宛にお手紙を預かっておりますの。この場でお渡ししてもよろしいでしょうか」

「……それは、是非に。どうぞ僕にお構いなく」

「では、サリヴァン先生」

「ええ、いただきましょう」


 侍女は脇に置いていたハンドバッグから封蝋のされた白い封筒を取り出し、立ち上がってサリヴァン女史に手渡した。女史は受け取ると懐から小さなはさみを取り出し、中の便せんに目を通す。老婦人の目線が右に左に動いていくのを見て、侍女は安堵の表情を隠さずに自席に戻った。


「……殿下は貴方様の安否を案じてサリヴァン先生にお手紙を書かれましたわ。お手紙のお返事をいただいて、貴方様が安全だと分かるまで、私はこの場を離れるわけには参りません。よろしいですね、サリヴァン先生」


 淡々とした喋り口がかえって侍女の怒りの深さをありありと浮かび上がらせている。クラウスは忌避も露わに女史を見遣ったが、老婦人は顔を上げ、微笑みながら首を振った。


「ごめんなさいね、クラウスさん。王女殿下のお望みとあれば、それを拒むわけにはいきません」

「……はい……」


 うなだれた青年の様子を見て、彼の対面に座す老人がフォッフォッと楽しそうに笑い声を上げる。


「これ、マリア、マリアンヌ。儂の愛弟子を斯様にいじめてくれるな」

「あら叔父上、クラウスさんは私の自慢の生徒ですよ」

「弟子に取ったのは儂が先じゃ。のう、坊ちゃま」

「……はい。まさか師匠もこちらにおいでになるとは思いませんでした。ご隠遁なさっているとばかり……」

「そうであろう、そうであろう」


 老人は顎から滝のように垂れている白い髭を触りながら楽しそうに笑った。


「隠遁といっても前人未到の地というわけでなし、やはり魔法省に近い方が何かと便利での。有事の際に備えてな、拙宅とマリアの家に魔法陣をしつらえてあるのじゃよ」

「……僕の来訪が有事ということなのですか」

「違うのか?」


 弟子の皮肉に、老人──老サリヴァン師もまた口の端を引き上げた。


「こんな夜中に、血相を変えて老人二人を叩き起こして。挙句、王女殿下の侍女まで馳せ参じて。大公夫人に知れたら何というか。坊ちゃまの素行が悪いと目を吊り上げるに違いない」

「……ええ、きつい小言を言われるでしょう」


 クラウスは笑うそぶりをみせたが、その瞳の奥までおどけて見せることはできなかった。老サリヴァン師が、侍女がその様子をじっと見る。サリヴァン女史も観察するような眼差しで己の生徒を見たが、ため息をつきながら視線を便箋に戻し、元の通りに畳んで封筒に戻した。


「王女殿下の書状を拝見しました。……クラウスさん、王女殿下は貴方に格別の親愛をお示しになっています……貴方と大公夫人の事情については概ねご存知だと。貴方が道を誤らないよう、今夜は私のところに引き止めて欲しいと」

「……ベ……王女殿下が? そんなはずは……」

「アシュフォード様、王女殿下はご存知ですわ。あの方はあの日、貴方様が殿下に酷いことを仰ったあの日から、驚くべき速さで諸々をお調べになりました」

「私のところにもお見えになって、アカデミー時代のことをいろいろとお尋ねになりましたよ」

「殿下によれば、検索できなくても、りてらしい? が低いから、当時の記録をしらみつぶしに当たれば大体のことはお分かりになるそうですわ。魔法のように様々なことを拾い上げる御方です」


 侍女がどこか誇らしげに言いながら、隣のクラウスをじっと見上げた。青年は苦い顔そのままに、独り言のようにぽつりと呟く。


「……それが真実の全てとは限りませんよ」

「ええ、王女殿下は重々承知なさっております。それだけでは信じていただけないでしょうから、こちらが知り得たことを開示いたしますわ」


 侍女の語気は荒い。


「アシュフォード様と妃殿下のご親交が、今よりも随分と親密でいらしたこと……それが陛下や大公夫人の知るところとなり、貴方様は王宮への参内を禁じられたこと。大公夫人がクーデターを企て、ご学友のローゼンタール氏、エイズワース氏を引き入れたこと。……明日、王子殿下に全てをお話しするとお約束していること」

「……それで、全てですか?」


 クラウスの険しい表情を、魔法ランプの灯りが頼りなく照らし出す。侍女はその眼差しに、言葉の端に暗い影が含まれているような気がして僅かに身を固くする。


「……ええ、全てです。……そもそもあの日以前から、王女殿下は貴方様がクーデターに加担していることを恐れていらっしゃいますわ」

「……クーデターの可能性について、殿下はどういった経緯で存じ上げるところとなったのですか?」

「さあ。私は聞いておりません」

「……そうですか」


 あっさりと否定した侍女を、クラウスはじっと見る。見られた侍女は怪訝そうに眉根を寄せる。


「それが、何か?」

「……いえ。瑣末なことです」


 首を振った後もなおクラウスはしばらく考え込んでいたが、やがて諦めたように目を伏せ、自分のカップを取りお茶を飲んだ。


「アシュフォード様。お一人で、大公夫人に挑むおつもりなのでしょう。彼女を弑し、たったお一人でクーデターを未然に防がれるおつもりなのだと……」


 クラウスは侍女の顔をじっと見るばかりで答えない。暖炉の薪が、彼の答の代わりのように大きな音で爆ぜる。


「王女殿下はそれを何よりも恐れていらっしゃいます。貴方様がお一人で全て罪を被るつもりなのだと……国を揺るがすクーデターなどなく、ただ貴方様が私怨に駆られた凶行であるかのように見せかけて……王子殿下や、国王陛下や、……妃殿下にいらぬ心労をかけないおつもりなのだと」

「誤解……いえ、僕のことを買いかぶりすぎですよ」

「イザベラ様は誰よりも貴方様をご心配なさっておいでです! 貴方様の手が罪を犯して汚れる前に引き留めたいと……それが叶わないのなら、せめて一緒にその辛苦を背負いたいと、そのようにお心を痛められるお優しい方なのですわ!」


 感情が高まるままに叫んだ侍女を、クラウスがじっと見返す。


「……罪を犯した手が汚れるというのなら」


 その眼鏡の奥で、緑色の瞳が己への嘲りをありありと映して歪む。


「僕の手は……王女殿下にはとても触れられません」

「そんなことありませんわ!」

「ご存知ないだけですよ。僕がどれほど愚かで間抜けな男なのかを」


 クラウスは軋むほど強く拳を握り締める。筋が、血管が浮かび上がったそれは、堪え切れぬ感情に震えている。


「……クラウスさん」


 成り行きを見守っていたサリヴァン女史が、何食わぬ様子で口を開いた。


「メリルさんは、貴方が私たちに説明しなかった部分を、うまく補ってくれたように思いますが……」

「……はい。申し訳ありません」

「クラウスさん……貴方が倒す魔女というのは、貴方の御母堂たる大公夫人なのですね?」


 クラウスは対角に座るサリヴァン女史の顔を食い入るように見た。サリヴァンは飄々とした様子で、だが微動だにせずにクラウスを見返している。侍女は怪訝な顔で一同を見ている。老師は半ば目を閉じながら一同の話に聞き入っている。


「……はい。そうです」

「……なんということ……」


 サリヴァン女史は驚きも露わにのけぞり、背もたれにどさりと寄り掛かった。


「……合点が行きましたよ。突然、古来の魔女を見つけたから退治すると言い出して……自分に何かあった時のために、大公家の使用人の身元を引き受けて欲しいなど……」

「……すみません」

「メリルさん、この子は昔から人を頼るということをしないのです」


 サリヴァン女史は大げさな動作で自分の額を覆うと、カップを手に取ってお茶を飲む。


「なまじ優秀ですから大抵のことは出来てしまうのがまた問題です」

「……まあ……」


 侍女は口許を隠しつつ隣の青年を横目に見る。


「この子を慕う学友もいるようでしたので、あまり交友関係まで言及はしませんでしたが……伝説の魔女を倒すだとか、クーデターを目論む実母を討つだとか、それを独りで敵うと思ってしまうとは……いいえ、あるいは貴方なら可能なのかもしれませんが……」

「坊ちゃまは昔からそうであったのう」


 老サリヴァン師がほっほっと楽しそうに笑い声を上げる。


「一つ教えれば十も百もご自分で学んで修得なさる、極めて優秀で手のかからぬ弟子であった」

「生徒としてもまさしくそうでした、叔父上」


 サリヴァン女史は苦い顔のまま身体を起こし、咳払いをしてクラウスの方に向き直った。


「クラウスさん。私は貴方の教育方針を間違えたのかもしれません」

「……そんなことはありません。先生からは抱えきれないほどのことを教えていただきました」


 首を振ったクラウスに、サリヴァン女史も首を振り返した。


「いいえ、貴方はアカデミーにいるうちにもっと学ぶべきでした。己の内面の晒し方を。人に助けを求める方法を……でなければそんな、死地に赴く敗戦の兵のような顔をすることもなかったでしょう」

「…………」


 クラウスは言葉に詰まる。サリヴァン女史はハンカチを口許にあて、微かに洟を啜る。


「クラウスさん。いいですか。貴方の死を望む人は、誰もいませんよ」

「……先生……」

「私も、メリルさんも、叔父上も。王女殿下も、国王陛下も、妃殿下も。王子殿下もそうでしょう。アンジェリークさんも、リリアンさんも、……貴方が弑さんとする大公夫人でさえ、例えそれが彼女の策略の一つだとしても、死ぬことは望んでいないのです」

「……はい……」


 クラウスは頷いたきり何も言わなかった。唇を引き結び、与えられた言葉の一句一句を噛み締めるように、じっと恩師の顔を見つめる。薪の爆ぜる音がし、壁に映る各人の影が揺らめく。サリヴァン女史はずっとクラウスと視線を重ねていたが、やがて何か諦めたようにため息をついた。


「……叔父上。お願いいたします」

「ふむ」


 ずっと話に聞き入るばかりだった老サリヴァン氏が、目を輝かせて体を起こした。


「坊ちゃま。リヴィディア・フェロスを見つけて討つなど、成し遂げればフェアウェル史に遺る偉業となりますな。儂も何かお力添えできればと思ってのう」

「そんな……師匠、有難いお言葉ではありますが、これは僕個人の問題でもあるのです」

「ほっほ、ご遠慮なさるな。神官となり神聖魔法を得ただけでなく、魔女退治のための研鑽も忘れておらぬご様子。今や王国一の魔法使いと言って差し支えなかろうて」


 微笑んで見せた老師に、クラウスも苦笑いするしかない。


「しかし……それでも今のままでは、坊ちゃまに勝ち目はありませぬ。相手が本当にリヴィディア・フェロスならば、古代魔法の使い手ではなく、まさしく古代を生きた魔女……現代でも学べる古代魔法など、魔女にとっては子供のままごとのように映ることじゃろう」

「はい……それは、承知しています」

「ほっほ、さすがのお見立てですの、坊ちゃま。そこでじゃ」


 老サリヴァンはローブの中をがさごそと探っていたかと思うと、巻物を一つ取り出し、テーブルの上に慎重に置いた。


「この魔法を、坊ちゃまに授けましょうぞ」


 老師の瞳が、叡智を孕んできらりと輝く。


「これは儂が師より受け継いだ、夢渡りの魔法……儂はこの年になっても、会得することは出来なんだですじゃ」

「……夢渡り……」

「左様。リヴィディア・フェロスは人の心の奥底までも入り込み、甘い夢を見させる魔女……もし坊ちゃまがこの魔法を会得できれば、魔女が見せる夢の中に立ち入ることが出来る」

「……師匠」


 老サリヴァンは年甲斐なくニヤリと笑ってみせる。


「必ずお役に立つでしょうな。……明日の朝までに修得できればの話ではありますが」


 クラウスは目を見開いた。その緑の瞳が、暁の空のように少しずつ生気を、希望を宿していく。その様子を見たサリヴァン女史は目を細め、侍女は首を傾げる。


「さて……儂の修行は厳しいですぞ、坊ちゃま。どうされますかな、おやりになりますかな」

「……もちろんです、師匠。やらせて下さい」


 クラウスは頷き、巻物へと手を伸ばした。

 窓の外の夜が白み始めるまで、あと何時もなかった。



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