38-8 君を見ている 安否
久々の面会の承諾に、王女イザベラの若い胸は子うさぎのように飛び跳ねている。
ご一緒に昼食などいかがでしょう。いつもの貴賓室に伺わせていただければと思います。短い文章がもたらした約束はもう間もなく実現する。フェリクスの誕生祝賀会以後しばらく、用事があるだとか急いでいるだとか適当な理由をつけて断られてばかりで、二人でいる時間が少なかった。何か怒らせてしまったのだろうか? それとも本当に忙しかっただけ? どちらでもいい、今日またこうして逢えるのだから。小娘のようにいきなり不精を問い質すようなことはしない、王女だからと言ってその地位をふりかざしてばかりでは、本当の愛は得られない。うんと可愛らしく振る舞って、彼が安堵したところでちくりと棘を差す、それが昔からの──メロディアの頃からのやり方だ。
「お見えになりました」
「そう、お通ししてちょうだい」
イザベラは長椅子からぱっと立ち上がると、大して乱れてもいない制服の裾を直した。長椅子の間の応接テーブルには、サンドイッチにハムやチーズ、果物に小菓子にお茶、色とりどりの昼食が美しく並べられている。取り出した手鏡で覗き込んだ肌は艶やかで、唇は柔らかな珊瑚色、緑の瞳も聡明に輝き、プラチナブロンドのシニョンは何一つ乱れていない。己の装いに王女が満足して微笑んだ頃、失礼します、と客人が貴賓室に入室した。
「クラウス・アシュフォード、参上いたしました」
「どうぞ、こちらにおかけになって」
イザベラはにこりと微笑み、手を仰いで応接セットを示す。空中を横切る指先一本一本に至るまで美しく見えるように、その腕に天女の衣を纏っているのかと錯覚するほど、柔らかに、たおやかに。
「ありがとうございます」
招かれた青年は一礼すると、長椅子の手前側にそっと腰掛けた。イザベラはその姿に見惚れて一瞬動きを止める。くすんだ深緑色の三つ揃いの出で立ちは、細身だが上背のある彼を、そのオリーブ色の長髪をよく引き立ててくれる。相変わらずいい見立てだこと。内心呟き、足取りが軽くなるのを気取られないように、彼の横を通り過ぎて対面に座った。
「今日はお誘いありがとう存じます、とても楽しみにしていてよ」
「……はい。しばらくご一緒出来ず、失礼いたしました」
青年──クラウスはやや面食らったような表情で、しかし何事もないかのように頭を下げた。わたくしが隣に座ると思っていたのかしら、文句を言って、べったりと甘えて、貴方を掴んで離さないと思った? そうしても良かったけれど、それじゃあまり姫らしくないわ。
「さあ、お腹が空いていらっしゃらない? いただきましょう」
「……ベル。王女殿下。その前に一つ、お願いをしても良いでしょうか」
眼鏡の奥、クラウスの緑の瞳がイザベラを捕らえる。そのまなざしの真剣な光に、重い口調に、王女は気付かぬふりをしてにこりと微笑む。
「まあ、何かしら? わたくしに叶えられることでしたら、何なりと仰って」
青年はほんの僅かに顔をしかめた。膝の上で拳を固く握り、そのまま深々と頭を下げる。
「少しの間だけ……お身体に、触れても良いでしょうか」
「……え?」
「誓って、王女殿下を辱めるようなことは致しません。僕と殿下の約束を違えるようなことも致しません。僕の手が貴女をなぞる、ただそれだけです」
「ええ……?」
唐突な申し出に、さすがに戸惑わざるを得ない。男が女の身体に触れる、それがどういう意味なのか、互いに知らぬ年でもない。自分ももう十七歳だし、ましてや彼はもう二十七、女の一人や二人も抱いたことがあるだろう。それを見越して今までさんざん焦らしてきたのだ、ようやっと我慢がきかなくなったということなのだろうか? 思考が進むにつれて、待ち受ける可能性の現実味に、頬が紅潮していく。
「それなら……ここではなくて、どこか……」
「お召し物はそのままで構わないのです。どうか……」
クラウスの顔は苦渋に満ちていた。それは己の欲望を理性で抑えるというより、手に届かぬ星に手を伸ばすような哀願の表情だと思った。
「……そう。クラウスがそうしたいと仰るのならそう致しましょう。わたくしの身の心も、今すぐにでも全て貴方に預けるだけの心づもりは出来ているのだもの」
「……ありがとうございます」
クラウスはもう一度頭を下げるとその場に立ち上がった。対面のイザベラのすぐ横まで来ると、腰をかがめて手を差し出す。この手に自分の手を預ける瞬間は、何度やっても心臓が跳ね上がるのをやめられない。その場に立ち上がった王女は、上背のあるクラウスをじっと見上げ、柔らかに微笑んで見せた。
「それで……どうなさるの? わたくしはどうすればよいのかしら」
「お手は煩わせません。ただお立ちになってください」
「ええ」
「目を閉じていただけますか、ベル」
「ええ」
言われるがままに瞳を閉じる。衣擦れの音と共に、自分の両肩に男の手が乗った。そのまま唇が触れると思ったが、その手がゆっくりと首を這う。耳に触れ、頬に触れ、額をなぞり、顎を伝って鎖骨を滑っていく。
「クラウス……?」
視界を閉ざしていると、それだけ触れられる感触を敏感に感じた。厚くはないが指の長い彼の手が、自分の腕に一本ずつ触れる。右腕。左腕。背中を降りて、腰を回り、躊躇いがちに腹部と、早鐘のような胸の上も通過する。
「クラウス……」
貴方の掌は、わたくしの鼓動に触れただろうか。わたくしの呼吸を感じただろうか。大公夫人とお会いしていたことを怒っていたの? いつも思い出話ばかりで、ご自分のことをあまり話してくれないじゃない。腰。臀部。太腿、膝、ふくらはぎ、つま先。一つ一つ確かめるように、愛おしむように、貴方の手が触れていくのね。彼の呼吸はいつもと同じか、少し早いかもしれない。目を閉じる前に見た表情は、どこか緊張して思い詰めているようにも見えた──大きなため息と共に、クラウスが立ち上がる気配がした。
「ベル……良かった……」
「え?」
「終わりました。目を開けて大丈夫ですよ」
瞳を開けると、目の前に愛しい人の胸元があった。視線を上げるとクラウスが自分をじっと見つめている。それはイザベラが見たことのないクラウスの表情だった。慈しむような、悲しむような、怒っているような、いろいろな感情がないまぜになって微笑むしかできない、そんな顔。クラウスがこんな顔をするのを見るのは初めてなのに、それはとても懐かしく、胸が締め付けられるような思いがする。
【……しょうがねえなあ、メグは】
二人きりの時にだけ、彼はわたくしのことをそう呼んだ。わがままを言う度に叱られて、でも最後にはそう言って微笑んでくれた。わたくしの推しがクラウスと聞いて優男だと笑っていたくせに、次の日から同じデザインの眼鏡をかけてきた、遠い遠い愛しいあの人。
「……クラウス……」
「ベル……」
イザベラが差し出した手を、クラウスは拒まなかった。彼の肩に手をかけるとつま先で立たないと背が足りない。ぴたりと胸板に寄り添い、精一杯見上げると視線が合う。想いが通じるように感じる。クラウスの手がイザベラの両肩をそっと抱いた、ほら、彼は私を愛しているのよ。口に出して言って下さるまで、あと少し。キスを期待してイザベラはゆっくり瞳を閉じようとしたが、それよりも先にクラウスの手がぐいとイザベラを彼から引き離した。
「……ベル。もう、終わりにしましょう」
「え?」
「貴女が寄せて下さるご好意、この身に余る光栄でした。僕は貴女の傍にいてはいけないのです」
「……何を仰っているの?」
「僕が貴女の近くにいると、それだけで貴女を危険に晒してしまいます。どうか僕のことはひと時の夢か戯れとお忘れになってください」
クラウスはイザベラの目を見ずに早口にまくしたてた。その手がイザベラの肩から静かに離れていく。イザベラは咄嗟にその左腕にしがみつく。
「クラウス、急にどうなさったの!? 何を仰っているの!?」
「ベル……」
クラウスは悲しげに目を細めると、自分にしがみつくイザベラの手に触れる。
「終わりだなんて……わたくし達まだ、何も始まってすらいないわ、先日のことを怒っていらっしゃるの!? 勝手に大公夫人とお会いしたから……!」
「……貴女は何も悪くありませんよ」
クラウスの手に力が入り、イザベラの手を自分の腕から引き離す。
「なら……!」
イザベラはもう一度クラウスに縋る。
「けれどもう、僕にも、大公夫人にも近付かないでください。貴女のお立場を危うくするかもしれません」
「そんなの構わないわ、気にしやしないわ!」
クラウスはもう一度手を振りほどいた。イザベラは縋る。振りほどかれる。クラウスの腰にしがみついて、振りほどかれまいと必死に腕に力を入れる。いつもは容易く押し倒せる身体は、今日は絶望的に強く自分を拒絶する。初めは気を遣っていた様子のクラウスも、必死な様子の少女に余裕がなくなる。しがみつかれては振りほどき、振りほどかれてはしがみつき、二人の衣服は乱れ、用意された美しい昼食は手や足にぶつかって派手な音と共にひっくり返る。
「嫌よ、クラウス、嫌! 卒業まではと約束したじゃない!」
「貴女を……守る、ためです! ベル!」
「嫌よ!」
がしゃん、王女の手がサンドイッチの皿を蹴散らした。
「何よ、御託ばかり並べて誤魔化せると思わないで! そんなに大公夫人が恐ろしいというの!? ただ従妹が母親と会っていたというだけでしょう!」
苦し紛れの叫びに、クラウスの顔が明らかに凍り付く。
「……何とでも仰ってください」
その顔に──深い怒りを隠し切れぬその顔に、イザベラは取りすがるのを忘れ、全身が総毛立つ。図星なのだ。何かが彼の、触れてはいけない逆鱗に触れた。取り戻せない、腹の底から怒らせてしまった相手は、もう二度とこの手には帰って来ない。
「……お待ちなさい、意気地なし!」
全身から力が抜けてその場にへたり込む。髪も服もぐしゃぐしゃだ。イザベラの視線の先で、クラウスは自分の身なりを整える。何事もなかったかのように出入り口まで歩いていくと、もう一度じっとイザベラを見た。悲しげな、苦しげな、でも冷たくなりきれない愛しい瞳。行かないで、クラウス、行かないで。少しでもそこにわたくしを憐れむ気持ちがあるのなら。
「では、失礼いたします。王女殿下の日々がお健やかであるよう、このクラウス、陰ながらお祈りし続けております」
何もかも完璧な従者の礼をして、クラウス・アシュフォードは去った。イザベラはようやく立ち上がり、一歩、二歩、扉の方に歩くが、閉ざされた扉は開かない。差し出した手が誰かに届くことはない。行ってしまった。愛しいあの人が、扉の向こうに行ってしまった……。
「殿下。セルヴェール嬢がお見えになっております。お通ししてもよろしいでしょうか」
扉の向こうから護衛官の声が聞こえてくるが、それは王女の心までは届かない。
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