38-6 君を見ている 差し出した手


 フェリクスの誕生祝賀会は、楽しみよりも陰鬱な気持ちが勝る。


 フェリクスに初めて本を送ったのは、王子の七歳の誕生日のことだった。クラウスが初めてフェリクスの祝賀会に参加した──ソフィアが体調を崩して姿を見せなかった年でもある。弟は何が喜ぶか考えた時、奪われてぼろぼろになっていった自分のおもちゃを思い出し、せめて壊されないであろうものを、と考え、豪華な装丁の仕掛け絵本を選んだ。英雄が怪物を倒し姫を救う冒険譚は少年フェリクスの心をつかんだようで、「これが僕で、このおひめさまがアンジェです!」と、何度も読み聞かせをせがまれた。以来、プレゼントは毎年本にしている。選書はソフィアに勧められて気に入った小説や、自分で見つけて気に入ったものも入れた。特にここ数年、フェリクスは兄上とあまり遊んでいただけないとよくぼやくようになったからか、誕生日でなくても本の贈り物をことのほか喜ぶ。学業に公務見習いに稽古ごとに、本を読む暇もなかなかないだろうに、寸暇を惜しんで感想を言いに来ては、クラウスの返答にも目をキラキラさせて聞き入るのだった。


 職を得て、宿舎ではあるが住居もあり、独り暮らしていくには困らない。しかしアカデミー卒業の際、父王から使者が寄越され、王族年金を受け取るための書類に署名させられた。初め断ろうとしたところ、気難しそうな使者は気難しそうに顔をしかめ「署名しなければ母君のところにこの書類を持っていく、母君が年金を受け取ることになる」と告げる。クラウスが渋々ながら署名した書類を受け取ると、使者は「受け取れるものは受け取り、有事の際に備えるべきです」と言い、気難しそうな顔の眉尻を少しばかり下げて帰って行った。そうして使い道もないまま蓄えられていく個人資産の一部で、フェリクスへのプレゼントを購入している。でなければ王子の誕生日に送る豪華な装丁の本など、新任教師と神官の給料ではとても手が出なかった。


 先の初夏、イザベラの誕生日には山ほどの花かごを匿名で贈った。彼女との関係性には従兄妹以上の名前が付けられず、しかしてその輝くような笑顔を祝す気持ちがないわけでもなく、悩んだ結果が花だった。花なら後に残らないので良いかと思っていたが、王女は魔法使いに頼んでそのうちの小さな一輪を水晶の中に閉じ込め、ペンダントに加工して制服の内側に秘かに身に着けているようだった。秋の自分の誕生日には、フェリクスからは観劇に誘われ、御用達のレストランでの食事に連れていかれ、一緒に王宮に帰ろうと懇願されたがやっとの思いで辞退した。イザベラからは二人で過ごしている時に、万年筆という、インクをペン軸に貯めることが出来る最先端の筆記具が贈られた。存在と価格だけ知っていたクラウスは恐縮し受け取れないと言ったが、王女はクスクスと笑い、「使っているところをわたくしが見られるものがよいの」と言って譲らなかった。使ってみれば一流の品だけあり使い心地が良い、何よりインクをいちいちつけなくてよいので書き物に集中できる。気に入ってアカデミーで使っていると、それを見かけたイザベラが誇らしげにゆっくりと目を細めるのだった。


 フェリクスの十八歳の誕生日も、例年に漏れず王子自身から招待が来た。クラウスには断るだけの理由がない。フェリクスの顔を見て祝ってやりたいが、参内するのであればあの魔女と親子のそぶりをしなければならない。昨年までも隣に立ちエスコートの形を取るだけで嫌気がさしたが、今年は──魔女とクーデターという言葉が結びついてしまった今は、顔を見たら怒鳴りつけてしまいそうだった。それでもクラウスは堪えて参内する。顔を見なくなって久しい執事は、本を買い付けたり礼服を用意したり、彼の立ち位置でも出来ることをこまごまと世話を焼いてくれている。その彼を慮る限り、クラウスは己の行動を選ぶことは出来ないのだ。例年通り記憶を失ったそぶりをしなければならない。


「ああ、お母上にお目もじ叶うのね。粗相をしてしまったらどうしましょう」


 新学期が始まった頃、イザベラは貴賓室周辺を人払いしクラウスを呼び寄せた。そういう時に王女が何を求めているのかは言わずとも分かっている。長椅子に並んで座ると、イザベラはクラウスの肩にもたれかかって潤んだ瞳で自分を見上げて来た。華奢な体、優雅な微笑み、ほのかに清廉な香りがするが花の香ではない。それでも本能が、記憶が連想させるものがあり、クラウスは身を固くする。


「貴女が粗相するところなど想像できませんね」

「そうかしら……取り繕うのがうまいだけかもしれなくてよ?」

「そうなのですか?」

「そうなの」


 王女はクスクスと笑いながら手を差し伸べてきた。クラウスの胸板に着地した細い指は、そろそろと這い登って首筋のあたりを撫でる。


「プレゼントの本はもう決まっていて?」

「はい、小説ばかり見繕いました」


 冬の少女の指先はひやりと冷たい。クラウスは首筋のあたりが粟立つのを感じながら、手を伸ばして王女の求めに応じる。イザベラは頬を染めて大きな瞳を静かに閉じる。クラウスは半目になるが完全に閉じることはしない──目を閉じたら、脳裏に浮かんでしまう顔があるから。自分の頬を撫でていた手が、力が抜けてぱたりと彼女の胸元に落ちた。クラウスはそれを追いかけるように細い腰に腕を回して引き寄せる。どうしてキスは許してしまったのだろう。これでは生殺しだ、行き場のない想いを思い出させられるだけだ。イザベラはソフィアとは違う、ソフィアを思い出すなら、彼女に触れる資格などあるはずもないのに。躊躇うクラウスを引き戻すように、イザベラの腕が首筋に絡んだ。そのままぐいと力が入り、少女の体重が一気に自分の胸の上に乗る。その重みで長椅子の上に押し倒され、イザベラがクラウスの胸板に手をついて顔を覗き込んできた。メガネを外そうとする王女の手を掴み、クラウスは視線を逸らした。


「ベル……駄目ですよ」

「あら、どうして?」


 クラウスの上で、王女はクスクスと笑う。日頃は眩しいほど清らかなのに、こういう時だけまるで大人の女のような口ぶりだ。……大人の女がどういうものなのか、あの人以外には知らないけれど。


「それとも……堪えられないほど、わたくしを欲して下さっているの?」

「からかわないで下さい……」


 唇が落ちてきた。小柄な体の全てが自分の上に乗ってしまった。男の本能はこういう時に厄介だ。クラウスは腹の底に疼く奔流には気づかぬふりをして、プラチナブロンドの頭を手で包んで押し上げる。


「ベル。度が過ぎています」

「……でも、好きなの、クラウス……」

「ベル、……」


 文句の先を奪われてしまい、クラウスは諦めて瞳を閉じた。……約束は守られたがプラチナブロンドの完璧なシニョンが乱れてしまった。お菓子クラブに向かう直前、王女は文句を言いながら髪を結い直す。言っている内容とは裏腹にその顔はとても嬉しそうだったが、クラウスはただただ謝り続けたのだった。




*  *  *  *  *




 フェリクス王太子誕生祝賀会にて、王女は魔女と対面しわずかばかり緊張した様子を見せたが、日頃と変わらぬ完膚なき礼儀作法で挨拶の口上を述べた。対するオリヴィアもそれを受け、優雅な返しをしてみせる。ヴィクトルと共に現れたソフィアは自分には目もくれずにオリヴィアに抱き着く。ヴィクトルが自分をじっと見ている。魔女が自分の様子を探っている気配がある。ソフィ、こんな近くで貴女を見るのもずいぶん久しぶりだ。けれど気を抜くな、ここには魔女がいるんだ……。


 魔女とソフィアの奔放な様子に戸惑わせたことを詫びる形で、フェリクスがアンジェリーク達をデザートとお茶の場に誘い、自分も同席することとなった。用意された円卓で、奇しくも自分はフェリクスとイザベラの間に座ることになる。イザベラはよそ行きの微笑みを浮かべて「アシュフォード先生、失礼いたします」などと言っている。王女のエスコート役であるシュタインハルト家の息女が、探るような眼で自分のことをじっと見ている。彼女はよくイザベラと一緒にいる、どういった縁で知り合ったのかは知らないが、気心の置けない親友なのだと聞いていた。彼女から見て、自分とイザベラは従兄妹どうしに見えているだろうか。それとも何かを怪しまれているのだろうか。それにしても先ほどからイザベラは男からの引き合いが多い、フェリクスへの祝辞もそこそこに、イザベラに声をかける奴らばかりじゃないか。そう思っていた頃、不意に全身がざわりと粟立った。懐かしい、しかしおぞましいこの感触。頭上からの強烈な重量に、身体の身動きが取れなくなる。


「……お前は……マラキオン!!!」


 アンジェリークが叫んだ。クラウスはぎりと歯軋りする、王宮の中で何故、結界は機能していないのか! 


「……マラキ、オン……!」


 クラウスは呻いた。テーブルに伏す形から両腕にありったけの力を込めるが、ほんの数センチほど隙間が出来ただけだ。魔法も発動させようとするが、強烈な眠気に思考が散らばって正しく魔法を組み立てることが出来ない。


「マラキオン……! なぜ……!」

「そちに用はない、ルネを迎えに来たのだ」


 マラキオンは醒めた口調で呟くと、クラウスに向かってゆるやかに手を振った。その瞬間、クラウスの頭が強烈にテーブルに打ち付けられ鈍い音がする。呻くクラウス、かけていた眼鏡が歪むが、震える手を隣の異母弟へと伸ばす。守らなくては。何に代えても、フェリクスを、フェリクスが愛しているこの少女を、セレネス・シャイアンを! ヘレニア様が仰ったのだ、僕は盾になれと……なんて不甲斐ない、肝心な時に僕はいつも何もできない!


「セルヴェール……逃げなさい……」

「あ、アシュフォ」

「逃げなさい……魔物は貴女の同意がない限り、共に連れて空間を飛ぶことはできない、捕らえられても助けが来るまで意志を強く保つんです……! スウィートを起こして! 殿下……フェリクス!」


 震えているクラウスの手がフェリクスの腕に触れた。服を手繰り寄せるようにしてその腕をつかみ揺さぶるが、フェリクスの身体は力なく揺れるだけだ。


「起きなさい、起きろ……フェリクス!」

「無駄だ、みな夢を見ている頃合いだろう」


 マラキオンが笑いながらフェリクスとクラウスが座っている椅子を力任せに蹴り飛ばした。クラウスは咄嗟にフェリクスを引き寄せてその頭蓋を庇う。その代わりに自分の受け身が遅れ、側頭部をしたたかに打ち付けた。アンジェリークの悲鳴が聞こえる、なぜ誰も助けない、みな眠らされているのか……。


「先生! フェリクス様!」

「僕たちはいい、逃げなさいセルヴェール!」

「ゴミムシがうるさいぞ」


 マラキオンがフェリクスを庇うクラウスの背中を蹴りつけた。クラウスは唸る。マラキオンが聞いたこともないような甘い声でアンジェリークに語らう。なんてことだ、あの宝石のような少女、フェリクスの宝物である彼女も、魔物の依り代にされただけでは飽き足らず、僕と同じように魅入られてしまっているというのか!


「……こ、来ないで……」

「逃げろ、セルヴェール……!」


 叫び声は掠れたようにしかならなかった。魔物と令嬢のやり取りはくぐもっていてよく聞こえない。なにか魔法が迸る気配がして、不意に体が軽くなった。すぐ横のフェリクスが動き出す気配がする。


「あれ、兄上……僕はピクニックをしていて……」

「フェリクス! セルヴェールが攫われてしまう、剣を出しなさい!」

「えっ、何ですか、兄上、何が……」

「ディヴァ・ブレイズを出しなさい、セレネス・パラディオン!」


 クラウスの叫びにフェリクスが息を呑む。立ち上がって呪文を唱え、フェアウェル王国の至高の宝を召喚し、真っ青な顔で魔物が去ったほうへと走り出した。自分も行かなければ。こんな時のために魔法を学んで来たのだ! 立ち上がると酷い眩暈がし、縋るようにテーブルに手をついた。


「メガネ先生!」


 すぐ横で声がする、のろのろとそちらを見ると、焦った表情のシュタインハルトが礼服のジャケットを脱ぎ抜刀したところだった。その横で、椅子に座ったイザベラが、ポロポロと涙を流しながら震えている。シュタインハルトはじっと自分の方を見ていたが、視線が合うと、年齢と性別に似合わぬ厳しい表情を浮かべた。


「私は殿下に加勢する、姫御前を頼む!」


 少女が剣を構えて駆けていくのを、クラウスはただ茫然と見守るしかできない。自分も行くべきではないのか、長らく研鑽してきた自分なら、あの恐ろしい魔物にも対抗できるのではないか。けれどぽろぽろと声もなく涙を流す王女を一人残していくことなど出来るだろうか?


「……クラウス……」


 イザベラは涙に濡れた瞳で自分を見上げる。


「……僕がいますから。怖い夢を見たんですね、大丈夫ですよ」

「……ええ……」


 差し出した手に縋って涙を堪える少女が、確かに愛しいと感じた。その背をさすって、腕に抱いてやらずにはいられないほどいたたまれない気持ちだった。



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