第38話 君を見ている③

38-1 君を見ている まばゆい星

 フェリクスは晴れて首席でフェアウェルローズ・アカデミーに入学した。王子は十四歳となりさすがに分別もつくようになっていたが、それでもことあるごと事あるごとに顔を覗かせては、兄上兄上ととりとめもないことを嬉しそうに話す。恩師ばかりの同僚によれば、王子が授業に参加するところまでは何とか頑張るが、彼を叱るとなるととても無理だ、君がいて助かった、とのことだった。実際フェリクスが問題を起こすようなことはほぼなかったのだが、ごく稀にそんな事態に遭遇する。それは学友と共に下校時刻を過ぎても校内で話し込んでいたり、立ち入り禁止の尖塔の最上階まで登ったりと、酒を飲み煙草も喫したクラウスから見れば可愛らしいものだ。


「殿下、よろしいですか。殿下はいずれこの国を背負って立たれる御方なのですよ」

「はい……」


 その日の罪状は学友とサッカーをしていて、魔法で強化した強烈なシュートが校舎の窓ガラスを割ってしまったことだ。学友と共に並んで叱られる時のフェリクスは、幼子の頃と全く同じ顔だ。


「学友と親しくなりお気持ちが弾むのはよく分かります。しかし、王位継承者としての矜持を忘れてはいけませんよ」

「はい、兄上、肝に銘じます……」


 フェリクスがこの世の終わりのような顔でしょぼくれているので、クラウスは毎回笑いを堪えるのに難儀したのだった。


 翌年になると王女イザベラも首席で入学してきた。あの祝賀会の日にフェリクスの後ろで震えていた少女、くらいの記憶しかなかったが、フェリクスに伴われて現れたのは、小柄ながらも自信に満ちた微笑みをたたえる一人の淑女だった。


「ご機嫌よう、アシュフォード先生。お久しぶりにお目にかかりますわ」

「ご無沙汰しております、王女殿下。この度はご入学おめでとうございます」


 いつかのように跪いて頭を垂れる。母憎しといえど、仕込まれた所作が完璧なことだけは感謝せざるを得なかった。下知で顔を上げると、王女は満足げに微笑み、そのミルクのように白い肌を薔薇色に染めていた。……確かにソフィアに似ている、記憶の中の一番古いソフィアは十四歳だった。彼女もアカデミーに通う時はこんな様子だったのだろうか。邸宅で見たような無邪気な様子ではなく、行儀のいい笑みを浮かべて、しとやかに振る舞っていたのだろうか。


「イザベラ、兄上はフェアウェルローズでは学年首席でいらしたのだよ。君も困ったことがあったら、きっと兄上が助けて下さるよ」

「まあ、困ったことになるのはフェリクスくんでしょう? この前はご学友との魔法勝負で花壇を台無しにしたと聞きましてよ」

「いやあ、まあ、そうなのだけれど」


 先輩風を吹かせていたはずのフェリクスが、従妹の玲瓏な物言いにタジタジとする。


「陛下がいらっしゃらないからと羽目を外しすぎると、来年入学するセルヴェール嬢が幻滅なさいますことよ?」

「えっそれは困る!」

「なら、少しは貴人らしい気品ある振る舞いをなさるよう努めてみてはいかが?」

「う、うん、分かったよ……」


 フェリクスは婚約者のセルヴェール公爵令嬢にめっぽう弱い。勉強も武術も、全て彼女に相応しい紳士たらんとするための研鑽なのだそうだ。慌てた年上のフェリクスと、年下だが澄まし顔のイザベラが並んでいるの見て、クラウスは思わず笑みをこぼした。フェリクスが、イザベラが漏れ聞こえた声にこちらを向く。イザベラは微かに息を呑み、緑の瞳を大きく見開く。


「失礼、お二人は、大変仲がよろしくいらっしゃるのですね」

「はい、兄上、イザベラとは兄妹のように育ちました」

「素晴らしいことですね。僕は同世代の親戚がいませんから、フェリクスが生まれるまでは寂しいものでしたよ」

「そんな、兄上!」


 感極まったフェリクスが、瞳を潤ませながら自分の手を取ってぶんぶんと振る。


「僕がおりますし、これからはイザベラもいます! 今からでも僕たちの親交を温めましょう!!!」

「ええ、そうね、そう致しましょう」

「勿体ないお言葉です、両殿下」


 クラウスは手を振り回されるまま頭を下げる。フェリクスが自分を見上げる眼差しは何の屈託もない。クラウスの前では、弟はその輝く眼差しを一度も曇らせたことはない。だから尚更、水晶細工のように硬く澄んだ佇まいの王女がじっと自分を見ているのが、意識の隅で気にかかった。


「殿下、平に……お平らに……少し落ち着きなさい、フェリクス」

「はい!」


 フェリクスは名を呼ばれてようやっとクラウスの手を振るのをやめる。芸を覚えたての子犬のようだ、と咄嗟に思ってしまい、クラウスは再度笑いを噛み殺した。視線を感じてそちらを向くと、王女イザベラが扇子で口許を隠しながら兄弟のやり取りをじっと見ていた。初対面の時のように恥じらって目を逸らすかと思った王女は、扇子に口許を隠したまま、実に典雅に目を細めて見せる。


「本当に、お二人こそ仲がよろしくていらっしゃるのね」


 佇まい。立ち方。少し傾げた首の角度。完璧に結われたプラチナブロンドのシニョン。滑らかな、絹の糸束のような声。それらは彼女と同学年のはずの十四歳の少女とは何もかも違っていた。教師という職業上その年齢の少年少女を飽きるほど見た経験からすると、彼ら彼女らはフェリクスのように幼さを残してはしゃぎ回る印象が強い。だがこの目の前の少女は、もう何年も前に社交デビューしたかのような余裕と風格を備えているように見える。猫を被ったソフィアも優雅と言えば優雅だが、日頃の彼女を知っていると取り澄ましているだけで面白味がない。一方目の前の王女は、扇子で口許を隠すことを、あらゆる角度から見られても己の立ち姿が洗練されていることを全く煩わしがることなく当たり前のものとして体現している。その上で自分とフェリクスのやりとりを見て、楽しそうに目を細めていて──外見こそソフィアに似ていると思わなくもないが、だからこそ、全く別の人格を持つ別の人間なのだと、些細な仕草から強烈に思い知らされた。


「ええ……王子殿下のご厚情は身に余る光栄です」


 クラウスも当たり障りなく微笑んで見せ、小さく会釈をした。扇子の向こうで、形の良い唇が笑みの形になったのだろうと想像した。


 王女の行動はクラウスの想像を大いに凌駕した。いつでもクラウスのところに行きたいし実際やって来るフェリクスとは対照的に、王女は規則にのっとって面会の手続きをし、面談室を予約し、クラウスの科目の教科書とノートを持ってきた。対面に座ると授業より数段進んだ内容の質問を投げかけてくる。クラウスの解説にしみじみと頷き、更なる質問をし、要点をまとめてノートに書きつける。疑問が解決すれば少しばかり雑談をして、お勧めの書籍の名前をメモすると、優雅に一礼して立ち去る。 


「今日はお時間をいただきありがとう存じます、クラウス先生。ご機嫌よう」


 イザベラはよくクラウスのことをそう呼んだ。その時だけは扇子で顔を隠さずに、年相応と思えるはにかんだような笑顔を見せる。ソフィアなら「ありがとう、クラウス!」と屈託なく笑うだろうか。花がほころぶように、金の小鳥がさえずるように、コロコロと笑い声を上げるだろうか。自動的に脳裏に浮かんでしまう考えを押し込めながら、クラウスも微笑んで立ち去る王女の背中に頭を下げた。


「先生、先日はオーリム朝の装束の資料を選書していただきありがとう存じます。おかげで理解が深まりましたわ」


 イザベラは図書館にも礼拝堂にも顔を出した。図書館ではジャンルを問わずいろいろな本を探しており、読み終えた本についてクラウスと語り合うのを楽しみにしているようだった。礼拝堂では女神二柱への信仰について、造詣の深い考察や問答をしてみせる。話す場所は貴賓室、面談室、作業室、礼拝堂の懺悔室など、二人でいることを外部に知られない、あるいは二人でいても不自然でない場所を予約したり、予約が出来ない場合は予めクラウスに確保を頼んでくる。おかげで今のところは王女との沙汰を噂されるような事態にはなっていない。


「ねえ、先生、先生はいつも重臣のように恭しく接してくださるけれど、結局のところわたくしたちは従兄妹の間柄ということになりますでしょう? フェリクスくんが兄弟なら、わたくしも従兄妹らしく気の置けない呼び方をしていただきたいわ」


 イザベラは目鼻立ちこそソフィアによく似ている。だがソフィアのように髪を結ばず背に流しているところなど見たことがなかった。スカートの裾をからげて走ったり、小説の感想を夢中になって話したり、カードゲームをしながら瞳をキラキラと輝かせるようなこともなかった。その代わり、大きな瞳を好奇心に煌めかせながらたくさんの話をせがんでくる。その理由を問うと、王女は珍しく年相応に見える可愛らしい笑い方をした。


「……お気づきではありませんこと? わたくし……」


 緑の瞳が潤んで頬がばら色に染まる。ソフィアと同じ造詣の顔が、愛し気に自分を見上げてくる。彼女がソフィアにそっくりだと思い込んでしまう日もある。だが一方で、ソフィアとは似ても似つかない、と思う日もある。告げられた言葉は予感していたものと同じで、クラウスの胸の奥がじくりと痛む。


「……お戯れを、王女殿下」


 クラウスは微笑みながら、視線をイザベラから逸らした。ソフィアを愛しく思う気持ちは変わらない。けれどそれはもう、心の遠くに置きっぱなしにしている箱の中にしまわれてしまった。ソフィアに似ているからその顔に見入ってしまうのではない。二人でいる時にだけイザベラと呼ばれることを何より喜ぶ少女が、自分に向ける笑顔。それは直視するにはあまりにも眩しい。こんなにも純粋であどけない想いは、どんな星よりも太陽よりも燦々と輝き渡っている……。


「いいわ、戯れと思っていただいても」


 母を弑殺せんと決心したその時から、ずっと勉強と調査と修練に明け暮れていた。魔法を覚え、魔物について調べ、それらを実践し自分の血肉とする。結界はほぼ失敗することがなくなったので、マラキオンに低俗な紛い物を見せつけられることはなくなった。国王夫妻の小さな絵姿と、時折儀式で見かける遠い姿以外に、ソフィアを見つめる手段はない。その彼女によく似ているはずの王女は、似ているからこそ別人なのだと痛感させられ、別人だからこそ、こんな自分が、未だにソフィアへの想いを燻らせている自分が、やすやすと触れて良いものではないような気がする。


「想いが伝わるまで、何度でも言わせていただくもの」


 イザベラもクラウスに負けず劣らず、完璧な微笑みを返して見せた。







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