37-14 君を見ている 託された祈り

 失意のクラウスがじっと見つめる先で、オリヴィアは典医や侍女、執事、メイド、フットマン、小間使いに至るまで、執念深く忘却魔法をかけて回った。自分が育成したソフィア付侍女ですら入念に魔法をかけるのを見て、クラウスは呻く。作業を終えたオリヴィアは、クラウスが記憶を失ったそぶりをするための設定──クラウスはこの場におらず未だ邸宅におり、オリヴィアはこれから馬車で王宮に到着するところであり、ソフィアは意識昏倒し流産してしまい、更にはショックのあまり自分が妊娠していた事実を忘れてしまっているという設定を、事細かに話して聞かせた。


「あの子のお前に関する記憶は、ほぼなくなったと思いなさい。全てなくなるとかえって不自然になるわ」

「……僕を殺せないのなら、いっそフェアウェル中の皆の記憶から僕のことを消してしまえばいいんだ」

「……それが出来るものなら、とうにやっているわ」


 毒づいた自分を嘲笑するかと思った魔女は、苦々しく言い捨てる。


「ヘリオスの名を持つ者は、古代魔法への耐性が桁違いなのよ。成功しても、忌々しいあの女が顕現した時に見破られてしまう……」

「……あの女?」


 オリヴィアはふんと鼻を鳴らしたが、クラウスの問いには答えなかった。顕現と言うからにはヘレニア神のことなのだろう。他にも尋ねたいことは数え切れないほどあったが、魔女がやすやすと答えるはずもない。クラウスは侍女の部屋にある魔法陣に入り、一人邸宅へと戻された。ひとけのない母の自室に戻り、廊下に出ると、忠実な執事が心配そうな顔で駆け寄ってきた。


「坊ちゃま。長くご滞在でしたが、お身体が冷えたりなどしていませんか」


 彼は自分の命が天秤に乗せられたことを知らない。クラウスが彼とその同僚の命を捨てられなかったことも。彼らは今まで、母の命令という名目で自分を見張り、一方で彼らなりに自分を気遣い、守ってくれていた。アカデミーでの自由だが一人きりの生活で、そのことをまざまざと思い知らされた。


「大丈夫だよ、ラウル。本をお借りして読んでいたんだ」

「……左様でございましたか」


 母の部屋の暖炉はあかあかと燃えたままだった、身体はさほど冷えないはずだ。それでも身体を慮る言葉を選んだ彼の精一杯の心配が、今は暖かく痛かった。僕はずっとこの邸宅で暮らしてきた。ここは少し前まで僕の世界の全てだった。彼らを失ってフェアウェル王国を守ったところで、僕は心から安らげることはないだろう……。自室に戻ると強烈な疲労と倦怠感が一気に襲ってきて、感傷に浸る間もなく眠りに落ちた。


 アカデミーに戻ってからは、なんの変わりもない日々だった。クラウスはフェリクス宛にアカデミーに遊びに来ないかと誘い、あどけない弟は目を輝かせてやって来た。フェリクスが級友相手に兄上は素晴らしいのですとべらべら喋るのには照れたが、すぐに打ち解けて楽しげに競技場を駆け回り──残雪のぬかるみに足を取られて転んで、泥だらけになって大泣きした。フェリクスの護衛官に許可を取って着替えを預かり、ノーブルローズ寮の風呂に兄弟で入る。


「りょうの湯どのは、シャワーがたくさんあるのですね!」

「うん」


 上機嫌なフェリクスを頭からつま先まで泡だらけにして丹念に洗ってやる。指先に魔力を込めて身体を撫でるが、自分の指先が疼くだけで、歳の割に筋肉質な弟の体に、何かの魔力の痕跡は一切見当たらなかった。


(フェリクス……良かった)


 オリヴィアのいう、ヘリオスの名を継ぐ者に古代魔法がかかりにくいというのは本当だったらしい。あと気がかりなのは父だが、父はフェリクスと同じ手段は使えそうにもない。オリヴィアを恋人と慕うソフィアについて、魔女は隷属魔法を刻むまで苦労したと思える言い方をしていた。ならばもう、まさしくヘリオスである父は無事なのだと信じるしかない。


「兄上、僕も兄上をあらいますね!」

「……うん」


 はしゃぐフェリクスの金髪に残る泡を流してやりながら、クラウスは目尻に滲むものを誤魔化そうとうつむいた。


 オリヴィアは、クラウスは今後参内を自粛することをヴィクトルに上奏するようしつこく要求してきた。可能な限りソフィアとの接触を避け、王族であるがゆえに効き目が緩やかかもしれない忘却魔法が解けてしまうのを避けるため、とのことだ。従わないのなら……と言葉が続くのでは、クラウスに選択肢はない。フェアウェルローズ・アカデミーの制服を着て参内すると、父王の自室のすぐ横の私的な謁見室に母共々通された。


「この度は、妃殿下に心よりお見舞い申し上げます」

「うむ……」


 磨き上げられた大理石のテーブルの対面で、ヴィクトルは曖昧な顔で頷きながら自分の髭を触る。忘却魔法が効かないが、あの日に外遊に出ていた彼は、記憶を消された臣下とオリヴィアからの報告でしかことの顛末を知らない。


「御子の記憶を失われるほどの御心労……男の身では想像するしかありませんが、さぞかしその身を引き裂かれるような思いでいらしたことでしょう」

「うむ……」


 クラウスの口上に、ヴィクトルはまたしても曖昧な返事をしながらちらりと視線を動かした。その先、クラウスの隣で、オリヴィアは神妙な顔で取り澄まして座っている。


「……お忘れになられているお辛い記憶を揺り起こしてしまうことほど、残酷なことはないでしょう。そのきっかけになるかもしれない事象は、可能な限り妃殿下から遠ざけるべきです」

「……うむ」

「陛下」


 新調した眼鏡ごしに、クラウスは真っ直ぐに自分の父親を見つめる。正直なところ、父はまだ何人にもその思考を冒されていないのか、あるいは既にオリヴィアの手中に落ちているのか、全く持って分からない。出来ることならどちらなのかを知りたい。


「僕と母上は、可能な限り、妃殿下に直に相見えることのないようさせていただきたく思います」

「……なんと申した?」


 父王は目を見開いて身を乗り出した。自分は、今まさに彼を騙そうとしているのだ。生じた罪悪感が胸の底を焦がす。父の強い眼差しを正面から見つめ返すには胆力がいる。


「妃殿下に、相見えることを、今後ご辞退させていただきたいのです」

「なんと……」


 父は動揺している。傍のオリヴィアに視線を送り、己の妾妃が泰然と微笑んでいるだけなのを見て言葉に詰まる。


「クラウス……しかし……」

「妃殿下の御心のためです」


 クラウスは胸に手を当てて深々と頭を下げた──制服のチーフポケットにわざと見えるようにして入れた、将棋の王の駒が生地越しに指先に触れる。


(父上は……僕が、父上を見限ったとお考えになるかもしれない)

(リンコがいなくなったのなら、もはや父上に与する理由はないと僕が考えたと……)


 あの時、王の駒と女王の駒、どちらか一つを選ばされた。その結果として下賜された王の駒に、なんの含みもないとは思わない。それをこうして大切に身につけている。僕はまだ、あの時の選択肢の延長上にいる……今日この日を想定し、何を話すのかを定められた中で、なんとか己の意志を、立場を、欠片でも父王に伝えることは出来ないか。考えに考え。クラウスの手許にある数少ない持ち札の中でも一番可能性があると踏んだのが、この王の駒だった。


「どうかお許しください、父上」


 父はまじまじと若い息子を眺め、怪訝そうに顔をしかめていたが、やがて一つ大きなため息をついた。


「相わかった、それが其方の望みならそのように計らおう」

「寛大なお言葉に感謝いたします」

「ところで、クラウス、少し待っておれ」


 ヴィクトルはそう言うと席を立ち、奥側の扉を開いて自室へと姿を消した。足音と、何か小さなものを動かしているカチャカチャという音だけが聞こえてくる。やがて再び扉から現れた父は、手に将棋の駒を二つ持っていた──あの時に選ぶことが出来なかった女王と、騎士の駒だ。


「そなた、先日余が下賜したものを忘れて行ったろう」

「え……」

「次に来た時に渡そうと思っていたのだ」


 父は無造作にクラウスの許まで歩いてくると、駒二つを差し出した。クラウスは慌てて立ち上がる。オリヴィアが怪訝な表情で二人を見比べている。父の緑の瞳は、フェリクスのように澄んでいて、だが底が知れぬほど深い色をしている。それはあの時に見た女神のまなざしに近しいようにも思える。戸惑うクラウスの手をヴィクトルは自ら取ると、その手に二つの駒を握らせ、両掌でがっしとかたく握りしめた。


「次は忘れるでないぞ、クラウス、我が息子よ」


 たくわえた髭の中で、父は微かに笑っていた。それははるか昔、儀仗鎧を持ってきてくれた時の彼と同じ眼差しだった。握られた手の温かさに、分厚さに、凍らせようとしていたものがじわりと溶けていく。通じた。父上に、通じたんだ。王だけでなく、女王と騎士を……父上はソフィアとフェリクスも僕に預けてくれた。父上、父上、父上。僕は必ず、貴方と貴方のフェアウェル王国を守る盾となってみせます。ヘレニア様がフェリクスを守れと仰ったのです、父上……。


「大変失礼いたしました……よくよく気を付けます、陛下」

「うむ」


 父の手がゆっくりと自分から離れた。ソフィア。僕の愛しい人。もう、僕は貴女の近くに立つことは叶わなくなってしまった。


「そうだ……父上、僕も一つお伝えしたいことがあります」

「ん、何だ?」


 聞き返されて今度はクラウスが言葉に詰まる。傍らのオリヴィアをちらりと見て唇を噛み、渡された二つの駒をぎゅっと握りしめる。


「あの日いただいた樽酒はとても美味でした……妃殿下もお好みの味と香りであるように思われます。お気を紛らわせるためにも、妃殿下にお勧めしてみてはいかがでしょうか」

「ソフィアに?」


 ヴィクトルは思わず目を見開いて素っ頓狂な声を出した。クラウスはその父をじっと見上げる。冷静に、平静を保って、何でもないことであるかのように。唇よ震えるな、涙よ零れるな、それが一番、ソフィアを守るために一番いい方法のはずなんだ。


「……はい。妃殿下はどんな時も、陛下とのひと時を楽しみにしていらっしゃいます」


 視界の隅でオリヴィアが首を傾げるのが見えた。ヴィクトルも同じように不思議そうな顔をしている。あの夜の、雨に濡れた子犬のようなソフィアの顔を思い出す。いい子でいなくちゃいけないの、と呟いた、僕では埋め切れない、けれど僕にしか分からない悲しみの底に沈む彼女の声を思い出す。


 ソフィ。ソフィア。

 どんなに離れても、貴女が僕を忘れてしまっても、僕はずっと貴女を想い続ける。

 貴女を見て、フェリクスを見て、その幸せを願い続けるよ。

 だから、必ず、強くなって……貴女を脅かす元凶を断って見せる。


「どうか、お願い申し上げます……父上」


 クラウス・アシュフォードは、深々と父王に頭を下げる。

 それが、彼が正式な手続きで王城に参内した、最後の日となった。




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