37-13 君を見ている 罪を焼く業火⑤
クラウスは倒れ伏すソフィアの背中にそっと手を当てた。寝間着は焼け焦げて消失している。露わになった背中は、信じられないことに美しく滑らかに治癒しており、傷などどこにも見当たらない。手のひらに魔力を込めてみるが、自分の指先がちりちりと疼いただけで、そこは何も光らなかった。
(……ヘレニア様が、消して下さったんだ)
(良かった……)
「クラウス……クラウス!!!」
母オリヴィアがよろよろと立ち上がる。髪は全て蛇化しているがだらりと垂れており、死んだと表現してよいのであれば死んでしまった蛇もいるようだった。
「よくも……お前、よくも! よくもマラキオン様を!!!」
激昂する母がこちらに歩いてきて、右手を大きく振りかぶる。クラウスは反射的に顔をしかめたが、左手を上げて顔を庇うと、母の平手打ちは青年の腕力にあっさりと阻まれた。オリヴィアは眉を吊り上げて今度は左手を上げる。クラウスの右手がそれを受けると、ばちん、と魔力が弾ける衝撃が走った。それは見覚えのある──忘却魔法だった。
「そこをどきなさい、クラウス!」
オリヴィアは弾かれた左手をさすりながら怒鳴る。
「どきません」
「どきなさい、ソフィアが目を覚ましてしまうわ!」
「どきません、母上」
こめかみのあたりが脈動し、頭痛がするのを、クラウスは奥歯を食い縛って耐える。
「妃殿下に何をする気なのですか」
「もう一度魔法をかけるのよ! 記憶も消して、元の通りにしなければ、わたくしは」
「僕すら退けられない母上が、何をするというのですか!」
クラウスが声を荒げると、オリヴィアは言葉に詰まる。
「母上……貴女が何を目論んでいたか知る由もありませんが、それももう終わりです。僕は国王陛下に今日の顛末を上奏します」
怒りに震える母など、未だかつてクラウスは見たことがなかった。母は常に「何もかも完璧」で、艶然と微笑んでいるか、静かに自分を見つめるか、そのどちらか二つしかないのだと思っていた。
「……陛下に何と言うつもりなの? わたくしが魔女だと? お前とわたくし、陛下はどちらの言葉に耳を傾けられるかしら?」
「……妃殿下が、僕の言葉は真実だと証言してくださるでしょう」
「お前とソフィアが? ほほほ、お前たちにそれだけの信頼があるのかしら? 二人して子供の父親を誤魔化す算段をつけてきたと思われるのではなくて?」
オリヴィアが嘲笑したが、クラウスは動じずに首を振る。
「父上なら、分かってくださる」
「……ほざけ!」
オリヴィアは両手で素早く虚空を凪いだ。忘却魔法が再び襲い来るが、クラウスは魔力を込めた腕で頭を庇い、魔法は効力を失って霧散する。
「もうやめましょう、母上。今の母上では僕を服従させられません」
「……何ですって?」
「魔法も、そのように弱ってしまっているのです」
クラウスは一歩、オリヴィアに向かって足を踏み出す。
「これ以上無駄な抵抗はなさらないでください」
「……生意気な口をきくようになったこと」
オリヴィアが自分の肩を抱きながら、じり、と後退する。
「……母上。覚悟を決めて下さい」
「……何の覚悟だというの?」
「僕が、貴女を捕らえる覚悟です」
母は一歩ずつ迫りくる息子の自分をじっと見上げた。同じオリーブ色の髪、王家の血筋を証する緑色の瞳、青年らしく頑健な身体。視線を感じて胸の中に残る罪悪感が僅かに疼く。ああ、疲れた、ソフィ。早く終わりにしたい。クラウスはゆっくりと、あれほど恐れていた母に手を伸ばす──己の肩を抱いていた母の手がヒュッと翻り、銀色のものが煌めいた。
「……ひとつ教えておきましょう、クラウス」
オリヴィアは──誘惑の魔女と呼ばれた女は、口の端を上げてニイと笑う。
「どれほど魔法に秀でていても……魔法以外の手立てを用意していない魔法使いは、二流以下ですよ」
咄嗟に出した左の上腕を切り裂き、右肩に突き立てられた銀色の針から、ぽたり、と赤い滴が落ちる。
「……ぐ……」
上腕からだらだらと血が垂れる、傷の大きさ以上に焼けるような強烈な刺激が腕に、肩に襲い来る。それはびりびりと全身を駆け巡り、痛みが触れたところから身体の自由が効かなくなっていく。オリヴィアがクラウスの胸のあたりを拳で押すと、クラウスの身体はあっけなくその場に倒れ伏した。
「黒蛇の毒はよく効くこと……」
「……う……あ……」
僕に何をした、何かの毒なのか。話したくても舌が痺れてもつれるだけだ。オリヴィアは服のポケットから黒い液体の入った小瓶を取り出すと、ふたを開けて一気に飲み干す。疲れた顔に生気が戻り、くたりとしていた髪の蛇たちが力を取り戻して中空でうねる。オリヴィアは倒れ伏したクラウスを見下ろすと、ふ、と笑いを漏らした。
「ああ……力が全身に行き渡るわ。お前はそこで見ていらっしゃい」
「や……」
やめろ、と叫ぶことも叶わなかった。オリヴィアは悠々とベッドに近付き、横たわるソフィアに手を伸ばす。丸く灼けた寝間着から覗く背中に手を伸ばし──その手がばちんと弾かれた。
「ヘレニアめ……守護の魔法をかけていったのだわ……!」
オリヴィアは吐き捨てると、倒れ伏すソフィアの腕をぐいと引っ張った。仰向けに転がされて猶も眠り続けるソフィアの顔に手をかざし、何かをぶつぶつと呟く。緑色に光る魔力がオリヴィアの手から滲み出て、ソフィアの頭を包み込んでいく。
「ふふ、忘却魔法はかかるようね……大丈夫、まだ全て失敗したわけじゃないわ。小娘一人、隷属魔法などなくともわたくしの虜にするなど容易いこと……そうね、クラウス、お前に関する記憶を消してしまいましょう、それが一番いいわ」
魔法をかけながら、魔女は独り言のように呟く。
「クラウス、お前はもう滅多なことでは妃殿下に近付いてはなりませんよ、記憶が蘇っては厄介だもの」
「うう……!」
クラウスは呻くしかできない、もはや全身は痛みに支配されてぴくりとも動かすことが出来ず、視界も朦朧としている。魔法はソフィアを包み込み、正常に発動していくのは分かってしまう。ソフィ、ソフィ、ソフィ……全部忘れてしまうの? ヒミツキチも、ポーカーも、たくさん読んだ本も、あの夜のことも、全部。ソフィ……何もできなかった。父上のことを悪しざまに言えないや。ソフィ、僕は結局、何もできなかった……。
魔法が終わり、母が立ち上がる気配がした。もう視界は明暗しか分からない。音もどこか遠くから聞こえるようになってきた。僕はこのまま死ぬんだ。ソフィ、貴女を守りたかった、ごめん、ソフィ。首筋にひやりとした感触があり、そこに向けて痛みと痺れが収束していく。体が軽くなる、切られた左の上腕だけまだヒリヒリと痛む、視界が色を取り戻していく。顔を上げると、オリヴィアが自分の頭に手をかざそうとしているところだった。クラウスはそれを弾いてその場から飛び退く。動いた衝撃でずきりと頭が痛む、呼吸は苦しいが、首を絞められていた時ほどではない。
「……何故助けた! 僕が邪魔なら殺せばいいだろう!」
「まあ、そのまま死んだ方が良かったというの?」
オリヴィアが笑いながらゆらりと立ち上がる。
「お前はまだ死んではいけません、来たる日が来るまではね。さあ、お前にも忘却魔法をかけますよ」
「嫌だ!」
言いながらクラウスは自分の首筋に手を当てた。そこにはまだ生々しい裂傷が残っている、首筋の隷属魔法文様は壊れたままなようだ。クラウスが何を確認したのかを理解したオリヴィアは、美しい顔をいびつに歪める。
「忘却魔法をかけなければ、お前は陛下に何か言うでしょう? みすみすそうさせるわけにいかないわ」
「それが嫌なら殺せばいい、僕が自分で死んでやる! 僕も父上もフェアウェル王国も、貴女の思うようにはならない!」
「わたくしにはわたくしの都合があるの。……そうだわ」
怒鳴るクラウスを見て、オリヴィアはクスクスと笑う。
「……クラウス。優秀な魔法使いなら、記憶が消えたかどうかを確かめるための質問を用意しておくものです。けれど、もしもわざと記憶が消えたふりをしてその質問に答えたのだとしたら、記憶の有無はもう、当人にしか分からないと思わないこと?」
「……何の話だ?」
母が何を企んでいるのか分からない。自分を、金の小鳥を、何に利用しようとしているのか分からない。
「記憶を消したくないというなら構いません。ただし、記憶が消えたのと同じように振る舞いなさい。陛下に何も言わず、ソフィアとは殆ど会ったこともなく、今日ここになど来るはずもない……そのように振る舞うというのなら、忘却魔法をかけないでいてもいいでしょう」
「……そんな話を呑めるわけがない! 僕は父上にすべてを話す!」
「そう……ならば、余計なことを言わなくなるまで、わたくしの屋敷の者たち全員を殺して回らなければならなくなりますよ」
「……な、にを」
目を見開いたクラウスに見せつけるように、オリヴィアはゆっくりと指を一本立てる。
「ラウル」
その名前にぎくりとした実の息子をじっと見ながら、二本目の指が立てられる。
「ルドルフ。ブリギッテ。モニカ。ギュンター」
次々と呼ばれていく、見知った名前。邸宅にいて、いつも自分を見張っていて、でもとても悲しそうな目で見てくる大人たち。
「コンラート。ギセラ。ベルント。レナーテ。ゲルトルート」
母はいつも彼らをファーストネームでなど呼ばなかった。せがんで教えてもらってそう呼ぶと、仲良くなれたような気がしていた。一人一人の名前、一人一人の顔、一人一人の声、思い出、彼らの家族、人生。オリヴィアが指を立てるごとに、それらも一つ一つ数えられていく。もっと早く、躊躇わずに母を捕らえていれば! こんなのハッタリだ、僕はこのまま宰相殿の部屋まで走って事の顛末を話せばいいだけだ、そうすれば父上が外遊から戻った時に耳に入るだろう。母は捕まり、彼らがいたずらに殺されることもない。ここと邸宅がどれだけ離れていると思っているんだ、そうそうすぐに殺せるものか。
「決めなさい、クラウス」
オリヴィアの声に、自分がどうやってここまで来たのかを思い出す。
圧倒されるような力でもって実現した、超長距離の移動魔法のことを。
「……僕は……」
言わなければならないと、理性が叫ぶ。
引き換えに差し出さなければならないものを、感情が、心臓の鼓動と共に数えていく。
「……僕はっ……」
ソフィ、ソフィア……貴女は本当に魔法にかかって、全部忘れてしまったのだろうか。僕が駄目でもソフィが覚えていてくれて、父上に話してくれたりしないだろうか。……そんなこと、奇跡でも起こらない限りあるはずがない。魔法はちゃんとかかってしまったんだ……貴女は父上のもので、僕はもう、貴女を助けることは出来ないんだ。ソフィ、母上が数えているあの人たちは、あの僕の閉じた世界の中で確かに僕を見てくれた人たちなんだ。僕が黙りさえすればそれで終わる、誰も死なない……真実を明るみに出すことと引き換えに、僕は何を差し出さなければならないのだろう? 拳を握り締め、うなだれるしか出来ない自分は、なんと弱いのだろう。
「…………分かり、ました」
僕が、もっと強かったなら。
魔物に臆さないくらい、強い魔法が使えたら。
血縁を捕らえることに怖気づかないくらい、強い正義を抱いていたら。
「……そう」
強くなければ、救えるものは限られる。選べるものは間引かれる。弱いことは無力だ、守りたい人がいるのに力がないことはもはや罪だ。これは結論ではない、先延ばしだ。僕はこの記憶を誰にも渡さない、渡さないまま強くなって、母上、もう一度貴女と対峙する。
「いい子ね、クラウス」
いつか僕のこの手で、母上、貴女を殺す。
「……はい」
自分の奥底に眠る黒い炎が、罪深いこの身を焼き尽くせばいい。
うなだれるしか出来ないクラウスを見て、オリヴィアは満足げに、「何もかも完璧」だと言わんばかりに微笑んだ。
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