37-12 君を見ている 罪を焼く業火④
マラキオンの金色の瞳に、彼を決然と睨むソフィアが映る。
「……貴方、変な人……マラキオンと言った?」
ソフィアの声は凛としている。だが握り合った手はかすかに震えていて、クラウスはその手をきつく握り締める。
「リンコを連れて行くって……何が理由で目的なの? どうしてこの子でないといけないの?」
「フェアウェル王妃にしてヘレニアの末裔よ。ヘレニアは強欲なのだ……いつも自分の手許にばかり気に入りのものを置いて、余や他の神を近づけぬ」
「全然分からないわ……貴方はヴィーの何?」
「おやおや」
魔物と魔女は顔を見合わせ、肩を振るわせて小馬鹿にしたように笑う。
「リヴィディアよ、其方は余の何だ?」
「わたくしはマラキオン様の哀れなる
「婢女であったか、謙虚なことよ」
「妃と名乗ってもよろしいので?」
「ならぬ。余の妃はセレニアとヘレニアだ」
「ほら、斯様に仰いますわ」
魔なるもの二人はクスクスと笑った。娶せたばかりの夫婦のようなやりとりに、ソフィアは思いきり顔をしかめる。
「ヴィーは……ヴィクトルと私の、……恋人でしょう?」
クラウスはソフィアを抱き寄せながら、気づかれぬよう静かに結界魔法を紡いでいく。
「ええ、そうね、ソフィ。貴女もヴィクトルも、わたくしの可愛い恋人……けれど、マラキオン様には及ばないわ」
治癒魔法で治り切らなかった痛みが集中を欠くが、唇を噛んで耐える。魔法の組み立ては遅々として進まないが、少しずつ、少しずつ、守護の壁が形を成していく。
「……私のこと、騙してたの?」
「騙すだなんて、悲しいことを言うのね、ソフィ」
ほほほ、と魔女は高らかに笑う。
「わたくしはいつでも貴女の味方だったでしょう?」
「……ヴィー……」
打ち震えるソフィアの背中で、魔法文様が光った、クラウスはそっと結界を発動させる……出来た、まだ気付かれていない! クラウスはソフィアの腰に左手を回して抱きしめた。驚くのが感触から伝わってくる、ソフィアの背と自分の腹の間に、右手を差し入れる。
「ソフィごめん、痛いよ」
「えっ」
クラウスは爪を立て、寝間着の柔らかな生地ごとソフィアの背中を抉った。肉が抉れ絹が裂ける嫌な感触、ソフィアが呻いてクラウスの手にしがみつく、マラキオンが、オリヴィアが顔色を変える。
「クラウス、何を!」
「い……たい……」
ソフィアの背がまた光るがそれはもはやじわりと滲む鮮血で途切れている、マラキオンが虚空を薙ぐと衝撃波となってクラウス達を襲う、力が拮抗して結界が実体化する。
「本当に……余計なことを……!」
「それしきの結界で余を阻むか!」
見る間に走る亀裂、漏れ出る重圧にクラウスは呻きながらソフィアを抱き寄せる、痛みに悲鳴すらあげられぬソフィアがクラウスをじっと見上げる──その緑の瞳が、クラウスの目の前で鮮やかな金色に染まっていく。
「よくやった」
ソフィアは淡々とした口調で言うと、細い腕を虚空に掲げた。指先から嵐のような風が生まれ、マラキオンの衝撃派を跡形もなく霧散させる。ソフィアはそれを見届けると、ベッドの上にゆらりと立ち上がった、いや、浮いた。ゆるく束ねていた金髪が解け、一本一本が眩いばかりの輝きを放ちながら宙空に広がっていく。
「ヘリオスの子、我が愛しいフェアウェルの子。大儀である」
ソフィアの声のはずなのに、殷々と、遥か彼方から響くような深い声。
「──ヘレニア!!!」
マラキオンが狂わんばかりに叫び、両手を広げてソフィアに飛びかかる。クラウスが立ち上がるのをソフィアの手が制し、その手を自分の顔の前まで持ち上げると、マラキオンの動きがびたりと静止した。
「ああ、ヘレニア、我が妻よ! 逢いたかった、其方を想い幾星霜の孤独を耐えたことであろう!」
「誰がお前の妻じゃ、気狂いめ」
先のクラウスのように硬直したままマラキオンは喚く。輝く髪のソフィアは心底嫌そうな顔をすると、下腹に手を当て、ベッドの上で呆然としているクラウスに視線を向けた。身体はソフィアであるのに、遠く離れたところからそっとこちらを覗き込むような──神の如き目線に、クラウスの背筋がぞくりと粟だつ。
「……ヘレニア、様?」
「如何にも」
ソフィアは──ソフィアに宿る
「末裔とは言えど、ヘリオスでなければ顕現し切らぬか」
「ヘェェレェェニィィアァァアアア!!!」
苦い口調の女神の背中がまた光る、しかしそれを女神の灼熱に光る指先が撫でて焼き消していく。肉の焼ける匂いにクラウスは吐き気を堪える、手をかざしていたオリヴィアの両手が見えない何かに弾かれる、マラキオンの手がへれニアに届く──ばしん、と灼熱の手が魔物の手を容赦なく叩いた。叩かれたマラキオンの右手が消し飛ぶ。マラキオンは呻いて手を引っ込めるが、何か呪文を唱えると、断面から肉が盛り上がり、手の形に再生していく。
「クラウス、いろいろ語りたいところだが時間がない。凛子は
「させぬぞヘレニア! 凛子ともども余の許に来い!」
マラキオンが咆哮し、彼の紫色の髪が急激に伸びてヘレニアに襲い来る。ヘレニアは髪の一つ一つを手で弾くが顔は苦しげに歪められている。クラウスが加勢しようと手を掲げると、その手に何かが巻き付いてベッドから引きずり出された。落下の痛みに呻くクラウスの頬を、加減のない平手が叩きつけられる。腕に巻きついていた蛇が、首を、体を締め付けていく。
「クラウス、よくも……よくも!」
母が──誘惑の魔女と呼ばれた魔女が、目を吊り上げて唇を戦慄かせる。
「あの文様を刻むまで、わたくしがどれほど苦労したか!」
「それは貴女の都合だ! ソフィは奴隷じゃない、何故そんなことをするんだ!」
叫び返したクラウスの首がいっそう強く絞められ、呼吸が完全に断たれる。早くなる心臓にクラウスはまた藻搔く、オリヴィアの足がクラウスの肩のあたりを踏みつける──直前に、魔女はその場を飛び退いた。白金の光線が一瞬前までオリヴィアの足があったあたりを貫き、絨毯を黒く焦がしていく。
「クラウス。敵対する相手に理由を聞いたとて、正直に答えるはずがなかろう」
クラウスが顔を上げると、マラキオンとの激しい攻防の合間に、ヘレニアがこちらを見てきた。険しく歪められた顔にびっしょりと汗をかいているが、その手の放つ灼熱の光は直視すれば目が潰れてしまいそうだ。光線は二発、三発と続き、オリヴィアは舌打ちしながらクラウスを蛇から解放する。
「人間の都合は知らぬが……この魔物は、吾とセレニアを欲しているのだ」
「ああ、そうだともヘレニア、我が美しき百合の片割れよ!」
マラキオンはあちこちの皮膚や毛が焼けて煙が上がっている。
「吾らの力を己がものとせんために、セレニアを捕らえ、セレネ・フェアウェルをも攻め落とした……あの美しき大地は、今や魔窟と化してしまった。吾ひとりでは、フェアウェルとセレネ・フェアウェルの両方を維持することは敵わんだ」
ヘレニアの髪から、少しずつその眩い輝きが失われていく。
「クラウス……吾が愛しきフェアウェルの子よ。いかな優れた魂を持てど、神魔混血の其方にはヘリオスの名を与えられなんだ……気に病んでくれるな。其方は弟を守り助ける盾となれ」
「え……」
攻防のさなか横目にこちらを見た女神の微笑みが、今にも泣き出しそうなように見える。
「凛子は……其方の姫は、身体はもう助からぬ……それは悪辣どもの干渉以前に、もともと姫に架された運命なのだ、諦めよ。だがその魂を吾が引き受け、此奴らの手の届かぬところに転生させてやろう」
「ははは、クラウスよ、余ならば凛子の身体も助けてやろうぞ! ヘレニアを捕らえ余に預けよ! さらばその器は其方にくれてやろう!」
「クラウス! 魔物の言葉を聞くな!」
マラキオンの攻撃がより激しくなり、ヘレニアはじりと後退する。
「さあ、吾に預けると言うのだクラウス!」
「ならぬ、凛子は余のものだ!」
ソフィアの顔をした女神が、恐ろしい蛇の瞳の魔物が、それぞれクラウスを見る。クラウスは深呼吸し、拳を握り締め、それでも震えは止まらない。
「ヘレニア様……お願いします!」
「よう言った!」
ヘレニアは微笑むと、大きな光の弾をマラキオンめがけて投げつけた。マラキオンの身体が弾き飛ばされて壁に当たる。駆け寄るクラウスの手を取り、ソフィアの下腹のあたりをそっと触らせてやる。そこは熱く、小さな脈動の気配が確かに感じられる──腹の奥から真っ白な光が差す。それは光の珠となって外ににじり出てきて、クラウスの手の中にすっぽりと納まる。透明な膜につつまれた中にいる、十センチほどあるかないかの小さな生き物。初めは赤ん坊に見えたそれは、光の中で瞬く間に成長し、オリーブ色の髪の五歳ほどの少女になった。
「あ……」
少女は眠そうに目をこすりながら、クラウスの掌の上で身体を起こす。自分を覗き込むクラウスを緑の瞳で見上げると、嬉しそうににこりと笑い、指先に頬ずりする。
「……うあっ……」
「凛子!」
マラキオンが全身を燻らせながら身を起こして叫ぶ、ヘレニアが放った第二撃がもう一度彼を叩きのめす。オリヴィアがマラキオンに駆け寄る、マラキオンは忌々し気にその手を払い、こちら──クラウスの手の中の生命へと手を伸ばした。
「さあ、父との別れだ」
マラキオンを、ヘレニアが三度弾く。
「行くぞ、凛子」
女神の言葉に、手のひらの少女はじっと自分の母親の顔を見上げた。次いでクラウスに視線を戻し、もう一度頬ずりする。ぽろぽろと涙を流しながらその場に浮かび上がると、ヘレニアが差し出した手のひらの上にゆっくりと降り立った。
「凛子! 行くな、余の許に来い!」
マラキオンの絶叫はこの部屋のすべてを揺るがすようだ。
「さあ、其方も帰れ、マラキオン」
ヘレニアは小さな少女を胸元に抱き寄せると、右手をゆっくりと掲げた。マラキオンが猶も起き上がりヘレニアへと手を伸ばす、女神の右手が、真夏の太陽のようにぎらぎらと光り出す──あたり一面が灼熱に染まり、刺し貫くような眩さに、とても目を開けていられない。クラウスは目を手で覆う、肌を熱波がちりちりと焼いていく。
「くそっ……凛子……必ずや余の許に……!」
マラキオンの絶叫が聞こえる、あたりの熱がゆっくりと冷めていく──
「ではな、クラウス。息災であれ」
「……ヘレニア様?」
耳元で聞こえた声にクラウスがおそるおそる目を開くと、あたりはもとの薄暗い寝室に戻っていた。部屋の隅の方でオリヴィアが横たわり苦しげな呻き声をあげていた。あとは自分がいるだけで、マラキオンはどこにも見当たらない。布団がぐしゃぐしゃになったベッドの上に、ソフィアが倒れ伏している。
「ソフィ……?」
眠っているのか気を失っているのか、呼びかけても返事は帰って来なかった。髪は元に戻り見慣れた金髪だが、瞳を閉じているので、虹彩の色を確かめることは出来ない。だが入室したころより顔色が良くなっているのが、寝ているままでもはっきりと分かった。
掌にはまだ、小さな小さな頬の感触が残っている。
「……リンコ……」
見下ろした自分の掌に落ちた涙を、クラウスは力の限り握り締めた。
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