37-10 君を見ている 罪を焼く業火②
見えない力で押さえつけられた頭の後ろで、ソフィアが身じろぎする音がする。
「だっ、誰っ!?」
「よいか、リヴィディア。こうやるのだ」
マラキオンがオリヴィアを見下ろしながら、横目にクラウスの方を見る。目線が合ったと思った瞬間、クラウスを押さえつける重量が霧散した。
「ソ……ッ!」
叫ぼうとすると喉が焼けるのは変わらないままだ。クラウスは飛び起きるとソフィアをその背に庇う、魔法を発動させるための呪文を、痛みを堪えながら紡いでいく。その瞬間、身体の右側面を猛烈な、巨大な手のひらではたかれたかのような衝撃が襲い、クラウスの身体はベッドボードに叩きつけられた。眼鏡が砕けてぱらぱらと散る。打ち付けた衝撃が頭を揺らして目が回る──
「クラウス!?」
ソフィアが悲鳴を上げる、貴女をあの恐ろしい魔物から守らなくちゃ。クラウスは呻きながら立ち上がった、左耳にひっかかっているだけの眼鏡の残骸を投げ捨てる。ニヤつくマラキオンを、その腕にしなだれかかる母を睨み、魔法を紡ぎながら手を掲げる──魔法が完成する前に、今度は左側から衝撃に襲われ、床に叩きつけられた。
「うぐっ……!」
「クラウス、クラウス!? やめてヴィー、その方がやってるの!? やめていただいて!」
クラウスはよろよろと立ち上がる、また衝撃が右から襲い来るが身体を覆う結界が発動した、ふたつの力が拮抗してばちばちと火花が飛ぶ。クラウスは自身の魔法が感じる圧を受けて呻く、結界の表面にみるみるうちにひびが入り、三度クラウスは弾かれ、床に臥した。
「あぐっ……」
(強い……)
急場しのぎで多少簡略化したとはいえ、強固な結界を張ったはずだった。日頃クラウスを誘惑しに来るマラキオンであれば、クラウスに触れることが出来ずに怒り狂って立ち去るのが常だった。その結界をやすやす壊すなど、強さの桁からして全く違う。いつものような魔物の切れ端ではなく、本体、あるいはその一部だけでもこの場に来ているということなのか?
「ははは、見ろリヴィディア、其方の息子の無様なことよ」
「ええ、妙なところで聞き分けが悪くて、嫌になりますわ」
「ならば連れて来なければ良いだろう」
「どうせ皆まとめて記憶を消すのですもの、いてもいなくても同じかと思いましたの」
「はは、言い訳しおって。其方も息子には甘いな」
「うふふ、ええ、そうかも知れませんわ」
マラキオンはクラウスの知らぬ名で母を呼び、呼ばれた母は至極当然とばかりに頷き、魔物の毛深い腕にに寄り添う。魔物と母が見知った仲であるなど予想だにしなかった、ではあの魔物による責め苦の日々は母の差し金だったのか? それとも母はマラキオンにその魂を売り渡したのだろうか? 何故、なぜ、どうして……! 叫ぼうとする度に喉が焼ける、口の中が血の味で満ちていく。母は──リヴィディアと呼ばれたその女は、クラウスが猶も立ち上がろうとするのを見下ろし、ふ、と嘲笑を浮かべた。
「さあ、クラウス。身の程を知ったでしょう」
クラウスが息をするたびに、肩が大きく上下する。
「マラキオン様はお前には理解の及ばない、崇高な使命のためにやや子を欲しているのです。まだ邪魔をするというのなら、容赦はしませんよ」
頭が脈動に合わせて割れるように痛む。肩や腰がうまく動かない。それでもクラウスは立ち上がり、オリヴィアを、マラキオンを睨むと、ソフィアと彼らの間に立った。
「クラウス……」
どれほど身体が痛んでも、名を呼ばれてしまうと、この胸は疼く、指先が震える。振り返ると、身体を起こしたソフィアが酷く怯えた顔をして自分を見上げている。
「ソ……フィ、逃げ、て」
焼けた喉から出た声は酷い有様だ。
「クラウス……逃げるって……貴方、あちこち怪我して……あの方のこと知ってるの?」
「あか……ん……ぼ……」
また喉が、口が、かっと熱くなった。ソフィアが悲鳴を上げる。ごめん、ソフィ、具合が悪いのに酷いのを見せて……クラウスは転倒を耐え、涙を拭いもせずにソフィアを見た。
「殺さ……る、あか……逃げ、て」
「……赤ちゃん?」
クラウスが頷くと、ソフィアは宝石のような瞳を見開く。もともとよくない顔色が、更に青ざめて真っ白になる。
「クラウス……貴方、この子を守ってくれてるの?」
クラウスは頷く。言葉を発しようとしたが、もうそれは苦しげな吐息にしかならなかった。
「ソフィ、誤解しないで、クラウスは勘違いしているの。わたくしこそその子を守ろうとしているのよ!」
「ヴィー……」
オリヴィアの怒鳴り声に、ソフィアは困惑を隠さずにそちらを見た。
「その方は……貴女のことを、リヴィディアと呼んだわ。私のオリヴィアはどこ?」
「……ここにいるわ、わたくしの可愛いソフィ」
「……それとも、初めから全て嘘だったの?」
「いい子だから、ソフィ」
オリヴィアは薄く笑いながら手をかざす。ソフィアが呻いてベッドに倒れ伏す。その背中、寝間着の生地の下、白い光が漏れ出ているのが見える。クラウスは気色ばんでソフィアに手を伸ばそうとしたが、その形のまま全身がぴくりとも動かなくなった。クラウスは唸る。ソフィアがその様子を横目に見上げている。
「クラウス……私、いろんな本を読むでしょう」
額に汗を浮かべながら、ソフィアは苦しげに呟く。
「子供の頃は、フェアウェル以外の国のおとぎ話を読むのが好きだったの……その中に、ヴィーが持ってきてくれた、ベルモンドールのおはなしもあったわ」
クラウスは何とか身体を動かそうとするが、僅かながらも抵抗できた先ほどまでとは違い、氷になってしまったかのように全く動かすことが出来ない。頷くやら瞬きやらも一切できない、呼吸すらも危うい。
「そこに……時々、魔女が出てきたの。大昔から生きている、古い魔物の手下」
一方のソフィアは苦しそうに顔を歪めながらも身体を起こした。ああ、ソフィ、無理しちゃだめだ。でも逃げないと、貴女を安全なところに逃がさないと。
「……思い出したの、その魔女の名前……」
うつろで心細げだった王妃ソフィアの緑の瞳が、ゆっくりと醒めていく。マラキオンがフンと鼻を鳴らし、オリヴィアも悩ましげに微笑みながらじっとソフィアを見る。
「誘惑の魔女……リヴィディア・フェロス」
魔女という言葉は、驚きよりも納得をもってクラウスの耳に届く。
「ねえ、違うと言って、……ヴィー?」
ソフィアの血色の悪い手が、大切なものを守るように、下腹をそっと撫でる。
「懐かしい名前をよく覚えていたこと、ソフィ」
クスクスと笑ったオリヴィアを見て、ソフィアは酷く傷ついた顔をした。クラウスの目の前で愛らしい顔がくしゃくしゃに歪み、緑の瞳からぽろりと涙が零れ──やがて、うつむいて、唇を噛む。
「……ヴィーを返して……」
(……ソフィ……!)
「リヴィディアなんて知らないわ、ヴィーを返して!」
ソフィ、ソフィ、違うんだ、貴女のその想いすら、あの女のせいなんだ! あの女は僕が小さい頃から魔女だった、僕達はそれを忘れさせられていただけなんだ……貴方が傷つく必要なんてない、あの魔法文様を消しさえすれば! ソフィ、ソフィ、ソフィア!
「ねえクラウス、この人たちは赤ちゃんを狙う悪者で、貴方のお母様はこの魔女たちに捕まってしまったんでしょう!? ねえ!!!」
泣きわめくソフィアをとても見ていられない、クラウスはこの身も千切れよとばかりに腕に、足に渾身の力を込める。一歩でも、指先の一本でも動いてくれれば! 首の後ろの裂傷が、あちこちの打撲の痛みがいちいち全身に響く、べたついた汗が止まらない。
「ああ、ほら……息子が出しゃばったせいで、面倒になりましたわ」
「何を言う、慟哭こそ我が喜びぞ。良い声で啼くではないか」
「声が大きければ大きいほど、記憶を消して回るのが面倒になりますのよ」
「それは其方ら人間の都合であろう」
オリヴィアとマラキオンは犬の喧嘩でも眺めているかのような口調でニヤニヤとしている。
「見よ、ヘレニアに生き写しではないか。余が触れられさえすれば、壊れるまで抱いてやるものを。……どれ」
マラキオンは大股にソフィアのベッドまで歩いて来た。ソフィアは悲鳴を上げて反対側の端まで後ずさる。クラウスは最悪の光景を想像してしまい血の気が引く。マラキオンが自分の方を向いた、その長い爪を持つ手がこちらに伸びて来る。身動きが取れないクラウスの口元に手を伸ばし、濡れ落ち葉を剥がすように、何か見えないものを無造作に引き剥がした。肉が裂けるかのような激痛にクラウスは叫ぶ──声が出る!
「ソフィアに触るなマラキオン! お前の狙いは僕だろう!」
叫び声に呼応し、あの黒い炎が一気に身体から噴き出た。ソフィアが怯えて目を見開く、見ないでくれ、ソフィ!
「相も変わらず美味なる炎であることよ、傀儡の王子よ」
マラキオンは獲物を見る蛇のような目でクラウスを見ると、大きな手でクラウスの首を無造作に掴んだ。同時に硬直していた身体の自由が戻るが、マラキオンの手がクラウスを空中に持ち上げる。自重が全て自分の気道を絞めにかかってきて、クラウスは藻搔いた。
「母上が魔女かどうかなんてどうでもいい、お前はソフィアと赤ん坊に手を出すな! 僕が欲しいんだろう、僕を連れて行け、そして今すぐ僕と共にここから立ち去れ!」
「威勢ばかりいいことよ」
マラキオンは口の端を歪め、ぎりぎりと首を握る力を強くする。
「其方の身体でこの女を犯してやりたいところだが、余とて契約の対価を反故にすることは出来ぬ。どうだ、対価を変える気はないか」
「ない!」
「はは、口惜しいのう、だが致し方のないことだ。のう、リヴィディア」
「ええ……」
オリヴィアは吊るされたクラウスを見上げ、ベッドの端にうずくまるソフィアを見やり、クスクスと笑う。
「やっと、凛子様を見つけたのですもの」
魔物と魔女の瞳は、期待に満ちてギラリと輝く。
「如何な凛子様と言えど、産道から産まれてしまえば神々の手に渡ってしまう……だから必ず、やや子のうちにこちらにお連れ申し上げるのよ」
「……連れて……行く……?」
「もとより殺すつもりなどないと言ったでしょう、クラウス」
「そういうことなのだ、愚かで可愛いクラウスよ。其方の姫は余が直々に愛でてくれよう、光栄に思え」
「何の……話だ!!!」
クラウスは叫んだ。何とか拘束を逃れようと足掻くが、吊るされた身体ではマラキオンの腕に爪を立てるのがせいぜいだ。マラキオンの哄笑が部屋中に響き渡る、オリヴィアが嬲られる息子を蔑むような笑みを湛えて眺めやる。魔物の腕の力が強まり爪が首筋に、頭蓋に食い込む、クラウスは呼吸が危うくなり、意識が遠のくのを必死に耐える──
「……そう。この子は、リンコと言うのね」
うなだれていた王妃ソフィアが、水面に広がる一滴の波紋のように呟いた。
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