37-9 君を見ている 罪を焼く業火①
押し開かれた扉が軋む音に、唸るような声がぴたりと止まる。
「……クラウス?」
か細い声が自分の名を呼んだ。クラウスは咄嗟に前に一歩出るが、すぐさま喉がかっと灼け、身体の自由が効かなくなった。傍らの母に視線をやると、オリヴィアはぎろりと自分を見返して、しずしずと一番に入室した。余計なことをしたら失神させる、母の冷徹な言葉がクラウスの脳裏に蘇る。
「妃殿下。オリヴィアが参じましたよ」
「ああ……ヴィー」
声は落胆と甘えを隠そうともしなかった。喉の熱が引き、身体が自由を取り戻す。オリヴィアの後について慎重に足を進める。何度か見た室内には医師やメイドが控えていたようだが、母が来たと見るや入れ違いに外に出ていった。室内は母と自分と、それからベッドの上のソフィアだけだ。
母はあの手紙を見て、ソフィアは母を呼んでいると言った。でも……違ったのか? 彼女は苦しみのさなか、父でもなく母でもなく、フェリクスですらなく、僕を呼んでいてくれたのだろうか? オリヴィアがソフィアのベットの枕元まで行く。クラウスもその横に並ぼうとしたが、身体を拘束する見えない力に阻まれて、ベッドの足元側から二メートルほど離れたあたりから前に進めなくなる。
「あのね、お腹が痛くて、とても苦しいの……ヴィクトルは今週はまだ帰って来なくて、私、心細くて……」
「そう……可哀そうに、わたくしの可愛いソフィ」
「ヴィー……」
震える声にはいつもの朗らかさなど全くない。室内は魔法ランプの灯を極力落としているようで、目が慣れてもここからではソフィアの表情まで見ることは出来ない。
「ヴィー、私ね、クラウスに会いたいの……来ているんでしょう?」
「ええ、そうね、落ち着いたら会うといいわ」
「ええ……でも」
「ソフィ、まずは自分が良くなることを考えなさい」
女二人の会話は、気の置けない間柄の気安さをそこかしこに感じる。自分に会いたいとねだるソフィアの声は甘く、だがそれらが全て母に飲み込まれていってしまうように思えた。
(ソフィ……)
「ソフィ……可哀そうに。貴女の苦しみは、やや子が貴女に馴染めないせいで、貴女もやや子も苦しめているのよ」
「え……」
「ですから、やや子は在るべきところに還してあげましょう。あのお方の御許なら、その子も安心して暮らせるでしょう。このままでは貴女もやや子と一緒に死んでしまうわ」
「……そうなの……?」
ソフィアの声はとろりと蕩けている。クラウスは心臓が潰れてしまうのではないかというほどの圧と痛みを感じる。ソフィ、ソフィア。僕はここにいる、ここにいるよ……。
「さあ、これを飲んで」
オリヴィアは手にしていた小さな鞄から、黒い液体の入ったガラス瓶を取り出した。香水瓶のように繊細な細工が施されたそれの蓋を開けると、ふわん、と緑色の燐光が一瞬立ち上る。その、目の錯覚かと思うような淡い現象を見た瞬間、クラウスの全身がぞわりと怖気だった。
(なんだ、あれは……)
(赤ん坊を……どこに帰すって?)
(今光ったのは、なにか、魔法……?)
(ソフィに何をするつもりだ……!?)
「これを……飲むと、どうなるの……?」
「貴女の身体を守ってくれるのよ、ソフィ」
身を乗り出してもどうしても前に進めない。声を出そうとしても死にかけの魚のような呼吸をするのがやっとだ。ソフィ、駄目だ、貴女も魔法文様のせいであの女の言いなりなのか? 理由は分からないけれど僕の直感が駄目だと言っている、駄目だ、ソフィ。
「ヴィー……あのね、赤ちゃんが苦しがってると思うの、それを飲んだら赤ちゃんも楽になれるかしら?」
「ええ、とても楽になるわ」
暗がりの中でも、母が笑みを深くしたのが分かる。
「そう……」
クラウスは歯軋りをする。骨が折れるのではないかというほど首の後ろ側が痛む。激痛に耐えかねて身体を折り、首筋に手を当てる──前に進まないのなら身体が動く、手当たり次第にひっかけば魔法文様を壊せるかもしれない! クラウスは両手の爪を首筋に立て、渾身の力を込めて掻いたが、激痛が本能的に手を怯ませて皮膚の上を滑っていく。
「それを飲めば……私も、この子も、いい子でいられる?」
ソフィアの掠れた声が、不安そうに曇る。
【いい子でいなかったら……私はもう、ここにはいられなくなってしまうわ】
雷鳴の中で聞いた金の小鳥の歌が脳裏に蘇った。ソフィ、貴女は、あの酷い文様で心までも操られていると思っていた、母の言うことに何の疑問も持たず、ただ盲目的に慕うようになってしまうのだと。
「ええ、二人とも、とてもいい子よ」
「そうなのね……」
でも違う、違うんだね、ソフィ! 貴女は僕の知るソフィのままで、置いていかないでと僕の手を握った、あのソフィと同じままなんだ、ソフィ、ソフィ、ソフィ! 駄目だ、それを飲んでは、身体よ動け、どうなっても構わないから!
「ヴィーが……そう、言うなら……」
母が差し出した小瓶を、ソフィアが受け取ろうと手を伸ばす。ソフィ、駄目だ、反射的に叫ぼうとして喉が焼け落ちるほど熱くなるが、クラウスは構わずに首筋を掻き続ける──右手の爪が割れる感触と共に、がり、と皮膚と肉が抉れた。張り詰めていた糸が切れるようにがくんと膝が落ちる、足が前に出る、その瞬間クラウスは駆けてオリヴィアに飛び掛かり、その手から小瓶を引き千切らんばかりに奪い取り、壁に向かって投げつけた。
「クラウス!?」
小瓶は割れ、中の黒い液体が飛散する。先ほど見たのと同じ緑色の燐光がぼわんと上がる。
「──ソ、フィ……ッ!」
ごめん、と叫びたかったが、呼吸すら奪う締め付けはそれを許さなかった。クラウスは驚くソフィアに手を伸ばす、背中の文様を壊さないと! だがその手が触れる前に鞭で打たれたような衝撃が走り、全身の自由が奪われ──いや、鈍くはなったがまだ動く、泥の中を這うような速度で振り返ると、眉を吊り上げた母がゆらりと立ち上がるところだった。
「クラウス、どうしたの!? これ、血!?」
「……クラウス」
名前を呼ばれると、創傷が、その奥がどくんと蠢いた。それとともに身体の自由を奪う力が強くなる。オリヴィアがこちらに向かって手をかざすと、強烈な耳鳴りがして意識が遠のいていく、クラウスは舌を噛んで気を保つ。魔法を放ちたいが呪文が声にならない、焼ける喉を堪えて、一番慣れている結界の魔法をゆっくりと紡いでいく。
「クラウス。そこをどきなさい」
首を振るクラウスに、オリヴィアは苛立ちを隠さない。
「クラウス……?」
ソフィアがこちらの様子を窺っている。クラウスは肩越しにソフィアの方を見た、腹の膨れは布団の上からではまだほとんど分からない。やつれて苦しそうで、けれど誰よりも美しい愛しい人。そこに宿る奇跡は、本当に、僕の生命を受け継いでいるのだろうか?
「クラウス。どきなさい」
オリヴィアはつかつかとこちらに歩み寄ると、自分より背が高くなった息子の頬を容赦なく叩いた。女の腕から放ったとは到底思えない重い衝撃がクラウスを襲う、顔面ごとベッドの上に叩きつけられ、紡いでいた結界の魔法が霧散してしまった。眼鏡がずれる、そのまま目に見えぬ重量がクラウスの頭を押さえつける。
「きゃあ、クラウス!? ヴィー、なんてことをするの!」
ソフィアが叫び、クラウスへと手を差し出した。弱々しく震えている手がクラウスの肩のあたりを押さえる。ソフィ、ソフィア、会いたかった。貴女を守らないと、恐ろしい魔女から、貴女と、お腹の中の子を。その子が父上の子でもいい、僕とフェリクスの弟か妹を、貴女が愛しげに赤ちゃんと呼んだその子を守らないと。
「ヴィー、どうして! クラウスに酷いことしないで!」
倒れ伏す自分を、悲鳴を上げるソフィアを、オリヴィアはじっと見る。
「何もするなと言ったでしょう、クラウス。なにか勘違いしているのではなくて?」
オリーブ色の瞳が自分を捕らえる。苛立ちも露わなその眼差しを見るだけで、心臓がえぐり取られるような心地になる。視界の隅に映るソフィアも小さく息を呑んで身体をすくませる。ソフィ、怖いよね、ソフィ、僕が守るから……。オリヴィアが再び近付いてきて、クラウスの喉元に向かって手を伸ばす、喉を焼く熱がいよいよもって酷くなり、何か焦げるような匂いすらしてくる。クラウスは呻き、それでも首を振る。
「やや子を然るべきところにお連れするだけよ、今と何も変わらないわ」
それはつまり、赤ん坊を殺すんだろう! 叫び声が激痛に変わりクラウスは呻く。オリヴィアは苛々と顔をしかめ、もう一度クラウスに向かって手を掲げる──その時、不意に、部屋の中の空気がぐにゃりと歪んだ気がした。
「リヴィディア、そう急ぐな」
虚空から男の声がする。ソフィアは首を傾げたが、クラウスは目を見開き息を呑む。何度も聞き苛まれた声が、壁のあたり、あの割れた小瓶から零れた黒い液体のあたりから聞こえて来る。床にまき散らされた黒い液体が、生きているかのように蠢き、一か所に集まり、空中に浮かんで黒い球体となる。その小さな球体から、褐色の男の腕がにょきりと生えてきた。
「愛し子をあまり苛烈に責めてくれるな、余の楽しみがなくなる」
腕がもう一本生え、固い扉を開くような動作でぎりぎりと虚空を開いていく。黒い液体が裂けめの形に広がり、そこから筋骨隆々とした男が這い出てきた。紫の髪に金の瞳、褐色の肌と山羊の角を持つ大柄な男。目を見開くしかできないクラウスの前で男は悠々と立ち上がる。母は腑に落ちない表情のまま、古き魔物に向かって頭を下げる。
「生まれる前から父親気取りとは殊勝なことであるな、クラウスよ」
魔物は母の頬を舐るように触れる。母は愛しげにその腕に手を添わせる。クラウスは目の前の光景が信じられない、身体が震えている、それは怒りなのか恐怖なのかあるいは全く知らない感情なのか、もはや自分でも分からない。
「マラ……キオン……!」
絞るような声で名を呼ばれ、マラキオンはニイと口の端を上げた。
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