37-8 君を見ている 灼かれた声

 蛇となり蠢いていた母オリヴィアの髪が、悪夢から覚めるように元に戻っていく。


「お入りなさい」

「失礼いたします」


 扉が開き、オリヴィアの執事が入室する。銀盆に手紙と小刀を載せたものを母に向けて差し出す。オリヴィアは肘掛椅子から立ち上がると無造作に手紙と小刀を取り、封を開けて便箋に目を通した。銀盆に戻した小刀が暖炉の光を受けて鈍く光る。執事は無表情で控えているが、ちらりとクラウスを、恐怖と焦燥を消し切れていない女主人の息子を見て、悲しげに口許を歪めた。クラウスは息をするのも忘れ、彼とオリヴィアを見比べる。母は美しい、何年も変わりなく同じ容姿を保っている。そして恐ろしい魔性を持っていて、自分は幾度となくその記憶を消されてきた──彼は知っているのだろうか、彼女の正体を? 邸宅の大人たちは、知ったうえで仕えているのか、それとも何も知らされていないのか? そんな恐ろしいモノが、神の末裔たる国王ヴィクトルと臥所を共にしていると知っているのだろうか?


「……使者殿はお待ちなのね?」

「はい、出来れば奥様にご一緒いただきたいと、その、仰って」

「そうね」


 僅かばかり躊躇った執事の言葉を遮ると、オリヴィアはため息をつきながら便箋を銀盆に置く。


「支度をします、馬車の用意を。使者殿はよくよく労って差し上げなさい」

「は」


 執事は頭を下げ、礼儀を損なわない範囲で可能な限り急いで立ち去った。扉が閉まると彼のなりふり構わない足音が廊下に響く。「何もかも完璧」を体現する彼女は、足音が聞こえなくなるまでじっと扉を見ている。


「……ソフィアが、どうかしたのですか?」


 ありったけの度胸を振り絞ったはずの言葉は、それでも震えて掠れて消えかけていた。オリヴィアは一度ゆっくりと瞬きをすると、じろりとクラウスを見る。


「……お加減がよろしくないそうよ。うなされて、わたくしを呼んでいると」

「……母上は、今から妃殿下の許に参じるのですか」

「ええ、可愛いネコが弱っているのを放っておけないでしょう」

「猫?」


 母は微笑んだだけで答えなかった。頭上から見下ろされている記憶ばかり強く残っているが、目の前の母は自分よりも背丈が低くなっている。


「さあ、支度があるから、お前は下がりなさい」


 女の手が虚空に持ち上げられる。その手から、全身から、魔法の気配が立ち上がる。見えない手がそろそろと差し出され、クラウスの脳に触れようとしてくる──


「僕も連れて行ってください、母上」


 忍び寄る忘却魔法の気配が、ぴたりと止まった。


「……お前が来て何になるというのですか」


 オリヴィアはじっとクラウスを見上げる。眼鏡の奥で険しい光を宿す緑の瞳、更にその奥を透かし見ようとするかのように、眉根を寄せて首を傾げる。


「……いけませんか、幼い頃から可愛がってくださる妃殿下の心配をしては」

「…………」

「あの魔法文様をソフィアに刻んだのが母上なのだとしたら……僕は、母上、貴女を妃殿下から遠ざけなければなりません」

「殊勝なこと」


 オリヴィアはニイ、と笑うと、肩を揺らしながら笑い声をあげた。そのまま肘掛椅子にもたれかかり、左手を虚空に向かって振る。その瞬間、どうしたことか、女の姿が揺らぎ、全く同じもう一人の母がクラウスのすぐ横に現れた。


「うわっ!?」

「やれるものならやってみなさい。お前如きが、このわたくしを止めるなど、自惚れも良いところです」


 驚いてしまったクラウスを見て、二人目のオリヴィアはニヤニヤと笑う。一人目の彼女がぱんと手を打ち鳴らすと紫色の光が二人を包む。光が消える頃には、二人とも全く同じ、深緑色の外着を身に着けている。完璧な化粧が施され、揺らいでいた髪もきっちりと結われ、鞄まで持ち、すぐにでも出発できそうな出で立ちであった。


 分裂も、衣服の交換も、どちらもかなり高度な古代魔法だ。


「母上……やはり貴女は、古代魔法の使い手なのですね!? あの魔法文様も貴女の仕業なんだ!」


 クラウスは声を荒げて母──すぐ近くにいる二人目の母に詰め寄ったが、母はクスクスと笑いながら指先で何かを弾くようにした。その瞬間クラウスに猛烈な重力が襲い、無残に絨毯に叩きつけられる。


「やめ……ろ……僕も……」


 床に伏して藻掻くクラウスを見て、二人目の母は満足げに微笑み、扉から出て行った。


「ま……待て……!」

「落ち着きなさい。お前は行くのならわたくしと行くのです」


 部屋に残った一人目の母がゆったりとした口調で言う。背中に巨大な岩が乗っているようで全く身動きできないクラウスは、目線だけを何とか女の方に向ける。オリヴィアは薄く笑うと、肘掛椅子の木枠の部分をこんこん、と音を立てて叩いた。クラウスが這う絨毯のすぐ横が淡く光る。光はクラウスからは不規則に重なっているように見え、極北の国の夜空に現れるという光のカーテンはこんなものだろうか、と頭の隅で考える。


「いいですか。随伴するというのなら、何も話さぬこと。何を見ても何もせぬこと。今からお前の口を封じ、わたくしの意にそぐわぬ行動をすれば、気を失わせます。それが嫌なら自分の部屋に戻りなさい」

「構いません……何も知らないよりマシです」

「威勢のいいこと」


 服が擦れる音がして、視界に影が落ちた。首元にひやりとした女の指先が触れる。先ほどちりちりと痛んだ首筋に、氷のように冷たいものが注ぎ込まれていくのが分かる──自分に刻まれた魔法文様に魔力を足しているのだ。母の手は首筋を離れるとクラウスの口許から喉にかけてをゆっくりと撫でた。触れたところがびりびりと痺れる。息が苦しくなり、呼吸をするのがやっとで、なにか声を出そうとすると喉がきゅっと締め付けられてむせ返る。オリヴィアはその様子を満足げに眺め、ぱん、と手を打ち鳴らした。クラウスを押さえつけていた質量が消える。クラウスは身体を起こしてぜえぜえと呼吸する。喉を押さえながら絨毯の光を見下ろすと、それは複雑な魔法陣の文様を成していた。


(……これは……)


 目を見開いたクラウスをオリヴィアはどこか面白そうに眺め、手を伸ばしてクラウスの腕に自分の腕を絡めた。ちょうどエスコートのような形になり、クラウスは母に引かれて魔法陣の中に足を踏み入れる。母も魔法陣の中に入り、また手を打つと、辺りの景色がぐにゃりと歪んだ。クラウスは驚き叫ぼうとするが声が出ない。上が下に、下が上に、左右はグルグルと入れ替わって判別できなくなる、色が混ざって全て闇の中に消えていく──眩暈がして、自分が立っているかどうかも分からなくなって、ただ母の手に縋る。オリヴィアが笑ったのが聞こえたような気がした時、ちりん、とどこかで鈴の音が鳴り、すべてが正常に戻った。


「……奥様、お待ちしておりました」


 淡々とした声が聞こえる。あたりは母の部屋でなく、誰か別の人物の私室のようだった。建物は豪奢だが調度品は簡素で、魔法ランプがひとつだけ卓上で燃えている、ちょうど住み込みの使用人の部屋のよう──そう思ったクラウスの視界に見たことのある人物が映る。それは面会の度に顔を合わせた、あるいは見かけていた、ソフィア付の侍女だった。


(これは……)


「不便なものね、人の手がなければ一方通行だわ」

「それでも便利には変わりありませんわ」

「そうね、ずっと馬車だなんてぞっとするわ」


(瞬間移動……!)


 古代魔法を扱う者であれば、是非とも会得したいと願ってやまない魔法の一つだ。だが奇跡にも等しい現象を起こす魔法は当然会得が難しく、また会得しても距離や人数など当人の技量によって大いに差が出る。王宮と邸宅は馬でも半日はかかる、その距離をクラウスと共に移動するなど、尋常ならざる魔法であった。


(なんて規模なんだ……)

(底が知れない……)


 クラウスが言葉を失っているのをよそに、オリヴィアは何事もないかのようなそぶりで歩き出した。侍女がそれに続き、クラウスの方を非難がましく見つめる。それでようやくクラウスも我に返り、二人の後に続いた。行く先は想像するまでもない、ソフィアの寝室だ。寝室の扉までまだかなりあるうちから、まるで動物のような唸り声が響いている。


「……助けて……」

「……ソ……」


 思わず名前を呼ぼうとして、クラウスは喉の灼けるような痛みに呻いた。オリヴィアがこちらを振り返ってじろりと睨む。クラウスは諦念して唇を噛み、頭を下げる。


「助けて……」


 王妃の哀れな声に、廊下に控える侍従たちが沈痛な表情をしている。ソフィアの寝室の入り口まで辿りき、侍女が母の来訪を告げると、中から医者と思しきが出てきて首を振った。


「出来る限りのことはしているのですが……こればかりは、そういった運命だとしか……」

「そう」


 医者も、オリヴィアも、深刻そうな表情で頷き合う。そんなに悪いのだろうか? ソフィ、何が苦しいの? どんな助けが必要なんだ、赤ん坊も苦しいのかな? ソフィ、ソフィ。


「助けて……クラウス……」


 はっきりと、自分の名前が聞こえた。


「────!!!!」


 驚きは、叫びは声にならずに首を絞める。灼ける喉に構わずに声を出そうとすると、母がこちらを睨み、ぎりぎりと何かを潰すように手を握り締めた。喉の熱が強くなり、クラウスはうなだれる。


(ソフィ……ソフィ……!)


「妃殿下、大公夫人とご令息がお見えです」


 扉が開くまでが永遠のように感じられた。



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