37-7 君を見ている 焼け出された罪
忘却魔法によって失われた記憶は、記憶を形成するための粒どうしのつながりが断たれてはいるが、粒そのものは脳内に在り続けているらしい。
「……夜半にお時間をいただきありがとうございます、母上」
クラウスは背中がじわりと湿るのを感じながら頭を下げた。母の私室はよく温まってはいるが、汗をかくほどではない。それなのに一筋、二筋、流れ落ちる汗が服に沁み込んでいく感触が気持ち悪い。
「長くなるようならそこに掛けなさい」
「いえ……」
母は暖炉の前のもう一つの肘掛け椅子を勧めたが、クラウスは首を振る。さして気にした様子もなく、そう、と呟く母の声に、暖炉の薪がはぜる音が重なる。その間にも汗が流れ、手は震え出し、食い縛らなければ歯も鳴ってしまいそうだ。暑いわけではない。寒いわけでもない。それでも身体は、これから起こることを知っているかのように反応を示し続け、クラウスは唇を噛む。
(……堪えろ……)
一度消された記憶も、その記憶と似たような体験をすると蘇ることがあるらしい。クラウスが初めに考えていたような、読んだ本の記憶を消したとしても、その本をもう一度読めば記憶は蘇る。高度に応用された忘却魔法ではこの現象を利用し、特定の場所や言葉などに反応し消した記憶を引き出す、ある種の催眠術のような使い方もできると老サリヴァン師は言っていた。ただ、あまりにも高度すぎるため失われて久しく、老師も何かの書物でそのようなものがあると読んだことがあるだけらしい。
【……クラウス。いい子にしていなさい】
(……堪えろ……)
ざわざわと背を何かが這う感触は、嫌悪感からくるものなのか、記憶が呼び起こしたものなのか分からなかった。あの香りが身体を包んで眩暈がしてくる。クラウスは震える腕をさすり、ポケットからあの魔法文様を写した紙を取り出した。
「……母上。こちらをご覧ください」
肘掛椅子にかける母の許まで歩み寄ると、あかあかと照らされた母の顔が見えた。記憶と寸分違わない母の顔。日中はシニョンに結っているオリーブ色の髪は、夜なので背中で緩やかに一つ結びにしている。化粧は変えているのかもしれないが、肌艶も髪色も何一つ衰えない、幼い日と同じままのその姿。年齢が外見に出にくい者もいるが、母のそれは時間が止まっているかのように同質で、何もかも完璧だった。
母はけだるげに手を差し出して紙を受け取った。紅をつけた指先を口許に当て、ゆっくりと瞬きをしながら、傍らの息子をちらりと見上げる。
「……これは?」
「あるところで見た魔法文様です」
ヴィクトルとの対話で、大人とは自分の手札を安易に人に晒さないのだと学んだ。
「そう……これが、どうかしたの?」
「古代魔法の文字が書いてあって……施術をした相手に対して、絶対服従と、思慕の気持ちを抱くような意味があるようです。特に……女性同士の恋愛のような」
それは自分もであるが、相手も、何を持っているのかを推し量らなければいけない。
「昔に……娼館で、女主人が娼婦に刻むようなものだと聞きました」
「そう……それで?」
母は飄々としている。炎を映して揺らめく瞳は、じっと自分を観察しているのが分かる。それはポーカーの札の探り合いと似ているが異なる、ポーカーはカードの総数が決まっているが、今は互いに何をどれだけ持っているのか、推測の先は分からない。
「……母上はご存知なのではないかと思い、伺いに参りました」
きり、と首の後ろのあたりが刺すように痛む。
「そのために、アカデミーから急ぎ戻ったの?」
「……はい」
「娼婦の刺青を、この母が知っているかもしれないと思ったのですか?」
「……っ」
母の声に僅かに圧が含まれる。クラウスはそれだけで全身が硬直するが、拳を握り締めて耐える。
「母上」
暖炉側に向いた左半身だけが熱く火照っている。
「僕は刺青とは言っていません」
母の赤い唇が、きゅ、と形を変える。
「……そうね。この模様のことは知っていますよ」
左端だけ口角が上がり、眉毛が僅かに動く。
「それがどうかしましたか?」
「……母上が、この意味をご存知かどうかを知りたかったのです」
「そう……」
それが母の笑みだと理解できるまで、クラウスは硬直していた。母が見上げる自分は今どんな顔をしているだろう? 険しい顔をしているだろうか。怒りを押し隠したような顔? あるいは悲しみを堪え切れない顔なのだろうか。どれでもいい、どれでもいいんだ。今は完璧でないことを気にするな。僕の手札は多くない、どのカードを切るのかに集中しろ……。
「……僕はこの文様が、ある女性の身体に刻まれているのを見ました」
「娼館に行った、とでも言うの?」
「違います。僕がそんなことをするように見えますか」
「どうかしらね」
母はまた唇の片端を上げる。首の後ろ側がまたキリキリと痛む。そうか、もしかすると、僕の文様はここに刻まれているのか。ここでは自分では気づきようがない……。
「どれだけ品行方正にしていても、情愛への衝動だけは己を偽れないものです」
「……それは、そうかもしれません」
ソフィ。愛しいソフィ。
心臓が壊れてしまいそうだよ。
「僕が見た文様は、刺青ではなく、魔力で肌に刻まれていました。そうした施術の場合、施術者の魔力に反応して光ることが多いです」
「そう」
首筋が痛む、頭がガンガンと痛くなる、恐怖が背中を這いまわる。母に逆らうな、駆け引きせずにすべて洗いざらい話さなければ。己の犯した罪を告白して、その許しを請わなければ。
(……駄目だ)
(堪えろ……)
クラウスは耐え難い頭痛と吐き気に身を屈める。母が自分をじっと見ている、その手がゆるりとこちらに差し出されてくる──
「クラウス? 具合でも悪いの?」
「僕に……触るな……!」
指先が肩に触れ、首の後ろを撫でようとしたところで、クラウスはその手を払いのけた。ばちん、と魔力が弾ける音がする。汗が一気に噴き出し、その場によろめくが、もう一つの椅子に縋るようにしてなんとかその場に立つ。
「それは……隷属魔法なのでしょう、母上!」
「あら……」
母は払われた手を自分の方に引き戻しながら、クスクスと笑ってみせる。
「魔法? 何のことかしら」
「とぼけないで下さい……新年会の時も、僕に自白魔法を使おうとしましたね」
呼吸することすら苦しく、クラウスは肩を大きく動かしながら必死に話す。
「僕が見た、この魔法文様は……僕の魔力に反応しました。もちろん僕には、こんな魔法をその人にかけた覚えはありません。真ん中の、百合の意味が分からなかったのですから」
母は何も言わず、貼りつけ多様な微笑みでじっと自分を見つめているだけだ。
「僕は……貴女方がどんな関係なのか、分からなかった……けれど、形は違えど、それぞれ相手を思っているのだろうと……思っていました。母上……貴女は父上を愛し、ソフィアもまた愛しているのだと……思っていました」
心臓よ、もう少し静まってくれ。
言葉よ、僕の奥から這い出てきてくれ。
「何故……ソフィアの背に、こんな……酷いものを、刻んだのですか、母上」
僕は決めたんだ、ソフィ。
母を問い詰め、この手で──すると。
「貴女は……父上の愛妾となるために、ソフィアを利用したのですか。たった九歳だったソフィアを」
「……もし、そうだと言ったら?」
母はため息と共に肘掛に頬杖をついた。その背に流れるオリーブ色の髪が、ゆらりと揺れたように見える。
「その結果、生まれたのがお前なのですよ?」
「……愛妾になるのなら、わざわざこんな文様で細工をしなくてもなれた筈です。父上は女性に明るい方だと聞きました」
「何も分かっていないのね、クラウス」
母はクスクスと笑った。髪がふわりと空中に浮かび上がってゆるやかにうねり、何本かの束を成していく。クラウスはそれを見た瞬間に脳裏に稲妻が何本も走ったような衝撃を受ける。全身が恐怖に支配され、膝が震え、吐き気がこみあげ、それらを何とか堪えるが、もうとても立っていられない。
「陛下は色を好む方……けれど、百合を愛でるという、ご自分の欲望を未だ知らなかったわ。それをわたくしが見出して、花開くまで導いただけ……」
髪の毛束のひとつひとつが、いつの間にか蛇に変わっていた。その蠢く身体がぐんと伸びてクラウスのところまで這い寄ってくる。ちろちろと伸びる舌、独特の息遣い、僕はこれらを知っている。この蛇が僕を捕らえて、締め上げて、とても苦しい、逃げ出したくなる……。そして、最後に、忘れさせられるんだ。
「け、れど……百合に、挟まっては、いけないと……」
「お行儀のいいこと、クラウス」
クラウスの顔の近くを這う蛇の頭が、母の顔になる。口が裂けるほど大きく開いて笑い、細い舌でちろちろと舌なめずりをする。
「花は、誰かに愛でられるために美しく咲くのです。百合が咲いたなら、それは殿方を挟んで愛でられるために咲いているのよ」
「何を……言って……」
「……クラウス」
髪の蛇をうねらせる母が、肘掛椅子から立ち上がる。
「ソフィアの身体の文様のことを……お前は知っているのですね?」
「……っ」
「あの子のやや子は……お前の子なのですね?」
「…………」
もとよりそれを気取られることは覚悟していた。だが、言葉にして浴びせられると背筋が凍る。母はその様子をじっと観察すると、は、と軽くため息をついた。
「そう……それなら、手を変えればよかったわ」
「な……にを」
その時、部屋の扉が遠慮がちにノックされた。
「失礼いたします、奥様。王宮より早馬が来ました。妃殿下からです」
「そう」
母のオリーブ色の瞳が、ゆっくりと弧の形に細められた。
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