37-6 君を見ている 暗がりを照らす松明
クラウスは衝動に任せてアカデミーの外に出て辻馬車を拾った。一月も半ば、早くも日が暮れ濃紺の空に星がちらちらと光る。コートも鞄もクラスルームに忘れてきてしまったが、財布だけは制服の内ポケットに入れていたのでそのまま行先を告げる。ノーブルローズ以外に、自分が行く先は二つしかない。ソフィアがいる王宮か、母がいる、あの古びた絵画のような邸宅か。
猫背の御者が走らせる辻馬車は、丁寧に掃除されているが簡素な作りで、車内だというのに吐く息が白く曇る。そのうちに震えが酷くなり歯がガチガチと鳴ったので、小さな炎を出して結界で包むと、ようやく人心地つくことができた。曇っていた眼鏡を外して服の裾で拭いながら、もう何度目とも知れぬため息をつく。いつもは本でも読んでいるのだが、今日は持っていないし、持っていたとしてもとてもそんな気にはなれなかった。手持無沙汰に、先ほど自分で傷つけたばかりの掌を魔法で治す。
【ヴィー! お久しぶり!】
ソフィアが母を呼ぶときの声が鮮明に思い出される。思い返せば、ソフィアと母は友人というには距離が近すぎるような気がした。ソフィアは母を見ると蕩けるような笑みを浮かべて駆け寄り、その腕を取り、腰に抱き着く。嬉しそうに微笑んで、小言を言われるとむくれて、けれどその眼差しが何を見ているのかをずっと追っている。クラウスの小さな世界の中ではそれが当たり前で、他に比較のしようもなかったが、なるほど確かにアカデミーではそのように振る舞う女生徒たちは見かけなかったように思う。
【花街や娼館で、女主人が自分の店の娼婦に強制する類のものだぞ】
苦々しいエイズワースの言葉が頭の中で何度も繰り返される。発動させることのできない古代魔法文様でも、その刺青をしているというだけで主従の関係がはっきりと分かる。哀れな境遇の女たちを囲い込み、その心までも自分に縛り付ける。この魔法が効力を持っていた頃は、彼女たちはどんな扱いを受けていたのだろう。女主人に恋焦がれ、枕を共にするようなこともあったのだろうか? 逆らうことを許されず、自由に誰かを想うこと叶わず、ただ、道具のように消費されていく……。
(……ソフィ……)
貴女は僕が自分と同じだと思ったと言ったね。いい子にしていればきっと大丈夫、と自分に言い聞かせるように言った。僕は自由でどこにでも行けるとも言った。貴女の居場所はもう決まってしまったからとも……。変だと思ったんだ、僕には分からない大人のことを言っているんだと思っていた。でも、あれは、貴女の心ではなくて、貴女にかけられた魔法が、そう言わせていただけだったのか。
思考に耽るうちにようやっと辻馬車は邸宅についた。もう夕食も終わるような時分だが、焦燥感に胃が痛むばかりで空腹どころではない。閉ざされた正門の前に馬車をつけると、詰め所にいる門番二人がちらちらとこちらを見てくるのが分かる。御者も困ったような顔でクラウスに声をかけてきたが、財布の中身を全部御者に渡してやった。しわくちゃの顔の老人は飛び上がって喜び、クラウスの本当の従者であるかのように門番に朗々と来訪を注げる。よく知った顔の門番は怪訝な表情になって馬車の窓の方に視線を向け──クラウスは窓を開け、そこから半身を乗り出した。
「……ごめん、触れも出さずに来てしまった」
「ぼっ、坊ちゃま!?」
今度は門番たちが飛び上がり、一人が飛ぶような勢いで邸宅の方へ駆けていく。もう一人も慌てふためいて大きな鉄柵の門の閂を外して辻馬車を誘導する。門から邸宅までのアプローチ、先日降った雪がところどころに残っているのが夜の紺色の中に浮かび上がっている。正面に見える邸宅は真っ暗で静まり返っているように見えたが、玄関のあたりに魔法ランプが灯るのが見えた。扉が開いてクラウス付の執事が焦った顔でモーニングコートに袖を通している。玄関ポーチに辻馬車が到着すると、御者は彼のできる限り精一杯恭しくお辞儀をし、踏み台を置いて扉を開いた。
「……ラウル。みんな。ごめん、急なことで」
「お帰りなさいませ、坊ちゃま……珍しいこともあるものですね」
「うん」
クラウスが地面に降り立つまでに、ぎりぎり執事は身支度を終えたようだった。玄関扉から侍女が、他の従者たちがわらわらと飛び出してくる。執事は御者に手厚く礼を述べると、彼の手に小さな袋を握らせてやった。御者は頬を真っ赤にして喜び、何度も頭を下げながらもと来た道を戻っていった。
「あの、ラウル、急でごめん」
「とりあえず入りましょう坊ちゃま、コートもお召しにならないで! 身体を冷やします。夕食はどこかで召し上がったのですか」
「ううん、まだだけど」
「そうですよね、アカデミーからこの時間につくとなると寄り道などできない筈です……すぐに出るものを用意いたしますから、それまでお身体を温めて下さい」
忠実な執事はクラウスと対話しているのか、周囲の従者たちに指示を出しているのか、あるいは独り言なのか分からない。クラウスが扉をくぐり、玄関ホールに導かれるだけの間に、メイドや従者が走り、あちらこちらに火がともる。
「うん、ありがとうラウル、だけど急いでいるんだ」
「急ぐ? ええ、私は急いでおりますよ、私の坊ちゃまがお腹を空かせていらっしゃる」
「──クラウス?」
正面の大階段の上から声が降ってきた。クラウスは身体が飛び上がりそうになるのを堪える。直したばかりの傷が痛むような気がする。
「……母上」
クラウスは睨むように階段を、その頂上に立つこの屋敷の女主人を見上げた。自分が母と呼んでいる女は、寝間着の上に厚手のガウンを羽織り、けだるそうにこちらを見下ろしている。
「珍しいこともあるものですね。何か用事がありましたか」
言いながらオリーブ色の瞳を細める。所在なげにだらりとさせていた両手を組む形に直した。クラウスは身構えて一歩退きながらゆっくりと頷いて見せる。
「はい……母上にお伺いしたいことがあり、急ぎ帰宅しました」
「……そう」
寝支度をしていたはずの母は、紅を差したように赤い唇を微かに上げて微笑む。
「ならば、埃を落としてから私の部屋にいらっしゃい。食事をしてからでも構いません」
「承知しました。食事の前に伺います」
「そう。では後ほどね」
母はクラウスの顔をじっと見ると軽く鼻を鳴らし、それから踵を返して歩き去った。すぐ横で執事がしかめ面をしている。案の定すぐに食事をしてほしいと訴えてきたが、クラウスは首を振って自室へ向かう。懐かしい扉を開けると、室内の空気は冷たいが、もう暖炉にはあかあかと火が踊っていた。執事はどこかに行っていたが、クラウスの入室から五分もせずにやってきて、手には着替え一式を持っていた。
「こちらは国王陛下のお召し物です。坊ちゃまのお召し物は、その、今のお身体に合わないかと存じますので」
「……ああ、そうか。ありがとう」
この背丈になってから、冬の季節に邸宅を訪れることはなかった。背が伸びた一年目の夏期休暇の時に呆れるほど服を誂えられたが、この時期に着られる厚手のものは用意していないのだろう。ヴィクトルの服と思うと気が引けるが、丈の短い服を着ても窮屈なだけだし、何より母が顔をしかめそうだ──そう考えた自分に気が付き、ふと自嘲の笑みを浮かべる。
(価値観の基準に、母上が植え付けられてしまっているな……)
着替えをしている横で、メイドがサンドイッチとスープを載せた銀盆をもってやって来た。執事は執務机の上に銀盆を置く用意をしつつ、食べてからにしてほしい、さもなくばこの部屋に外から鍵をかけると訴える。クラウスは諦めて了承し、着替えも食事も手早く済ませた。
自室を出て、母の私室まえの道のりを歩く。廊下はしんと冷え切っていて、魔法ランプの明かりだけでは寒々しい。ヴィクトルの服は、丈はさほどではないがやはり身幅に随分と余裕がある。その分隙間が大きく、歩くたびに冷気が背中を撫でていくようだと思った。
母の部屋が近づくにつれて、あの痺れるような甘い香りが強くなっていく。
「……母上。参上しました」
「お入りなさい」
ソフィアの声が金の小鳥なら、母の声は楽器のようだった。弦楽器を弓で弾いたような、独特の艶と含みのある声。この扉の向こうで、その声を何度聞いたことだろう。
「……失礼します」
クラウスはそっと扉を押し開ける。部屋の照明はいつかの国王の部屋のように薄暗い。あかあかと燃える暖炉の眩しさが印象的だ。そのすぐ横に置かれた肘掛椅子に、母がゆったりと身を預けていた。母は自室に従者を侍らせるの好まない。あの香りが強くなる。そう、いつでも、母の記憶の隣にはこの香りがあった。どうして忘れていたんだろう、決して忘れるはずもないことなのに。入室する時の緊張した記憶はあるが、室内での出来事はあまり覚えていない、どうして覚えていないのだろう。
(……それは、きっと)
母上も、忘却魔法を使うからだ。
「では、話を聞きましょう、クラウス」
こちらを振り向いた女のオリーブ色の瞳が、ぎらりと光ったような気がした。
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