33-7 共に過ごした日々 寝言

 何か柔らかなものが手に触れる感触が、アンジェを現実に引き戻す。


 柔らかなものは左手に当たっていた。他にも手首のあたりを誰かが掴んでいて、左腕全体が宙に浮いているようだった。アンジェは重い瞼を開けて左の方を向く。窓から差し込む午後の日差しを受けて、ストロベリーブロンドがきらめいているのが目に入る。可愛い可愛いアンジェの恋人。アンジェの手は彼女に向かって差し出され、その掌を、リリアンが自分の頬を撫でる形になるように押し当てていた。だんだんと焦点が合ってきた視界の中で、紫の瞳が水面のようにゆらりと揺れる。目尻に、睫毛の際にだんだんと滴がたまってきて、今にもぽろりと零れ落ちそうだ──アンジェが指を動かして涙を拭うと、リリアンはアンジェの想像以上に驚いて飛び上がった。


「ぴゃっ、あのっ、アンジェ様、おっ、起きて」


 ベッドの脇に寄り添うように立っていたリリアンは、みるみる顔が赤くなる。ばつが悪そうにアンジェの手からぱっと手を離すが、アンジェは自分の意志でもう一度恋人の涙に触れる。


「……泣いていたの、リリィちゃん?」

「いえっ、あのっ、べべ、別に」

「……どうして泣いていたの?」


 リリアンは言葉に詰まり、唇を噛みながらじっとアンジェを見たが、すぐに自分に言い聞かせるように強く首を振った。


「なな、何でもないんですっ」

「何でもなかったら泣かないでしょう?」

「あ、あの、い、イザ! イザベラ様が、かっ可哀そうだなって……」


 視線を逸らし、誤魔化すように髪をかき上げ、リリアンはもつれる舌で必死に喋る。アンジェは手を引き戻すと、けだるさが残る身体をゆっくりと起こして周囲を見回した。見覚えのある本館の貴賓室、その中央に置かれた仮置きのベッド。扉と窓の向こうから文化祭の賑わいがかすかに聞こえてくるが、室内にはリリアンとアンジェの他に誰もいないようだ。


「フェリクス様は?」

「あっ、あの、ご用事だって、退出されました」


 どこか怯えたように、リリアンは自分の胸元で手をきつく握り締めている。アンジェはその様子をつぶさに観察すると、ゆっくりとため息をついた。この部屋に二人だけならば、秘密に配慮せずに話ができる。


「……イザベラ様が、どうしてお可哀そうなの?」

「あの、その……すっ、好きな人に、自分じゃない好きな人がいるって、辛いなあって……」

「……そうねえ」


 アンジェはリリアンをじっと見つめ、どこか自嘲気味に微笑んで見せる。


「わたくしも、そのお辛さはよく分かるつもりよ」

「で、ですよねっ」

「リリィちゃんがアンダーソンさんをお慕いしていた頃、彼が羨ましくて堪らなかったのだもの」

「……えっ」


 リリアンが目を見開く。


「アンダーソンさんを真っ直ぐに想うリリィちゃんは、とても一途で、きらきらしていて……どうしてあの眼差しの先にわたくしがいないのだろうと、浅ましい気持ちでいっぱいでしたわ」

「……アンジェ様……」


 リリアンが驚きと共に自分を見つめてくる理由が、アンジェには分からなかった。自分がエリオットを慕っていることをアンジェに話したのは、他ならぬリリアンではないか。自分の想いに気付かれてはいけないと必死に言い聞かせていた頃は、もはや懐かしく感じる。


「それで、どうして泣いていらしたの、可愛いリリィちゃん」


 アンジェがもう一度手を差し伸べると、ふわふわした頬に到達する前に、リリアンの両手に捕まってしまった。


「あの……アンジェ様……」


 リリアンは俯く。


「アンジェ様は、……私の恋人ですよね? 私のこと、大事に想って下さっているんですよね?」

「ええ、そうよ。この世でただ一人、リリアンさんをお慕いしておりますわ」

「…………」


 リリアンは唇を噛む。何故だろう、言葉が恋人に届かないように見えるのは。話せば話すほど、彼女の顔が、心が、昏く沈んでいくように見えるのは、どうしてだろう?


「……少し、フェリクス様と親しくしすぎてしまったかしら」

「あの……その、それもそうなんですけど……」


 アンジェの手を握るリリアンが、爪が食い込むほど強く力を込める。


「殿下は……お優しくて。私にも、気を遣ってくださってて……最近は、そんなに嫌じゃないです」

「……そう」


 アンジェはベッドから身を乗り出すと、右手もリリアンの方に差し出した。その手で肩を捕まえ、ベッドの上に引き上げるようにして華奢な身体を胸に抱く。リリアンは戸惑いながらアンジェを見上げたが、アンジェは頭を優しく撫でながら向きを変えさせ、リリアンの耳を自分のときめき二つに押し付ける。


「……聞こえる? わたくしの、心臓の音」

「……はい」

「どんな音がしているかしら」

「……とっても、早いです」

「でしょう」


 アンジェは両手でリリアンを抱き締めながら微笑んで見せた。


「リリィちゃんに触れると、いつもこうなんですの。全然慣れないわ」

「アンジェ様……」


 リリアンが、切なげな眼差しで自分を見上げてくる。そう思った瞬間、リリアンは目を見開き、それからようやっとにっこり笑った。


「今、ものすごく、どきどきってしました?」

「ええ」


 笑う自分の頬は、呆れるほど赤くなっているだろう。


「見上げるリリィちゃんが可愛らしくて……」

「……アンジェ様……」


 リリアンはくりくりした瞳でアンジェを見上げると、上機嫌に、嬉しそうに、アンジェの夢二つに頬を寄せた。自分の肩に触れていたアンジェの手を持ち上げると、それを自分の胸元に引き寄せる。


「私も、すごくどきどきしてます。……分かりますか?」


 夢の代わりの可能性を感じるそこは、リスが隠れているのではないかと思うほどに賑やかだ。

 

「……ええ」

「アンジェ様、どきどきしてて、……嬉しいです」


 ああ、ようやっと笑ってくれた。


 アンジェが安堵の吐息と共にもう一度目尻を拭ってやると、二人は互いに言葉の代わりを求めたのだった。




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