33-8 共に過ごした日々 グレースの告白

 このままこの時間がずっと続けばいいのにという願いは、遠慮のないノックの音にあっさり遮られた。


「失礼いたします。シュタインハルト嬢がお見えです」

「アンジェ。子リス。入るぞ」


 使用人の声に重なるようにしてルナの声がし、がちゃりと扉が開けられた。固い靴音と共にルナが──剣術部の模擬試合の妖精の格好の上に制服のジャケットを羽織っただけの姿の少女剣士が遠慮なく入室してきた。ルナは中央の簡易ベッドの上で身体を起こしたばかりのアンジェと目線が合うとぎくりとその身を強張らせ、彼女の後ろをおずおずとついてきていた黒髪おさげのグレースを眼鏡ごと目隠しした。


「……事後か?」


 妙に焦った様子で尋ねてくる。


「……下ネタも大概になさい。学校の、貴賓室でしてよ?」

「……だよな」


 アンジェが憮然として答えると、ルナはニヤニヤしながらグレースの目隠しを外した。窓の外はもう日が暮れかけていて、今日のローゼン・フェストはもう終わりの時間なのだろう。グレースは物珍しそうに貴賓室を見回している。ベッドの上では、ついさきほどまでアンジェが抱き枕のように腕に抱いていたリリアンが、目をこすりながら身体を起こしたところだった。


「あれ……私、寝ちゃってましたか? アンジェ様」

「おはよう、リリィちゃん。よく寝ていらしたわ」

「ええー……?」


 リリアンはアンジェに顔を覗き込まれてもぼんやりとしていたが、辺りを見回し、ルナとグレースがいるのを見つけると、ぴゃっと声を上げて寝台から飛び降りた。


「あっ、あああ、あのっ! あ、あ、アンジェ様が具合が悪くて、私、っ、でで殿下に、べべ、ベッドをご用意してくださって、あのっ」

「おうおうどうした子リス、そんなに焦るようなことでもあったのか」

「べべ、べっ、つに、アンジェ様、具合が悪くてっ、わ、わ、私」

「うん、アンジェが何だって? もっと事細かにナニをどうしたのか子細にわたって説明して見ろ」

「だっ、だだっ」

「およしなさいルナ、リリィちゃんも落ち着いて」


 リリアンはみるみる赤くなって慌てふためいて何かを弁明しようとしているが、慌てすぎてうまくいかない。ルナがニヤニヤしながら追求しようとしたので、アンジェはリリアンを自分の許に引き寄せながらため息をつく。


「わたくしが眩暈を起こしてしまって、フェリクス様がお部屋とこのベッドをご用意くださいましたわ。リリィちゃんはずっと付き添ってくださいました。それだけでしてよ」

「そそ、そです、アンジェ様の仰るとおりでひゅっ」

「落ち着いて、リリィちゃん」

「アンジェ様なんでそんなに落ち着いているんですか……」

「ルナおじさんの前で取り乱したらどんどんからかってくるからよ」

「……っ」


 リリアンは何か愕然としてひしとアンジェにしがみついた。アンジェがよしよしとその頭を撫でてやり、ルナはクックッと笑いながら肩をすくめる。グレースがルナの袖を引いて、遠慮がちに自分のスカラバディを見上げると、ルナは目尻を拭いながらも頷いてやる。グレースは顔を輝かせ、ニコニコしながらアンジェとリリアンの近くまでやってきた。


「リリアンさん、天秤ヴァーゲクラス、どうだった?」

「それが、並んでる時にアンジェ様の具合が悪くなって、結局いけなかったんだぁ」

「ええ……ごめんなさいね、リリィちゃん」

「あっいえっ、ぜぜんです、アンジェ様」


 慌てるリリアンと宥めるアンジェを見て、グレースはクスクスと笑う。


「明日か明後日で絶対行った方がいいよ! すごく素敵だった!」

「グレースさんは行ったんだ? 何やってるところなの?」

「うふふ、内緒!」


 グレースは頬を赤らめて胸元を大切そうに押さえると、後ろのルナを潤んだ瞳で見つめる。ルナも三人のところに歩いてきて、グレースのおさげ頭をぽんぽんと叩きながらベッドの傍らに腰かけた。


「ま、次はいつお目見えするか分からないからな。予定をこじ開けてでもいく価値はある」

「ええー、アンジェ様、そうすると明日殿下と三人でお約束してる時しかないですよ……?」

「そうねえ……」


 イザベラのクラスの出展内容を知っているアンジェとしては、フェリクスはさぞや感激して大騒ぎして、五体投地しかねない勢いだなと考える。フェアウェル王国に五体投地の文化はないが、そのためにアンジェが請えば常日頃二人の間に挟まりたがる王子は躊躇いなくやるだろうし、ルナの靴の裏ですら舐めるだろう。そもそも二人が入場した時点で自分に知らせてくれと言っていたのだから、もとより乱入する心づもりではあったようだ。


「まあ、ご一緒していただいてもよろしいのではなくて? きっとわたくしたち二人をご覧になるのも許して下さると思うわ」

「ええー……なんだろうー……?」

「それよりも……ルナ」


 首を傾げたリリアンを抱き寄せながら、アンジェは面差しを正す。


「……本当ですの? ヒカルゲンジって……」


 ルナは一瞬目を見開き、隣のグレースをちらりと見たが、苦々しい顔で頷く。


「本人に聞いたわけじゃないがな。よくよく見てりゃ見えてくるものはあるだろう」

「……そう……」


 現代日本の傑作古典の登場人物の人物相関図は実に入り組んでいた。彼らと同じように、クラウスの想い人が、本当に王妃ソフィアなのだとしたら。二人が同じ場所で相まみえる機会は少ない。私的な接触があったとして、それが人目につくとは思えない。庶子であるクラウスは王宮の行事には列席しない。あるとすると、先日の冬至祭のような伝統的な宗教行事の場で、大神官補佐として立ち会う時くらい──


(そうだわ……)

(冬至祭の時、妃殿下に松明を渡したのは、アシュフォード先生だった……)

(マラキオンからも……庇って……)


 あの時はアンジェも必死で、周囲の様子を注意深く観察している余裕など全くなかった。けれどアンジェがマラキオンに乗り移られて空中高くに吊り上げられた時、確かに、上背のあるクラウスが国王ヴィクトルと王妃ソフィアをその背に庇っていた。


「……もし……ヒカルキミと、フジツボだったとして……」


 唇が震え言葉をうまく紡げないアンジェを、ルナがじっと見ている。


「……あの方は……レイセンテイ、だと、思う……?」

「レイ……? ああ、そんな名前だったか」


 物語の中、レイセンテイは表向きは父王の子であるが、妃であるフジツボと主人公ヒカルゲンジの不義の子であることが物語後半に明かされる。ルナはアンジェの示す人物が剣術の兄弟弟子でもある王子であることに思い当たると、苦い顔のまま肩をすくめた。


「……ないだろうと思うがね。歳が歳だし、名前の理屈が通らんだろう」

「……そう、よね……」


 名前の理屈、とは、フェリクスのミドルネームであるヘリオスを指している。フェアウェル王国王家は代々ヘリオスの名を王国の守護神ヘレニアから授けられる。国王の子女が何人いようと、生まれ年や嫡子庶子は関係なくその中の一人に授けられ、そのため国王はヘリオスの名を継ぐ子を得るまでは子を成し続けることになる。それは現王家アシュフォード朝となる以前、フェアウェル王国創生の頃から受け継がれてきたものだという。国王ヴィクトルから王子フェリクスへ、確かにヘリオスの名が継承されているから、アンジェが危惧すること──フェリクスの父親がヴィクトルではない可能性はないだろう、とルナは言っているのだ。


「でも……ゲンジは、それを隠していて……レイセンテイはミカドではなく、ゲンジから頂いたということも、可能性として全くないというわけではないでしょう……?」

「お前……エグいこと考えるなあ」


 ルナは目を見開くと、クックッと笑いながらアンジェの背をばしりと叩いた。


「それはたぶんもう、連中の間で決着がついてることだ。お前は今知ったからあれこれつつきたいだろうが、皆々様には過ぎたことなんだよ」

「でも……」


 アンジェとルナの横で、リリアンとグレースが顔を見合わせる。


「事実を知ったところで、お前は何をするんだ? 当事者を捕まえて、道理にもとると説教でもして回るのか」

「いえ、そういうわけではなくて……」


 何の話か分かる? と小声で尋ねたリリアンに、グレースはニコニコしながら首を振った。


「お前もまだ若いな、赤ちゃんべべ・アンジェ。何でも不用意に首を突っ込むな」

「ルナおじさんと一緒にしないでちょうだい、わたくしまだ十六ですのよ」

「ショコラはアラフォーに片足突っ込んでたような気がするんだがな」

「貴女だっておじさんぶってるけどわたくしと同い年でしょう」

「ふふ、そうだな」


 いっつも分からない話するよねえ、と、一年二人はそれぞれのスカラバディをしげしげと眺める。


「ひっかきまわすだなんて考えていませんけれど……わたくし、ムラサキノウエが不憫でなりませんの」

「不憫?」

「だって……フジツボの、代わりとして見られていたのかもしれないでしょう……?」


 言ってしまったその瞬間、アンジェは悪寒に怖気だつ。


「……誰が、誰の、代わりだって?」


 親友の目線が、獰猛な殺気を孕んでじろりと自分を睨みつけている。


「……ルナ……」


 伊達眼鏡の奥、泣きぼくろの横。グレーの瞳の奥で、隠し切れぬ──あるいは意図的に漏らしている怒りが、ぎらぎらと煮え滾っている。リリアンがギョッとし、グレースが首を傾げ、だがアンジェは次の言葉を見つけることができない。ルナはアンジェを睨んだまま深くため息をつくと、目をそらし、自分の額をぱしんと叩いた。


「……悪い、アンジェ」

「……いいえ……」


 身動きが取れなくなるほどの殺気から解放され、アンジェは自分の両腕をそっとさする。


「オッサンになってもな、聞き流せないこともあるんだ。悪かった」

「……わたくしも、軽率な発言でしたわ。ごめんなさい、ルナ」

「……ルナ様」


 謝り合う二人をリリアンとグレースがしげしげと見比べていたが、グレースが唇をきゅっと噛み、ルナの前で姿勢を正した。


「……ムラサキノウエって、イザベラ王女殿下のことですよね?」


 グレースの眼鏡の奥の黒い瞳が、ありったけの勇気を灯してじっとルナを見上げている。


「王女殿下が、誰かの代わりになるのが嫌で、怒ったんですよね?」

「……グレース……」


 ルナは呆然としてグレースに何か言おうとするが、口を開いたまま言葉が出て来ないようだった。リリアンがルナの百倍は愕然として、だが声が漏れないように口許を隠し、アンジェの袖をぐいぐいぐいぐいと引っ張ってくる。アンジェがリリアンの背を叩いて宥めていると、グレースはルナの手をがしりと掴んだ。


「そんなに、王女殿下のことが好きなのに……どうして傍にいてあげないんですか?」

「……は?」

「あんなに綺麗な方が、誰かの代わりなんて信じられないですけど……でも、ルナ様は、王女殿下のことがお好きなんですよね。好きな人が辛いの見てて、辛くないですか? 私は今のルナ様を見てるのが辛いです」

「……何を見るのが辛いって?」


 真顔で聞き返したルナに、グレースは何か衝撃を受けてよろめいて、それからその目にみるみる涙がたまっていった。


「……もう! 何で自分のことだとそんなに鈍いんですか!? そういうとこほんっとオジサンだと思います! 馬鹿! ばかばかばか!」

「おい、グレース、何なんだ急に」

「ばかばかばかばか!!!!!」


 グレースは拳でルナをぽかぽかと殴る。傍らでリリアンも、顔を真っ赤にしながらアンジェの二の腕のあたりをぺしぺしぺしぺしと叩いている。ルナはしばらく怪訝そうな顔で首を傾げていたが、やにわに何か閃くと、にやけかけた口許をぱしりと抑える。


「おい……グレース……マジか……お前……」

「知らないです! いいんです、ルナ様が王女殿下がお好きなの分かってますから!」


 グレースはわっと泣き出し、呆然としているルナを激しく殴った。グレースの細い腕では大した力にはならず、ルナは殴られるままになっている。


「おい、泣くなグレース、分かった、分かったから」

「ルナ様なんで諦めてるんですか、あんなに王女殿下のこと大好きなのに、だから私、言わないでいるつもりだったのに! 王女殿下が大事なのも分かりますけど自分の気持ちも大事にしてください! アシュフォード先生よりルナ様の方がかっこいいです!!! ばかばかばかばかルナ様の馬鹿!!!」


 グレースの叫びにルナが、アンジェがギョッとし、リリアンがぴゃっと飛び上がる。その様子を見てアンジェは更に驚いてリリアンを凝視し、ルナが呻くような声を出した。


「……子リス、お前、グレースに何か話したか?」

「……ぴゃ、……ぴゃい」


 リリアンはルナに睨まれて、さっと青ざめながらアンジェの陰に隠れる。


「リリィちゃん……何を話したの?」

「あああ、あの、ごごご、ごめ、ごめんなささささいいいいい」

「リリアンさんは悪くありません! 私があれこれ質問したんです!」

「そうか……」


 色めき立ったアンジェを見ながらグレースが叫ぶ。リリアンは震えながらぶるぶると首を振る。ルナは盛大にため息をつくと、がりがりとシニョンに結ったままの自分の髪を搔いた。


「悪い、アンジェ、少しグレースと話してくる」

「……ええ、ゆっくりとお話を聞いて差し上げて。……グレースさん、わたくしも貴女と同じ意見でしてよ。聡明な貴女はきっと秘密を守ってくださることでしょう」

「はい、もちろんです、アンジェリーク様」

「アンジェ、ゆっくりしっぽりと行きたいところだがそうも言ってられないんだ、急ぎの件があってな。用件だけ今伝えていいか」

「まあ、なんですの?」


 泣きじゃくるグレースの肩を叩きながら、ルナは深く深くため息をついた。


「……ローゼンタールは俺の知ってる奴だった」


 親友の少女のはずのルナの顔が、面倒ごとに直面した男のように、険を伴ってしかめられる。


「今日この後、あの早漏粗チン野郎の講演とやらに顔を出してみるつもりだ。お前も来るか?」

「それは……シエナさんとシャイアさんがよく参加なさっている会でして?」

「そうだな」

「…………」


 アンジェも眉を顰める。昨日お菓子クラブに現れた二人の態度が思い出される。アンジェに攻撃を仕掛け、嘲笑うかのような物言いをして、温厚なクラウスが嫌悪感をあらわにして。人の話を聞いているようで聞いていない二人。マラキオンの名前に卑猥な意味が含まれていると、この世界の言語しか知らなければ決して思いつきもしないはずのことを言った、フェリクスとリリアンの弁護士。


(……転生者だというなら、会って話をしてみたい……)

(それをきっかけに、クーデターのことも聞けるかもしれないわ)

(止める手立てや、それでなくても何か糸口が見つかるかもしれない)

(アシュフォード先生のお話が聞ければ、イザベラ様のお役に立てるかもしれない……)


「……いいわ。リリィちゃんのお説教が出発時間までに終わったら、ご一緒させてくださいな」


 アンジェは傍らのリリアンをがっしと抱き締めながら、ルナににこりと微笑んで見せた。


「ぴゃあああああごめんなさいアンジェ様あああああああ」

「わーっリリアンさんごめんなさい、私のせいで!」

「いいの、グレースさんは頑張って! アンジェ様ああああ悪気はなかったんですうううう」

「言い訳はこれから聞きますから、お利口になさって、可愛いリリィちゃん」

「怖いですううううう」

「怖くするようなことをなさるのがいけないんでしょう」


 アンジェの腕の中でじたばたと暴れるリリアン、それを見て慌てふためくグレース、あくまでも微笑んだままのアンジェ。ルナは三人をしげしげと眺めていたが、やがて肩をすくめながらクックッと笑った。


「六時半に校門だ、いなけりゃ勝手に行く。子リスはいてもいなくてもいいぞ」

「承知いたしましたわ」


 アンジェが頷くと、ルナはニヤリと笑い、グレースを連れて部屋を退出していった。扉がぱたんと絞められると、貴賓室内はしんと静まり返る。


「さて……リリィちゃん」

「ぴゃ……ぴゃい」

「お話、聞かせて下さるかしら」

「ぴゃ……ぴゃあああああああああ」


 どこまでもにっこりと微笑んで見せるアンジェに、リリアンは号泣しながら謝り倒したのだった。




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